第32話 『コルラン辺境伯最大の弱点』
「レオン、お前のせいで俺は灰色の学院生活を送った。女は誰も傍に寄りつかず、愛の泉も枯れ果てた。真実の愛なら俺の中にいくらでもあったっつうのに、誰にも使えねえまま川に垂れ流しだ。澱んで腐って黒くなっちまいやがった。これもレオン、全部てめえのせいなんだぜ……」
なおも恨みがましく私の顔を見てくる。
私ははっきり言ってドン引きしていた。
「こ、こいつ言ってて恥ずかしくないのか……?」
もはや人間の尊厳すら金繰り捨てたとしか思えない。
ゾっとしている私の言葉を引き取ったのは、アーノルドだ。
「アントニー様は、さぞやおモテにならなかったのでしょうな。深く傷つくほどに」
「恨み節をぶつけられる私の身にもなってくれ」
「お顔の美しい方に、私どもの悩みなどわかりますまい」
「アントニーの側に立つのは冗談でもやめんか!!」
やれやれと頭を振っているアーノルドに突っ込んでいると、眼前の光景に動きがあった。アントニーが不敵に笑い、過去を開陳する。
「だから令嬢どもには、最後にゲームの駒になってもらったのよ。良心なら痛まなかったぜえ? 俺の青春を真っ黒に塗りたくったのはあいつらも同然だからな」
動機は、実にくだらぬことだ。しかしそのくだらぬことが発端となり、ブリアリン王国の貴族子女たちは死の淵へと立たされた。
どうやら私も本気で認定せねばならぬようだ。
この男、アントニーこそがブリアリン王国の国敵であると。
「どうあっても、貴様を逃がすわけにはいかぬようだ」
「勇ましいこって。だが忘れるなよ。こっちには人質がいる」
私は唸った。アントニーの言う通りだ。マリーヌ嬢の身柄を取り戻さぬ限り、こちらから打って出ることはできない。とここで、私は密かに近寄ったアーノルドから耳打ちを受ける。
「八方手詰まりです、レオン坊ちゃま。このままではアントニー様からマリーヌ様を取り戻すことなどできません」
「優れたる忠臣に今一度問う。なにか打つ手はないのか?」
場に不穏な沈黙が流れた。何事も即断即決、快刀乱麻に片づける老執事長にして珍しきことだ。
逆に言えば、この男をしてそれだけの時間を要する選択ということやもしれぬ。
「ひとつ、考えがございます」
「この膠着状態を打破できるならなんだっていい。言ってみろ」
またしても無言の時間が挟まる。アーノルドともあろう男をして、そこまで言いづらいことか。私もまた心中で覚悟を決めた。だが次に発されたのは、そんな私をしても信じられない一言だ。
「マリーヌ様に危険を呑んでいただくのです」
「ならぬ!!」
反射的に叫んで、躾けるようにアーノルドを睨みつけた。視線の圧はかなりのものであったろうが、この老執事に通用しないことは重々承知している。
「……それだけは、絶対にならぬ。なにがあろうと許可はできん」
「お言葉ですがレオン坊ちゃま、アントニー様はまだ手札を隠しておられるご様子。今追い詰められているのはあの御方ではありません。私たちの方なのです」
そんなことはわかっている。わかっているが、しかし……。
「マリーヌ嬢の身に傷ひとつでも負わせれば、ヴィクスドール公に申し訳が立たん」
「先方は理解してくださいます。それに、今はそのようなことにかかずらっている場合ではございません」
そのようなこと、だと……!?
今アーノルドはマリーヌ嬢の身を軽んじたのか!?
