第31話 『光なる雄、影なる雄』
……違和感は、全力で駆けている間にも付き纏った。
コルラン辺境伯の座に就いてからも、肉体の鍛錬を怠ったことはない。それに相手は人ひとりの重量を肩に負っている。アドバンテージならば私にある。なのに、それでも追いつけない。城内の廊下の角へと消えゆく人影を、どうにか見失わぬよう追走するのが関の山だった。
「あの……筋肉ダルマがっ!!」
荒い呼気の合間に、そんな文句が口を衝く。
甚だ不本意なことに、学生時代の私をしてアントニー・ルーティスに体力テストで勝ったことはない。あいつは生まれながらの野生児というか、おそらく種族を間違ってこの世に生まれてきたのだろう。
情けなくも息が上がりかける。緩まる足を、気合いで回転させる。アントニーはなにか企んでいる。それだけはたしかだ。だからここで一時的であっても見失い、相手に時間的猶予を与えることだけは絶対にしてはならんのだ。
「きゃんっ!!」
……しかし、だ。
幾度目かの角を折れたところで、私は止めてはならぬ足を止めてしまった。というか、唐突に現れた人影と交錯し、あわや正面衝突する間一髪のところで躱したのだ。
体勢を崩して壁に寄りかかると、宙に白いものが乱舞する。一拍置いて、反転して腰から倒れた女性らしき人物のスカートがふわりと膨らんだ。
「み……見ましたっ!?」
声で誰かわかった。洗濯メイドだ。私と交錯した際に抱えていた洗濯カゴを中身ごと宙に放り出し、コケた当人はスカートの上から両手で股の辺りを押さえつけて、真っ赤に赤面している。
うーっと唸りながら、もうお嫁にいけませんみたいな顔をしてこちらを睨んでくるが、そんな悠長なことをやってる場合などではない!!
「洗濯メイド!! ぶちまけたものはいいから、私の来た道を戻れ!!」
「ふぇ……れ、レオン様!? なんで城内で運動会なんてやってんです!?」
おのれ、時間が惜しいと言うとろうが(言ってない)!!
「男はどっちへ行った!?」
「男性なんて通ってませんよ?」
「そんなわけなかろう!! さっきすれ違ったはずだ!!」
洗濯メイドは両手で股ぐらを押さえたまま、「そういえば!!」みたいな顔をした。
「ヒグマなら通りましたけど。デカいシャケみたいなのを肩に担いでたような」
「そいつだ、どこへ行った!!」
「えぇっとぉ……そこの廊下を左に折れて階段を上っていきましたよ?」
語尾上げの疑問形で返されたのが癪に障るが、たしかにその先には階段しかない。
「お前はゲストルームへ行け!! そこにいる怪我人の手当てだ!! いいか絶対に死なせるなよ!! 絶対にだ!!」
きつく念を押して、再び走り出した。上階へと続く階段を1段飛ばしで駆け上がり、廊下に出ると全力疾走へと切り替える。
再び距離が詰まり、アントニーの背中が見えてくる。私の脚力が増したというより、相手のスタミナが尽きかけたと見るべきか。さしものアントニーも、人ひとりの重量を負ったまま、全力疾走を続けるのは叶わぬと見える。
「止まれ!! アントニー!!」
駆けながら考える。どうしてこいつは上階に向かった? 城の玄関口ならば私の家臣団が固めている。例えマリーヌ嬢を人質に取ったとしても、易々と押し通ることはできないだろう。
しかし袋小路ならば上とて同じことだ。我がコルラン城には隠し通路の類がなく、仮にあったとしても初見のこいつには知る由もない。なにか考えあっての行動なのか……?
