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売れ残り万能令嬢と怒れる銀髪伯爵 ~『氷の伯爵』、不当な婚約破棄にブチギレて公爵令嬢を攫う~  作者: ソーカンノ


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第29話 『マリーヌ・ヴィクスドールという令嬢 【マリーヌside】』

 その令嬢の顔が青褪めていたのは、自身の失敗と身の破滅のみを思ってのことだったのだろうか?


 その日、彼女は激変した茶会の場を冷静に見つめていた。異変に気づいた彼女は、提供したクッキーを口にせぬよう大声で注意喚起した。自らが主催したこの席の失敗を思い知ってなお、落胆よりも冷静さが勝っていた。


 最初に異様な行動力を見せたのは彼女の婚約者、ロイ・ブリアリン。会場の後方で護衛と、公然の恋人である男爵令嬢を伴って退屈そうに座を構えていた彼は、彼女の注意喚起に呼応して、クッキーの乗った皿を自分の席に持ってくるよう一同に訴えかけた。


 今、彼は深刻な表情をしながらそれを回収し、風呂敷のようなものに集めている。そして残りがないかを確認するため、護衛と、そして不義の恋人までもを会場の確認にやらせた。


「とんだ失態だな」

「……申し訳ありません」


 王子の顔には静かだが、並ならぬ怒りが滲む。令嬢は、心根のやさしい王子がこのような表情を浮かべるのを見たことがなかった。


「僕の心証は、もう戻らないと考えた方がいい」

「そうかもしれません……ひとつ訊ねても」

「構わない。どうした?」

「何故、あのようなことをなさっているのですか」


 令嬢は、王子の取り巻きが今もって続けている行為を差して、そう質問した。


「誰かが間違って食べてしまう危険性を排除するためだ」

「塩の入ったクッキーです。私が、家臣とともに処分いたします」

「ダメだ。君たちの手には任せられない。集めたらすぐに焼却する」


 幼少からの婚約者である王子と公爵令嬢。傍目には対等に見えても、立場の上では明確にあちらが上だ。その決定に異を挟むことはできない。少なくとも、この令嬢はそれを良しとしなかった。


 だが、王子の申し出を素直に飲むわけにもいかなかった。万難を排し、迎えたお茶会だった。砂糖と塩を間違えるなどという初歩的なミスを、彼女の料理人が犯すはずがない。


 原因は塩だと訴えた。だがそれは、無用な混乱を避けるためだ。このクッキーに仕組まれたなにかを、王子の判断ですべて無に帰すわけにはいかなかった。


「そこのあなた、顔色が優れませんわね。このお皿は私からロイ殿下にお渡ししますから、どうぞ任せてください」


 取り巻き令嬢は迷いを見せた。だが、指摘されたように体調は思わしくない。どうもあの塩クッキーを食べてからそうなった気がする。彼女は令嬢に皿を託すと、一礼して会場を後にした。


 令嬢は皿を王子の元へと運びつつ、眼にも留まらぬ早業で、皿の上から1枚のクッキーを抜き取った。皿に触れる手とは逆の手を使い、鮮やかにハンカチに包んで、その場から持ち出すことに成功した。


 それは誰かに見咎められないギリギリの、たった1枚の証拠だった。

 毒が盛られていたとすれば、なんらかの反応があるはず。


 万能の令嬢は、薬学にも精通する。しかしそんな彼女の優れた頭脳をもってしても、そのクッキーからはなんの痕跡も辿れなかった。


 令嬢は思う。砂糖は使用されたはずだ。なのに自分の舌は砂糖の甘みをまったく感じていなかった。塩の塩味だけで砂糖の甘味を完全に打ち消すことは不可能だ。この2つの味は相克関係にはない。優れた味覚の持ち主なら、使われた砂糖の甘味もかろうじて判別できるはず……。


 1枚のクッキー。それは令嬢が持つ最後のカードに等しかった。しかしそれはなんのためのカードであったのだろう。真相を明らかにする前に、彼女自身が婚約破棄されてしまっては、元も子もない。


 果たして、令嬢の境遇は激変した。流れ着くところに流れ着くだろう。彼女は少し、人よりも人生を悟ったところがある。こんな自分を必要としてくれるところであれば、どこへだって身を寄せる覚悟だった。