アントニーにも勝る怒りで見るも、老執事は悲しげに首を振った。
「どうかそのような眼でご覧にならないで。事態はそこまで逼迫しているのです。私たちが相対しているのは国敵。逃せばブリアリンの地は戦火に塗れましょう。そしてそれは、このコルランすらも例外ではないのです」
改めて諭されるまでもない、私とて理解していることだ。アントニーは危険だ。今ここで、必ず捕えなければどれほどの被害を引き起こすかしれぬ。
しかし、だからといってマリーヌ嬢の身を危険に晒すことなどできん。あのやさしい令嬢の身に、傷痕が残るようなことがあれば、私は……。
私の内側で、2つの力が引き合う。互いに譲ることのできぬ選択はジレンマとなり、私の心を搔き乱そうとする。深い懊悩が渋面となって私の顔に張り付いていたのだろうか、実に愉しげな様子でアントニーが見ていた。
「さっきからコソコソと悪巧みしてるみてえだな。いいぜえ? 俺からも推奨してやるよ。たっぷり考えてから、たっぷり後悔する選択を取るんだな」
「ぐぬ……」
思惑は筒抜けか。ここから打つ手などそれこそ……。
アーノルドは真剣そのものの表情で頷きを見せる。迷っているのは私だけだ。
心中の迷いを振り払うように、半ば捨て鉢となって抜剣した。
「剣か、だがさっきも言ったよなあ? 俺に決闘を飲む気はねえってよ」
「これは、私自身の迷いを断ち切るための剣だ」
全身に冷や汗を掻きながら、私はその切っ先を見つめる。
鋭い刃が、この優柔不断な心すらも両断できるように。
しかしその決意すらもまた、アントニーの眼にはヒントとして映る。
「なるほどな……この女、お前にとってそこまで大事か」
「…………」
「良い醜態だ。そいつに免じて、こっちの手札も少しばかり晒してやんよ」
クツクツと笑うと、アントニーは私たちから視線を外さぬまま、テーブルナイフを振り上げて宙に円を描いた。
「ときに、お前らはこう考えている。眼の前にいる男は、何故こうも余裕綽々なのか。人質ならば取っている。しかし背後は屋上の壁だ。お前らを撒いたとして、どうやってこの場から退散するのか皆目見当もつかねえってよ」
私も、アーノルドも反応を見せなかった。こちらの一挙手一投足が相手に対するアドバンテージとなり得る状況。当のアントニーはそんな私たちの姿を眼に入れて、なおも上機嫌に付け足した。
「答えは簡単。俺にはここから確実に逃げおおせる自信がある」
「下の警備ならば我が家臣団が固めているぞ」
「だろうな。だがそいつは問題じゃねえ。問題はこの壁の向こう側にあるんだからな」
……壁の向こう側だと?
私は息を呑み、一瞬の間考えを巡らし、そして結論に至った。
「まさか……アントニー貴様!?」
「学生時代、体力テストなら1度として他の追随を許したことはなかった。どうやら、この意味がお前にもわかったらしいな?」
余裕の笑みを浮かべるアントニーに対し、私は愕然とする。
横合いから、老執事の神妙な声を聴いた。
「今のはどういった意味でしょうかな」
「昨夜の雪だ。城の裏側は雪掻きを行っておらず、新雪同様の状態にある……アントニーは、雪をクッションにここから飛び降りて逃げるつもりだ」
さすがに言っていて半信半疑になる。だが相手はあのアントニーだ。やつの人間離れした筋肉ならば、万に一つ以上の確率でそれが可能なのかもしれない……。
さしものアーノルドも驚きに眼を瞠っている様子だ。
「そのようなことが人の身にできるものでしょうか?」
「わからん。だがやつの自信満々の態度を見るに、そうとしか考えられん」
「まるでゴリラですな……」
その印象には諸手を叩いて賛同の意を示したいところだが、さすがにそんな余裕はない。歯ぎしりをして、眼の前の2人を見つめるのみだ。
「先に言っとくが、俺だけじゃねえぜ? この女を連れてだって同じことがやれるからな」
アントニーはこちらに見せつけるようにマリーヌ嬢を前に突き出した。
だが私は剣の切っ先に集中する。そして彼らとの距離感を測る。
奥の手がある。抜剣し、構えを取った今ならば放つことができる。学生時代には父上から使用を禁じられていた最速の剣。放てば、アントニーが人質を害するより速く、一太刀くれてやることができるだろう。
だが、この技は力のコントロールが難しい。狙いがわずかでもズレたら、人質であるマリーヌ嬢の身まで斬り裂いてしまう。深い集中と、それに反する大胆さが両方なければ、アントニーにのみ当てることなど不可能だ。
果たして、私にやれるのか……。
固唾を飲み込む時間すら、アントニーは目敏く読み取った。
「どうやら、お前にも状況を打破する手段があるらしい」
「命が惜しいなら、彼女を解放して投降することだ」
「ふん……つまんねえブラフなんざやめとけ。お前にゃ打てねえよ」