思考が妄想の域に入ろうとした瞬間だった。
ヒュッという音がして、なにかが彼方より飛来した。
私が視認するより先に、それは前方を走るアントニーの傍にある石壁に激突し、ガチッという硬質な音を立てた。
「あっぶねえな!! ド畜生が!!」
着弾の瞬間、アントニーは首を少し傾けた。この動きがなければ、飛来物はあやまたずアントニーの側頭部周辺に命中していただろう。
追走劇の最中にも、状況は目まぐるしく動く。廊下の死角からは、飛来物の射ち手が姿を現した。手に携えた筒のようなものを躊躇なく投げ捨てると、矢の如きスピードでアントニーが駆け抜けた後を、私と同じく全力で追走する。
徐々に加速するその身が私の隣に並ぶ。
私は横をちらとも見ないまま言った。
「……名射手が外すな」
「吹き矢を察知されたのはマリーヌ様の方です。身体の大きな御方は、肩の上の違和感を受けて回避されたものかと」
私は思わず舌打ちをした。
前々から思っていたが、優れ過ぎているというのも考えものだ……。
全力疾走の最中だというのに、並走者は息ひとつ乱さず訊ねてくる。
「今日は愁嘆場だけだったはずでは?」
「事情が変わってな。黒幕が自ら暴露した」
「若い御方はせっかちでいけませんな。黙ってさえいれば、今しばらくの間は自由を謳歌できましたでしょうに」
やれやれ、と血気に逸る若者を諫める常套句のような物言いをする老執事へと、私からも言っておきたいことがある。
「お前こそ、杖は飾りか?」
「杖? はて、なんのことでしょうか」
「別邸内を歩くとき、たまに杖を突いて歩いていただろう」
「そうおっしゃられるならそうでしょうな」
「足の悪い者が何故私の全力疾走と並走できる?」
依然として横は見ない。一拍の沈黙を置いて、それから――。
「足が不自由な振りをすれば、敵の油断を誘えます」
「それで杖を突いていたと? 私の手を使って、物を取らせたりしたのは?」
「その一環と考えていただければ」
「味方を騙すような遣り口があるか。お前が楽したかっただけだろう」
「ほ、ほ、バレてしまいましたかな」
懐かしい軽口の応酬の合間にも、私たちの眼はぬかりなくアントニーの背を追っている。
「ときに、アントニー様はどのような御方なのですか?」
「黒幕の正体くらいお前だって知っているだろう」
「素性なら少々。しかし実地で拝見したわけではありませんので」
私は少し考える時間を取って、答えた。
「一言で言うなら、ゴリラだ。アーノルド、お前ゴリラと戦ったことは?」
「何故一介の執事でしかない私がゴリラなどと争うのです? そんな経験ないに決まっておりますでしょう」
「お前ほどの男ならあり得るというだけの話だ」
「買い被りでは?」
「これでもだいぶ買い叩いている……見えてきたぞ」
幾度か階段を駆け上がって、私たちの前方には両開きの扉が見えていた。誘い込まれたような印象も受けるが、策を弄する時間ならば与えていないはずだ。
「追い詰めたぞアントニー!! 観念しろ!!」
扉の外の開けた世界に向かって、私の叫びが轟く。
視線の先、城壁の縁にいるアントニーがゆっくりとこちらに振り返る。傍らには地に降ろされ、後ろ手に腕を極められたマリーヌ嬢を伴っている。
下卑た笑みを顔に貼り付けて、アントニーが愉快げに口を開く。
「追い詰めた、だぁ? こっちが案内してやったんだろうが」
ひゅっと音がして、アントニーが右腕を振り上げた。その手の先には食卓から持ち出したと思しきテーブルナイフが握られている。
「その女性を解放しろ!!」
「タダで人質を解放するバカがどこにいるってんだよ?」
さらに持ち上げたテーブルナイフの腹がマリーヌ嬢の頬に触れ、私は生唾を嚥下した。平常心を乱したと心配したか、傍に控える老執事が小声を出す。
「イニシアティブはあちら。下手に刺激してはなりません」
「わ、わかっている……」
「コルラン辺境伯として正しい態度をお示しになるのです」
こちらには無言で頷き、私は再びアントニーと正対した。
「決闘しろ、アントニー。お前が勝てば自由にしてやる。その代わり私が勝てば、素直にお縄を頂戴しろ」
腰に佩いた剣の柄に手を沿わせ、抜き放って剣先をアントニーへと突きつけた。
「我が名はコルラン辺境伯レオン・コルラン。汝、ブリアリン王国が近衛騎士、アントニー・ルーティスに対し、一対一での決闘を申し入れる!! 了承されればその方、ただちに抜剣し、勇壮なる切っ先を我が鼻先へと突きつけられたし!!」