 

 その先は、令嬢の頭脳をもってしても読めなかった。学内では『氷の伯爵』と呼ばれ、亡き父君の後を継いで辺境伯の座に就いた青年が、弁護のために乱入してきたのだ。


 彼は婚約者であるロイ王子の親友だった。必死に説得し、泣き落としまで試みるも、不義の恋人である男爵令嬢の挑発に乗ってしまい、あろうことか令嬢のことをお姫様抱っこでその場から攫ってしまった。


 故郷へと帰る馬車内、青年は心底ショックを受けているように見えた。令嬢とは以前からの顔見知りの間柄だった。お茶会のために最高級の小麦の供出をお願いしたり、とても良く効く軟膏を借り受けたりもした。


 彼には悪いが、少し楽しくなってきた。この令嬢は本来、自分の立場に固執などしていない。親族の手前そう振る舞っていただけで、こうなったからには自分の力を発揮できる場所なら、どこだって構わなかったのだ。


『レオン様。ご郷里には、どのようなお仕事があるのでしょうか』


 期待に胸を膨らませながら告げると、青年はぐんにょりとした反応を見せる。困らせてしまっているとは薄々勘付いていた。だが、彼ならきっと、私に相応しい仕事を見つけてくれるはずだ。


『マリーヌ様には、私どもメイドの仕事ぶりを監督していただきたく思います』


 ほら、さっそく準備を整えてくれた。令嬢は全身にやる気を漲らせる。同じやるなら真剣に、そして徹底的に完璧にだ。


 果たして令嬢は真価を発揮した。遺憾なく発揮した。


 仕事を案内した家臣たちも喜んでくれていた。あなた様のような高貴なお方が私たちの仕事にこんなにも眼を掛けてくださるなんて……と涙ながらに語ってもらったこともある。


 けれどそれは最初だけだ。あれほどまでに褒めてくれたのに、令嬢は翌日からまったく別の現場で別の仕事を案内されるようになったのだ。


 しかして、万能の令嬢に挫折の文字はない。至らない仕事をしたのであれば、努力するのみだ。彼女は使命感に燃えていた。何故ならそれが、私のことを拾ってくださったレオン様に報いるたったひとつの方法なのだから――。


 努力と、研鑽の日々が続く。気づくと令嬢は、邸にまつわるすべての仕事を網羅してしまっていた。もはや自分ひとりでもここを切り盛りできる。その自信が芽吹きかけていた、そんな矢先だった。


「あなたが、マリーヌ様ですな。さあ、遠慮なさらずそちらへかけて」


 令嬢は、好々爺然とした老人の紹介を受ける。老人は他の家臣たちとは違い、公爵令嬢である彼女を直に眼にしても気後れすることはなかった。


「あの、失礼ですが、お名前を」

「これは申し訳ない。私はアーノルドと申します。コルラン家には、執事長として雇っていただいている身でして」


 ……捉えどころのない老人だ、と令嬢は思った。


 第一印象こそ不可思議なものであったが、令嬢は老人の言葉に素直に従って席に着いた。仕事の初日に、その内容について説明を受けなかったことはない。仕事のさわりに触れなかったこともない。もしそうさせてもらえないのでれば、自らが申し出てやらせてもらっていた。しかし――。


「あのぅ、お茶を飲むだけ?」

「初日ですからな。まずは簡単な仕事から始めていただかないと」

「これが執事のお仕事なのでしょうか」

「楽しい話し相手、気の置けない茶飲み友だちになること。人生において、これ以上に大事な仕事などあるものでしょうか」


 ほ、ほ、とテーブルの対面から老執事は愉快げに笑う。


「それに改めて紹介するほどの仕事でもないのですよ。私こと執事長の役割は、言わば現場の統括です。困りごとがあれば一緒に困り、失せ物があれば一緒に探し回り、アイディアが足りなければ一緒に頭を捻って解決策を導き出す。後はまあ、ルーチンワークと言いますか、適当にやっていても割と回ってしまうものなのです」