さもくだらないことのように言って、未だ口を動かす余裕すら見せる。
「レオン、ゲームに必要なものがなにか知ってるか?」
「知らんな。貴様とは盤上遊戯の類すらしたことがない」
「だが立ち合いならやった。退屈な授業で、正々堂々にな」
学生時代の思い出語りに花を咲かす間柄でもあるまいに、上機嫌なアントニーの舌は滑るように言葉を吐き出す。
「思うに、あんなモンはゲームじゃねえ。真っ向堂々ぶつかり合うなんざ泥臭いし、身も心も疲れるだけだ。その上、勝ちもするし負けもする。勝ってもくたびれ、負けりゃその日はずっと最悪の気分だ。だからわかんだろ? ゲームにまず必要なのは、こっちの確実な勝利っつうわけだ」
まったく共感できない道理だが、アントニーなりの哲学があるらしい。
私が神経を尖らせている間にも、頼みもしないのにベラベラとくっちゃべる。
「勝ちは必須。でもただ勝つだけじゃつまらねえ。1日かけてアリを千匹潰したところで、手に入るのは不毛感だけだ。なら何故不毛か。それは結果が見えてるからな。やる前から、靴裏にくっ付くアリの死骸が増えるだけだってわかってる。だからもうひとつ必要なものがある。それは結果の不確定性だ。でもこれは少し難しいお題だぜ? 何故ならこっちの勝ちを確保した上で、結果のみをわからなくするっていうんだからな。だが……俺はそれをやった。茶会の場でだ。これだけ言えばお前にだってわかるだろ?」
日が落ちかけて、気温が下がる。夕日が送って寄越す赤い光の合間に、時折光るものが見受けられる。視界の前にチラついているのは雪だ。
私は冷や汗に濡れながら、アントニーの誘いに乗ったように見せかける。
「貴様の盛った毒か」
「その通りよ。甘味を塩味に誤認させ、摂取量によっちゃあ致死毒化する。まったく、どう転ぶか知れなくて面白え玩具だったなあ!!」
「なにが面白いものか!!」
それが狙いだとしたなら、功ならば奏した。
声を張って叫ぶ私の心が、千々に乱れようとしているのがわかる。
改めて精神集中をなそうとしていると、試みを見透かしてアントニーが言った。
「いいや、お前にとっちゃあ面白いはずさ……あの毒、俺がどこで入手したと思う?」
「なに?」
「旅の行商から買ったのよ。たしか遠い北方から来たって言ってたっけなあ?」
遠い北方。断片的な情報が、脳裏で最悪の発想を喚起する。
「まさか」
「この国には存在しねえ毒っつう触れ込みだった。話を聞けば、山間に住まう部族が手ずから調合した、門外不出のシロモンらしいじゃねえか。そいつをこっそりくすねて、他でもねえこの俺に直々に売りにくるなんざ、運が向いてるとしか言いようがねえよなあ?」
この破廉恥漢が希少な毒薬を入手した経緯はわかった。
考えるだに最悪の取り合わせは、まったくの偶然によって生じていた。
だが、今はそれすらも問題ではない。
アントニーはまだ、私に重要な事実を告げていない。
「貴様、出向いたな……北方遊牧民の棲み処に!!」
「そういう呼び名がここでの習わしか? オスティールの地じゃあ茶肌族って言われてたもんだが」
「なにを企んでいる!!」
歯軋りをして凄んだ。アントニーはニヤつきを隠そうともしない。
私の心が乱れに乱れていることを理解しているのだ。
「さっきの話の続きだよ。俺がもしここから逃げおおせるとして、次はどこに向かう? 雌伏し、世の中に打って出るまでの時間をどこで稼いだらいい?」
直接的な表現でないだけで、答えを言ってしまっている。
今私の胸の内で燃え盛るは、昏い憎しみの心が放つ黒い炎……。
「連中に取り入ったのか!!」
「違うな、招き入れられたんだよ」
「貴様などを招いて利するところなどなかろうが!!」
「いいや、あるさ……大アリにな」
夕日を背負い、こちらを嘲弄しながらも、その身には憎らしいほど隙が無い。未だ動けずにいる私を挑発せんと、やつは自分の話したいことのみを話し続ける。
「興味本位から旅立った俺が見たのは、野蛮な連中だった。気色の悪い肌の色をして、常に他人の隙を窺っている。殺し合いなんざ茶飯事だ。ちょっとしたことで殺す。どこでも殺す。家族も知り合いも関係ねえ。その場その場の感情でしか生きてやがらねえのさ。その癖、オスティール貴族との姑息な交易でぶくぶくと肥え太っていやがる。俺は思ったね。まるでここは火薬庫だと。そして間もなくそいつは起こった。部族内で派閥に別れての凄惨な殺し合いさ。やがて抗争を逃げ延びたひとりが俺に願った。どうかこの不毛な争いをやめさせて欲しいってな」
茶肌族の根拠地への滞在期間中、アントニーが巻き込まれた出来事。
同族同士の内紛は、この手の集団内において避けては通れない、武力衝突による部族の再編成だった。
新たなる秩序は最も優れた力の持ち主がもたらす。そのとき茶肌族の根拠地内にいた最強の武人とは、最悪なことにアントニーだったのだ。