アントニーとて騎士の端くれ、名乗りを上げた決闘申し込みを無下にすることなどできまい。断れば騎士である己のみならず、男としての自身すらも恥に塗れることになる。
しかし一向に、アントニーには抜剣する気配がない。
剣士としての心意気を無下にされれば、さしもの私とて苛立つ。
「貴様!! 己の家名すら地に落とすつもりか!!」
名乗り口上まで行った決闘を受けぬなど、騎士として末代までの恥だ。その恥辱はいずれ国内外へと知れ渡り、その身には決闘から逃げ出した男として、一生消えないレッテルが貼られることだろう。
アントニーはだるそうに眼を眇めた。テーブルナイフを変わらずマリーヌ嬢の頬にくっ付けたまま、表情に輪を掛けてだるそうに呟く。
「……ここまで来といて、やることがそれか?」
「なんだと!?」
敵意満載で叫ぶと、アントニーは首を振った。
「レオン、お前に勝つ自信がないわけじゃねえ。だがひとつ勘違いを正すとだな。お前が恥だと思っているものは、お前の価値観の中での恥だ。なるほどそいつはブリアリンやオスティールのような国でも恥かもしれん。だがな、こと俺の腹ん中にとっちゃ、そいつは恥でもなんでもねえんだよ。決闘なんざクソ食らえだ」
私は眼を剥いた。
よもやここまでの破廉恥漢だったとは……。
「自分がなにを言っているのかわかっているのか……!?」
「今のお前よりはな」
「貴様は騎士としての誇りすら捨てたのだぞ!!」
「そんな称号に興味なんてねえのさ。結果的について回っただけだからな」
恥を知らぬこと畜生にも勝る言い回しに、私をして唖然としてしまう。
アントニーは皮肉げな笑みを湛えて、そんな私へと語りかけてきた。
「矜持は与えられるもんじゃねえ、作るもんだぜ」
「なんのことだ」
「……今日のお前は、悪くなかった」
アントニーの顔から笑みが消え、少し遠い眼差しを浮かべた。
「力を得たなら、試すべきだ。その点、今日のお前の行動には眼を瞠るものがあった。この3年でコルラン領は力を蓄え、ブリアリン王国は力を落とした。親離れっつう表現も言い得て妙だったな。力のねえ国にいつまでもしがみついてたところで、得るものなんてなにもねえからな」
話の真意が見えない。私はアントニーの言葉を待ちつつ、じっと隙を伺う。
「国としての体裁を整えることが、覇道の第一歩。正直言って、ロイに脅しをかけるお前には痺れすらした。それが……まさかすべて狂言だったなんてな」
そこで心底落胆したように、はあっと溜息をこぼす。
「つまらねえ茶会の犯人捜しのために、手の込んだことしやがって」
「その言い様……アウロアが仕込んだ塩をすり替えたのはお前か」
「ああ? んなこと答える義理があるか?」
沈黙で応えると、アントニーはニイっと口の端を釣り上げた。
「どの道、これでお別れか。ああ、俺がやったんだよ」
「ロイの傍にはべるお前が、何故そんなことをした」
「なんでって……あぁ、そういうこと」
含みを持たせる言い方で、ことさら挑発的に言ってのける。
「最初に言っとくと、どっちでも良かったんだよ。あの猫娘が前々からなにか企んでやがったのは知ってた。俺はロイの護衛役で、あいつのすぐ傍にもいたからな。だけど咎めはせずに泳がしといたんだ。そしたらアウロアのやつ、変装して街に出て、山盛りの塩なんて買ってきやがるじゃねえか。俺はピーンときたね。こいつはマリーヌの開くお茶会をぶち壊しにするつもりなんだって」
アントニーのやつ、アウロアの計画を事前に察知していたのか……。
しかしそうならば、塩を毒物にすり替えることもそう難しくはない。
「何故塩を毒物とすり替えた」
「そう慌てなさんなって」
「マリーヌ嬢に貴族子女毒殺の容疑をかけるつもりだったのか」
「質問ばっかすんなよ、これで最後だっつったろ」
もったいぶるような、こちらを嬲るかのような言い回しだった。
しかしこの場は先刻アーノルドが言った通り、情報の面でも相手にイニシアティブがある。私たちはアントニーの舌が回るのを耐えて待つしかない。
ぺちぺちと、アントニーがテーブルナイフの腹でマリーヌ嬢の頬を叩く。
こちらの反応を十分に楽しんでから、やっと口を開いた。
「最初に言ったはずだぜ。どっちでも良かったってよ。大量毒殺の件でマリーヌが死罪になろうが、バレてアウロアが王太子妃の座から転げ落ちようが、俺にとっちゃどっちでも良かった。とどのつまり、こいつは最初からゲームなんだからな」
ゲーム……だと!?