「は、はぁ……」


 としか言いようがない。現場で令嬢が面食らうのは初めてのことだった。


「それと、これは過渡期の仕事と考えてください」

「あの、どういった意味でしょうか」

「マリーヌ様にはいずれ、私に代わって執事長の役をしていただきたいのです。コルラン家には長年にわたって仕えてきました。老い先短い老骨の身にとって、この仕事は骨身にこたえるものなのです」


 改めて言われると、たしかにこのような老人を出ずっぱりにさせるのは良いことではない気がした。


「では、今からはアーノルド様が私の先生ですね」

「先生、良い響きですな。是非にそう呼んでいただきましょう」


 ほ、ほ、とまた例の笑い声を上げて、こう付け加える。


「レオン坊ちゃまは私にあなたを託された。もうおわかりでしょうが、私はマリーヌ様であっても特別扱いする気は毛頭ございません。試用期間を過ぎれば、私ども執事と同じユニフォームを身に着けていただくことになりますが、構いませんかな?」

「望むところです」


 メラメラと、令嬢の瞳が使命感に燃えた。老執事はそれを眼にして、ニッコリと微笑むと、懐から分厚い紙束を取り出してテーブルの上に置いた。


「あの、これはなんなのでしょうか?」

「今日の仕事で、マリーヌ様は私の大切な茶飲み友だちになりました。大切なお友だちには胸襟を開くものではないでしょうか? 私ならそうします」

「はあ」


 思わず生返事してしまった。

 それとこの紙の束になんの関係があるのだろうか……。


「ときに、コルラン領は莫大な借金を抱えております。近いうちに返済せねば、早期に経営破綻の道を辿ることになるでしょう」

「え?」


 令嬢の表情が一瞬にして固まる。老執事はニコニコと人好きのする笑顔を浮かべたまま説明を続ける。


「はっきり申し上げますが難題です。先代の旦那様が残されたこの借金には、この老骨もほとほと困り果ててしまっておりまして……いやあ、一緒に頭を悩ませてくださる御方が増えて良かった!!」


 からからと笑い、なおも楽しげな様子を隠そうともしない老執事だが、万能の令嬢の頭脳は早くも回転を始める。


 これは領地の未来を左右する、由々しき事態だ。そして理解した。自分は今、この辺境伯の右腕と目される老執事から、直々にその重責を託されたのだと。


「……なんとかしてみます」

「快いお返事を聞けてなによりです。必要なものは?」

「明日からもこのテーブルを使わせてもらってよろしいでしょうか。それと、先生にも同席していただきたく存じます」


 万能の令嬢の脳裏には、早くも解決策が浮かぶ。コルラン領の強み。それは王国でも指折りである小麦の原産地であること。


「可能な限り応えましょう」

「手段を選んでいる余裕はありませんが、構いませんか?」

「こちらも可能な限り手を回しましょう」

「ありがとうございます」


 令嬢は、眼の前の老執事にもわからないほど微細に身体を震わせた。俗に言うところの、武者震いというやつだった。今、自分が直面している状況は厳しく、成功できなければ領地の危機となる。


 私を連れ出してくださったレオン様に、報いなければならない――。


 果たして、この後に待ち受けるマリーヌ・ヴィクスドールの活躍は皆々様もご承知であることだろう。


 時間を、ことの次第が新しいコルラン辺境伯に露見する少し前に戻そう。小麦の豊穣なる収穫を直前に控え、令嬢は老執事と茶の席をともにしていた。


「……先生、紅茶のお代わりはどうなさいますか」

「淹れていただけますかな」

「かしこまりました」


 恭しく礼をする令嬢に、老執事は己のティーカップを任せた。

 きびきびと動く彼女の全身像を捉えて、柔和に眼を細める。


「執事服も随分と板に付いてきましたな」

「先生にそうおっしゃっていただけると励みになります。レオン様に見ていただくのが今から楽しみです」

「この時間はまだ執務中でしょうが、こういうのはサプライズが基本ですからな。くれぐれもバレないよう気をつけて」

「うふふ。わかっていますとも」


 新たに淹れ直したティーカップを執事の見本のような動きで老執事の前に置くと、自身もまた対面の席に腰を落ち着ける。その様を見てなおも眼を細めたままの老執事が、やにわに声を発した。