「頭候補を何人かのして、俺が族長の座に就いた。内輪揉めしてるバカどもを平定してやったのよ。今やあの連中は、俺の意のままに動く。無論匿ってもくれるぜ。なにせ俺は、あいつらの王なんだからよ」
王、それは決して誇大な僭称ではないのだろう。
こいつが茶肌族を率いて世に出れば、大戦の勃発は免れない。
「……どうやら、因縁の糸が結ばれたようですな」
アーノルドをして緊張気味に告げる。
私もまた息を呑むと、アントニーは完全に隠し事をやめた。
「これでわかっただろ? お前らの眼の前にいるのは、茶肌族の王なんだよ。今の俺にとって、あいつらはいつだって動かせる便利な手兵ってわけだ。けどひとつ困ったことがあってな。屈強たる王はいずれ継嗣を残さなきゃならん。だが気色の悪い茶肌族の女と番うなんざこっちから願い下げだ。女は花のように美しく、そして淑やかでなきゃいけねえ。なにより傍に置くことで、王たる俺の自尊心を満たしてくれる存在でなくっちゃな」
とそこで、テーブルナイフを握り込んだ手を、アントニーがマリーヌ嬢の頬に沿わせた。
「……その点、この女は良いぜえ。人目を引く美人だし、どうやらレオン、お前の大のお気に入りらしい。茶肌族の巣に連れ帰って、お前のことを忘れるまで、たっぷり可愛がってやるさ。なに、完全に忘れたら、俺の最初の妻にしてやる」
汚らわしい手の甲が、マリーヌ嬢の頬をのたうつように這い回る。
頭に来ない理由はない。もし心に制動が掛かっていなければ、怒髪天を衝いた私は、即座に雄叫びを上げ、その手を引き剝がしにかかったことだろう。
だがしかし、マリーヌ嬢こそ冷静だった。その瞳は私を映し、アントニーですらわからないほどわずかに顎を振った。自重せよと、自分は平気だからと、気丈にも私の在り方をこそ心配してくれている。
己が身の安全より献身を選ぶ、あまりにいじらしいその姿。鼻の奥がツンと痛み、なにがあってもこの淑女を救出せねばならんと改めて己に誓いを立てる。
私が剣を構え直すと、アントニーもマリーヌ嬢を弄ぶのをやめて私を見た。そして――。
「レオン、お前もわかってるよな。ここからがゲームの本番だってよ」
「これ以上の御託は無用だ。貴様のことはどこにも逃がさん!!」
「良い意気込みだと褒めてやる。だが――」
シュッ、と紙同士が擦れるような音がした。
ことの起こりと終わり。その一部始終を私は見ていたはずだ。
だから、頭のどこかが理解を拒んだのだろう。アントニーが外側に向けて振り抜いた手。そこに握られているものが夕日を反射する。一拍置いて呆然とするマリーヌ嬢の頬に赤い印が走り、一直線に裂けた箇所から下方に向けて血が流れる。
頬を切られた。そう知った瞬間、私はまたしても我を忘れかける。
「……この傷は消える」
先んじて私の行動を塞ぐように、アントニーは冷徹にこぼした。
「だが、あとほんの少しでも力を込めてりゃ、一生残ってたろうな」
「お、己の妻にせんとした女の顔だぞ……!?」
「おっと、なにか勘違いしてるようだな」
なおも挑発。アントニーはテーブルナイフの柄の先端を指で握ると、指を振るようにしてそいつを振って見せた。
「こいつは未来の夫を救うために付いた、名誉の負傷ってヤツだ。心の広い俺は気になんてしねえよ。もっとも、顔の傷ひとつ程度で揺らいでるようじゃ、真実の愛だなんて到底言えねえよなあ?」
「きっ、貴様……どこまで男を下げるつもりだ!!」
喝破などもはや通用しない。相手を喜ばせるだけだとわかっている。それでもなお、眼の前で引き起こされた蛮行はあまりにも許しがたい。
「……とうとう一線を超えましたな」
あのアーノルドまでもが、静かに怒りを滲ませる。隣でぐっと拳を強く握りしめる音を聴いた。
男2人の殺意を真正面に受けたというのに、アントニーは実に満足そうにこちらを見ている。
「さて、今度こそ最後のゲームとしけ込もうじゃねえか。俺がこの女の顔に傷を付けるのが速いか、それともお前の剣速が勝るのか……お前ならもう知ってるよなぁ。俺にとってゲームっつうのは勝つのが当然の賭けだ。その俺がここまで自信を見せてるってことは、いったいどういうことなのかってことをよ」
「…………」
私が無言で集中を剣先に戻すと、アントニーが見送るような眼をする。
これで本当の最後になると思ったのだろう、餞の言葉を送って寄越した。
「学生時代から、お前は俺の眼の上のたんこぶだった。見たくねえのに眼に入る。どんなにこっちが願っても、そこから退いちゃくれねえ。でもな、だからこそお前の最大の弱みについてもよおく知ってんのさ。お前の弱点、それは――」
もったいぶって言葉を切り、最大の侮蔑とともに口を開いた。
「自負心と責任感だ」