人の生き死にを、一生を、こいつは遊戯だと考えていたのか!?
「畜生めが……いや、貴様など畜生以下だ!!」
「おうおう、褒め言葉としてとっておくぜ」
憎悪のこもる悪罵すら、そよ風のように受け流してアントニーは付け足す。
「ゲームを楽しむ秘訣は、高い視点を持つことだ。そして自分は確実な安全地帯にいること。あの茶会の場は、そういう意味じゃ俺にはもってこいだったな。ロイの傍にいれば完璧なアリバイが手に入る。毒はバカ女が勝手にクッキーに入れてくれる。後は結果を座して待つのみ、だ。ただ……」
とそこで、アントニーが不満げに眉根を寄せた。
「あの結末はいただけねえな。まさかマリーヌが、自分の立場を犠牲にしてさっさと場をお開きにしちまうなんて思わなかった。お蔭で俺は、悪事がバレて公衆の面前に引き出される猫娘も、中毒死した令嬢どもを見て真っ青になっているマリーヌの顔も、両方見損ねちまったんだからよ」
無念そうに深く溜息をこぼすアントニーに、言ってやらねばならぬことがある。
「マリーヌ嬢を見損なうな。彼女は真の淑女だ」
「随分と肩を持つじゃねえか。さては3年の間にほだされたか?」
「貴様こそ、あのような女性に罪を着せて心が痛まんのか」
マリーヌ嬢は常に、正しい行動を取ってきた。アントニーとて人の子だ。なんの罪もない淑女をゲームの駒にして、まったく罪悪感を覚えぬなどということはないはずだ。
しかして、次の言葉は少々重みを持って私たちの耳を打った。
「まあそうだな……マリーヌは悪い女じゃねえ。楚々とした美人だし、立ち居振る舞いも完璧、慈愛の心だってある。アウロアとかいう猫娘なんぞにかまけて、こんな良い女に婚約破棄をしかけようとしたロイの野郎の気が知れねえよ」
やつをしてべた褒めと言っていい文言の後、「ただな」と付け加える。
「恨みならあった。マリーヌじゃなく、父親のヴィクスドール公爵の方にだがな」
「恨みだと……だが貴様とヴィクスドール公の間に接点など」
「あったんだなあそれが。今となっちゃ昔の話だがよ」
私はアントニーに相対しつつ、さりげなくアーノルドに一瞥をくれた。顎が小さく左右に振られたのは心当たりがないということだろう。
アントニー自身の口から話を聞くしかないようだ。
黙して待つと、やつの口からとんでもない言葉が飛び出すのを聞いた。
「マリーヌは、俺の妻になる女だった」
「妻だと……き、貴様!! なにを言っている!?」
このようなこと、狼狽えるなという方が無理な話だ。
この3年の間に、私は少なからずマリーヌ嬢から信頼を勝ち得た自信がある。そんな私をしてまったくの初耳、眼から鱗が落ちるとはこのことだ。そもそも彼女に対する第一印象すら、ロイの婚約者というものであったというのに。
「なんと!? そのような事実がありましたとは!!」
事情通のアーノルドまでもが驚きを表明している辺り、ことの異常さがわかろうというものだ。あのマリーヌ嬢をして、誰にも知られたくない類の秘めごとであったということか。ならばこのアントニー、ややもするとマリーヌ嬢と裏で密かに通じていたなどということすらあるやもしれぬ。
私は脳髄に生まれた疑念を振り払うように、頭を振って前方を見た。
と、虜囚にされたマリーヌ嬢が眼を真ん丸にして驚いているのを見た。
というより……何故あなたが驚く?
「アントニー、ひとつ訊ねる」
「おお? 俺の色恋ごとに興味でも出てきたか?」
「ビンビンにな……ときに、貴様の妻になるとはどういうことだ?」
疑問を呈すると、食いつきに満足したかクツクツと笑って続ける。
「決まっているだろう、求婚したからさ」
「その事実をマリーヌ嬢は知っているのか」
「ああ!? 知っている必要があるのか!? 男らしく父親に直談判したってのによお!!」
……場に、寒風が吹いた気がした。
それはこの場にいる私たち3人の心にのみ吹き通り、心胆寒からしめる。私は思う。ことここに至って、こいつはいったいなにを言い出しているのか?