「気の早い祝杯というわけにはまいりませんかな?」

「麦に目立った害は出ていませんし、穂もよく実っているとの報告は上がっています。けれど、まだ収穫されたわけではないので……」

「ふむ、油断大敵というやつですな」


 と老執事は受けたものの、内心では安堵しきっていた。


 もちろんここから未曾有の大災害が起こってすべてがおじゃんになる可能性はあるが、それは明日世界が滅ぶことを恐れるようなものだ。


「とてもやり甲斐のあるお仕事でした。このような大役をお任せいただき、先生にはなんと感謝したものか……」

「ああ、どうかそのようなおっしゃり方はなさらないで。なにせレオン坊ちゃまには秘密でやっていることなのですから」


 シーっと老執事が口の前に指を立てるのを見て、令嬢は自然に笑った。コルラン領に住まう人たちすべての役に立つことができて、本当に誇らしく思ったのだ。


 茶菓子を時折食しながら、老執事が楽しげに話しかける。


「そのご様子ですと、このコルランの地にも随分と慣れてきたようですな」

「ええ、緑豊かで、とても素敵な場所だと思います」

「もう思い煩うことはなにもない?」

「あの……それはどういった意味なのでしょうか?」


 ズキ、と令嬢の心が痛む。それは万能の令嬢をして、ずっと見て見ぬ振りをしてきたものかもしれない。


「大切な茶飲み友だちとは、互いに胸襟を開き合うものです。マリーヌ様は私の悩みを聞いてくださった。今度は私の番かと思いまして」


 敵わないな、と思う。令嬢は既に知っていた。この老執事が並ならぬ人物であることを。恐らくはコルラン領を影で支え続けていた、いや今この瞬間も支えて立っているほどの人物に違いないだろう。


「……少し、お待ちいただけますか」


 令嬢はコルラン別邸に宛がわれた自室に戻り、帰ってきた。

 標本を収納するような透明なケースごと、老執事の側に差し出す。


 老執事はその箱をしげしげと眺め、令嬢へと視線を戻した。


「これは?」

「私の失敗……とでも呼ぶべきものです。もう、これだけしか残っていませんが」


 彼女の能力が及ぶ範囲で、あらゆる防腐処理を施した。しかしどれほど手を尽くしても、たった1枚のクッキーを完璧に守り抜くには至らない。それに彼女自身、それを削って検査を行っており、どうしても目減りしてしまう。残りは1/3枚と言ったところか。


「砂糖と塩と取り違えたという、例のお茶会のことですな」


 みなまで言わずとも察してくれる。もはや驚きにすら値しない。この老執事はきっと、令嬢の身の周りのことならばなんだってお見通しなのだろう。


 令嬢は語った。自分の舌をして、このクッキーからはわずかの甘味も感じられなかったこと。他の令嬢たちも同じ感想であったこと。そして独自研究に行き詰ってしまっていること。