学生時代、氷の伯爵と呼ばれた。不本意なその綽名に沿うのに、今この瞬間ほど相応しいタイミングはなかっただろう。事実、私はその場に立ち竦み、あわや氷の彫像にも化さんほどの寒気にやられてしまっていた。
「……レオン坊ちゃま、先方のお話が途中でございます」
そんな私を忠臣の容赦のない言葉が呼び戻す。
これも義務と割り切って、話の続きを聞けとせっついているのだ。
私は観念した。そして気を取り直して言った。
「貴様はマリーヌ嬢に懸想したことがあるのだな」
「おうよ、若かりし頃、初めて見たマリーヌの美貌に、俺の背中に雷が落ちた。そして一瞬にして理解したのよ。こいつは俺の未来の奥方だってな!!」
雷が落ちたなら、そのまま焼け焦げて死んでおれば良かったのに……。
そんな本音をひとまず隠し、私はアントニーの側に立って訊いてやる。
「して、貴様はヴィクスドール公に婚約の許可を求めたのか」
「おうよ。二つ返事で断りやがった」
そんなことだろうとは思った。ロイとマリーヌ嬢はほぼ生まれた頃からの許婚なのだ。
「定められた婚約者がいるんだ、貴様に割って入る隙間などなかろう」
「いいや可能性ならあったさ。そう……俺という男の器を知ればな!!」
その根拠不明の自信はいったいどこからくるのやら……私が呆れを通り越して半眼となっていると、アントニーの舌には逆に熱が乗ったらしい。
「直談判は1度だけじゃねえ。俺という男を深く知れば、ヴィクスドールの野郎だって婚約申し込みを受けざるを得ねえはずだからな。だから俺はあいつの元に足繁く通った。そして男同士、膝を突き合わせて話をした。だがひとつ勘違いをしてたんだ。男の器ってモンはよ、ただ持っているだけじゃ意味がねえ。相手にそれを読むだけの器量も備わっていなきゃなんねえ。情けなくもヴィクスドールの野郎にはそれがなかった。あんな体たらくで公爵を名乗ってるなんざ詐欺だぜ」
やれやれ、と呆れて首を振るアントニーだが、私はお前に呆れている。
ともあれ会話を進めなければ状況は膠着したままだろう……。
私は途方もない不毛感に苛まれながら、事の顛末を訊ねることにした。
「……で、公はなんとおっしゃられていたのだ」
「ああ!? んなの決まってんじゃねえか。通り一遍のなんの面白みもねえ話よ。『マリーヌはいずれこの国の王妃になる。だから君とは結婚することができないんだよ』みてえなことを耳じょっぱく繰り返してただけだ」
どうやらヴィクスドール公は、無礼者の戯言に正論を諭すことで対応されたらしい。まったくもってご立派というか、私ならば家の者を呼んでとっとと追い返しているところだぞ……。
当時の憤りが甦ってきたのか、アントニーの顔にも怒りが滲む。
「あの野郎は俺のことを舐め腐りやがった!! あのとき俺の胸の内に兆した一本気な情熱は、まさしく真実の愛と呼べるものだった!! 齢10歳にしてそれを知った早熟なこの俺を、あいつは子どもの気まぐれ扱いして煙に撒こうとしやがったのよ!!」
絶対に許せない、みたいな顔して語っているが、そうか10歳の頃か。
さぞや異性に対する憧れですらない、単純な興味本位であったことだろう。その標的にされたマリーヌ嬢も、何度も付き合わされたヴィクスドール公も、まったくもって不憫でならない。
私は一瞬だけ囚われのマリーヌ嬢を見た。こちらの予想通り、なんとも言えぬ顔をしている。この件を公にせず、娘にも伝えなかったのはヴィクスドール公きってのやさしさだ。むしろアントニー自身の将来すら思いやってのことだろうに、こいつときたらなんたる恩知らずなのか……。
などと内心では思いつつ、溜息を押し殺す努力をしている間に、アントニーが憤りを吐き出し切ったらしい。
「当時は殺してやりたいとも思っていたさ……だが、そうしなくて正解だった」
「ようやく己を顧みたのか?」
思わず常識という尺度を持ち出してしまったが、無論のことアントニーはせせら笑いで一蹴した。