「おそらく、このクッキーには甘味を塩味に錯覚させる成分が入っているものと思うのですが」

「でしょうな。新品の砂糖袋を破って用いたという、料理長の言葉を信じるなら」


 ふーむ、とわずかに唸って、チラっと令嬢の顔を見る。


「この断片、少しの間お借りして構いませんかな?」

「先生のことは心から信頼しています。もちろん一向に構いませんが、その……」


 老執事は令嬢の濁した先まで読み取って、こう続ける。


「ことこの件に関してだけは、秘密主義は敷きません。仮に毒物が検出された場合、素直にお伝えすると約束いたします」

「あ……それは、はい……」


 内心の懸念を言い当てられて思わず言葉を失うが、令嬢は気を新たに取り直して続けて言った。


「もし毒物が混入されたのであれば、由々しき事態であるかと思うのです」


 断定を避ける令嬢らしい言い回しに、老執事は力強い頷きで応える。


「背後にいるのは、ブリアリン王国にとっての国敵となりましょうな」

「何卒宜しくお願い致します」


 数日の時が流れた。令嬢はらしくなく、落ち着かない心地を抱えていた。行き過ぎた疑惑。猜疑心。そのようなものに振り回されるのは自分らしくないと感じていたのだ。


 一方でこのようにも思う。もしもあのクッキーに混入しているものが毒物であるのなら。あの場にいた誰かがブリアリン王国の貴族子女の全滅を画策したに違いないと。


 もしそうであるならば捨て置けない事態だ。なによりも優先して、この国を脅かす脅威を排除しなければ。


「……毒物が検出されました」


 驚きはなかった。落胆はあった。当たって欲しくない懸念が当たってしまったとき人がそうするように、令嬢の表情にも暗い翳りが見える。


「かつてこのコルランは、戦火の絶えぬ厳しい地でしてな。戦士の傷を効率的に癒すため、種々様々な薬物を取り扱ってきた歴史があります。かくいう私も、毒物に関する見識なら持ち合わせているつもりでしたが……いやはや、このような奇妙な効能を持つものは初めて眼にしましたよ」


 令嬢は無言で頷く。先生ほどの賢人がそうおっしゃるのであれば、ブリアリン王国内で1度として扱われたことのない毒物なのだろう。


 話を傾聴すると、どうやらこの毒物は甘味を塩味に誤認させ、一定以上の分量を摂取すると豹変して致死毒に変化するらしい。


「犠牲が出なかったのは、マリーヌ様のお早いご判断のお蔭かと」

「あの場に集った皆さんは、死の危険に晒されていたのですね……」


 思い返すに、ぞっとする思いだ。令嬢の掌にも嫌な汗が滲んでくる。


 眼の前の老執事を信じていないわけではないが、言い添えておくべきことがある。


「このことは他言無用でお願いします。あの、レオン様にも……」

「いずれはお伝えせねばなりません。が、今はその方がよろしいでしょうな」


 このとき、老執事の脳裏には卒業記念パーティーにおける主君の危うい大立ち回りが思い浮かんでいたのだが、果たして令嬢には知る由もなかった。


 互いに了解を済ませたところで、老執事は預かっていたケースを令嬢に返還した。透明なガラス部分越しに見えるクッキーの断片は、預けたときの半分程度しか残っていない。


「毒物の解析に、随分と無駄遣いしてしまいました」

「そんな、無駄だなんて……先生でなければ、きっと正体に行きつくことすら叶わなかったはずです」


 心からの感謝とともに令嬢は本音を口にしたが、老執事は厳しい表情のまま首を左右に振った。


「いいえ、無駄遣いは厳禁なのです。今から我々は、この断片を元に件の毒物を完全再現して見せねばならないのですから」


 令嬢は驚き、眼を瞠った。だがそこは万能の令嬢だ。

 彼女もまた老執事の言わんとしていることを、言下にすべて理解する。


「間もなく、この断片も朽ちて消えてしまう……」

「左様です。事件の証拠は永遠に失われます。ですからその前に、せめて私たちの手で、まったく同じ毒物を作り上げねばなりません」


 私たちの、という言葉を聞いて思わず、令嬢は老執事の顔を見た。


 それは先生の手腕をもってしても成し得ない仕事で、達成のためには誰かの助力が必要なのだ。


 その相方となれるのは、私を置いて他にはいない――。


 覚悟とともに顔を上げた。令嬢の表情もまた、並ならぬ老執事は読み取っている。


「……ご協力願えますかな、マリーヌ様」

「ええ、もちろんです。よろしくお願いします、先生」


 こうして、彼らの人知れぬ長い戦いは始まった。


 日々刻々と失われてゆく証拠から、この国を震撼させた毒物を再現するという、あまりにも困難な事業だ。きっと王国内の名高い知識人を結集したとしても、彼ら2人ほどに上手くやることは不可能だったろう。


 しかしまた、別の戦いもあった。この日から数えてわずか数日後、令嬢の元へと知らせが届く。コルラン北部に位置する、北方遊牧民の襲撃を受けた村落からの使者だ。使者が携えてきたものが色素で染められた人皮であることを、彼女は一目で看破した。


 その深奥にある悲しみもまた、絶対に取り除かなければならないものだ。


 マリーヌ・ヴィクスドール。この比類なき万能の令嬢は、コルラン領の、そして王国の民草のために、人知れず尽くしてきたのである。

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