「反省だと? バカ言ってんじゃねえよ。俺が間違うわけねえだろうが」
「ならばどのような変節があった」
「貴族学院に入学したのよ」
学院入学だと? また唐突に話が飛んだな……。
「そして俺は知った。真実の愛とは、進化するものだっつうことをな」
「……ちょっと待て、話が見えん」
というより付いていけん。
そもお前の心に真実の愛が兆したことなどなかろうが……。
概して、バカの思考を追うなど愚かなことだ。くしくも私が踏んでしまったその轍は、やつ自身の一声によって即座に後悔に変わるのだった。
「華やかなりし貴族学院で、俺は出会った。そう、俺自身の真実の愛と……」
「マリーヌ嬢と再会したということか?」
普通に考えればそうなる。が、アントニーのやつは不敵に笑って告げる。
「無論、マリーヌもいた。けどそれだけじゃねえ。あの場所は、俺にとっての花園だった。そこには俺と同世代の、麗しき乙女たちで溢れていた。蝶のように花のように大切に育てられた貴族令嬢たちの姿に、俺は一瞬で魅了されちまったのよ。そして気づいた。俺の胸にあるこの真実の愛は、なにもひとりの女に限定して与えられるようなせこいもんじゃねえってことをな……」
この言を受けた私は、どう反応すれば良かったのだろう?
もはや呆れを通り越し、この畜生が如き男をジト眼で見ている。
しかしてアントニーに気づいた様子はない。やつは自分自身に酔っ払い、なおもアントニー節とも呼べる調子で、恥の上塗りを嬉々として続けてゆく。
「俺は思ったさ!! 俺の真実の愛!! それは無限に湧き出る愛の泉そのもの!! 可憐な乙女であるなら誰だって、望むがままにその蜜を味わう権利があった!! この屈強なる腕に身を委ね、情熱的に唇を求め、一糸纏わぬ肌同士を重ね合わせる!! その準備だって覚悟だって万全に整えてあったんだ!! なのに……」
とここで、アントニーのやつが敵意満載の眼で私へ向き直る。
「またも邪魔が入りやがった!! レオン、てめえのことだ!!」
「わ……私だと!?」
私は思わず自分を指差し、こんな状況だというのに首を巡らせてマリーヌ嬢とアーノルドの様子を窺ってしまった。
若干白けたような視線が身に刺さる思いがしたが、果たして私の気のせいだったろうか?
「で、デタラメ言うな!! お前の邪な欲望の邪魔をした覚えなどない!!」
我ながら濡れ衣を訴えるような言い方となってしまったが、アントニーの敵意に衰えは見えない。相対する敵の脅威よりなお、こちらはあらぬ罪をなすりつけられたことに気が気でないのだが……。
とここで、声なき叫びが天に通じたのか、アントニーは仕切り直しに入った。
「レオン……俺とお前は、いったいなにが違う?」
「なんだと?」
「違うのは家格か? それとも己の立場か?」
唐突に問われて、答えに窮する。私とアントニーとの単純比較。
境遇ならば私の方が些か恵まれているだろうことは、たしかだった。
「私は嫡男だが、お前はそうではない。それが言いたいのか?」
目下の意図こそ不明ながら、それは私の思う正論だ。
現に私は父上を亡くし、その肩書きであった辺境伯を襲名している。対してアントニーには文武ともに秀でた兄君がおり、ルーティス家の家督を既に父君から譲られたと聞いている。
「相続の話か。たしかにな。現行のブリアリンの制度じゃ、土地も財産も長男が総取りだもんな」
「よもや貴様はそのことを恨んでいたのか……?」
些か逆恨みが過ぎるが、有り得ぬ話ではない。男子が正嫡であるかどうかは、貴族令嬢たちもシビアな眼で見ている。こいつの思う邪な真実の愛の達成を、多少は阻んだ可能性が十分にある。だが――。
「いいや? 兄貴が家督を継ぐことに異論なんざなかったさ。むしろ横から応援してやったよ。デキのいい兄貴なら、さぞかしルーティス家を盛り立てていけるだろうってな」
私は少し驚いた――これは強がりではなくて、本音だ。
「待て。であるなら、私と貴様との違いというのは……?」
ニッと、口の端を三日月のように開いてアントニーは告げる。
「なにもねえのさ。本質的にはな」
「しかし私は貴様とは違う。決して同一人物などではない」
子どもに言って聞かせるような滑稽な言い様となったが、アントニーの眼鏡には叶ったようだ。なおも愉快げに続ける。
「性質的には似通っている。世間のくだらねえ枠組みを取り払っちまえば、まるで瓜二つの男が浮かび上がる。ともに屈強、種類は違えど武勇に優れ、筋力の面では俺が、剣ではお前が頭ひとつ分ほど抜けているが、その他の要素は時の運で頂点を分け合った。今もしこの国で最強の男を決めるなら、候補は俺とお前を置いて他にねえだろう」
私は深く頷く。かつて同じことを考えたことはあった。
最強談義……男ならば誰しも考えることだからだ。
「そうかもしれん」
「しれねえじゃなくて、そうなんだよ……だがな」
とここで、アントニーは不快げに片方の眼を眇めた。
「それでも、俺とお前は明確に違う」
「違うだと? しかし今しがた貴様は逆のことを言ったではないか」
「否定はしねえよ。俺たちの身体の内側のことはな」
含みのある文言の後、アントニーの眼にこもる敵意が増す。
「問題は外側なんだよ、レオン……少し考えてみろ。お前は既に似たような事態に出くわしてるはずだ。例えば学院内で剣術大会が開かれたとしてみろ。正々堂々にやれば、まずお前が優勝する。するとどうなる? 会場のあちこちからは黄色い悲鳴、花のように蝶のように可愛らしい令嬢たちが、お前に向かって泣きながらハンカチを振ってくる。対して、学院内で腕相撲大会が催されたとする。その決勝戦、今度は逆に俺がお前を瞬殺する。俺が逞しい二の腕を振り上げると、獣のように野太い歓声がそこかしこから巻き起こり、俺はやつらの手によって、幾度となく胴上げされて宙を舞うことだろう……」
ふはあっと、盛大なる溜息の音が聞こえた。そして――。
「実に不公平だと思わねえか」
「ふ、不公平だと?」
「俺たちは同じことをやっている……なのに結果がこうまで違う。これを不公平と呼ばずしてなんと言うってんだ、ええ!?」
大仰に首を振って、積年の怨念を込めてなおも言う。
「レオン……俺はお前の影だった。俺はお前と同じことができる。なのに俺の欲しいもんは全部お前が搔っ攫っていきやがる。丸太のように太い二の腕。名馬のように張り詰めた太腿。走るのだって学院内の誰より速いんだぜ。女ってのは足の速い男が好きだと相場が決まってるはずだろ。なのに何故だ!? 何故どの令嬢も俺を見やがらねえ!! どいつもこいつもレオン様レオン様!! 俺ならいくらだって愛をくれてやるのに、なんでてめえのことばっか見やがるんだよ!!」
……このとき、アントニーは本気だった。本気で阿呆なことを言っていた。
いわゆる逆恨みというか、やっかみというか、そういうものの醜い集合体を真正面から私にぶつけて、一切己というものを顧みようとしていなかった。
呆れを遥かに通り越せば、次に来るのは困惑だ。私は助け舟を求めてアーノルドを見た。折よくアーノルドも私を見ている。そしてこう言ったのだった。
「一理ありますな」
「あ、あってたまるか!!」
「そう大きな声を出されないで。先方に聞こえてしまいます」
そうだ、アントニーはマリーヌ嬢を虜囚としている。
下手に刺激するような真似はマズい……。
「意中でもない淑女に懸想されても迷惑なだけだ。私はむしろ、アントニーの方こそ羨ましいくらいだぞ」
「それは持つ者の傲慢というものです。女性に困ったことがないから、そのような贅沢なことが言えるのです」
「ひ、人聞きの悪い言い方はやめろ!! 私に女性を弄んだ経験などあるわけがなかろうが!!」
などと小声でやり合っていると、無視されたと思ったアントニーが空咳で注目を取り戻した。そして――。
「結局、ツラなんだよ……俺とお前の違いっつうもんはよぉ」
そんな身も蓋もないことを言って、私のことを睨みつけてきたのである……。




