第26話 『断罪』
まるで直剣のように伸びた背筋。品としなやかさを感じさせる足運び。
女執事としてのマリーヌ嬢の働きぶりを直に眼にしたのは初めてのことだった。この貴族令嬢の、図抜けた胆力に疑いを挟んだことはない。しかしそれでも、この場で平常心を保つことは並大抵のことではなかっただろう。
現に私は、ロイたちを相手に、完全にぐらつくことがなかったとは言い難いのだから。
「どうぞ、お召し上がりになってくださいませ」
去り際に、客人に残す微笑までもが完璧だった。片手を使ってテーブルに皿を置く、その瞬間にわずかの音も立てはしない。通常の夜会ならば、賓客たちはこの美麗極まる立ち居振る舞いの余韻にすら浸れたことだろう。
しかして、この場は違う。新任の辺境伯が王太子一派に楯突き、所領の独立までも謳い上げた空間が剣呑でないはずがない。今のロイにとって私はさながら政敵……いや、国敵とも呼べるものであったはずだ。
もし仮に、まだ私に幾らかの容赦の心を残していたとしても、この一皿がその断絶を決定的にした。
各々に皿を配膳し終えると、マリーヌ嬢は盆を胸に抱え、客人たちに深々と一礼をする。そして真っ直ぐに私の元へ戻ると、先と同様斜め後方の定位置に、守護者のように控えたのだった。
私は前方を見る。3人とも、皿の上に置かれた物体を凝視している。共通しているのは、自分の見ているものが信じられないといった表情だ。私には存在しない、彼らの思い出に残るものと、眼にしたものになんらかの符号があるのは明らかだった。
「我が領で穫れる小麦の中でも、選り抜いた最高級のものを使った。砂糖もまた同じく、最良のものを用いている。遠慮せず召し上がってもらいたい」
なんと白々しい。よもや自分の舌に乗っているとは思えない。その必要性がなかったとすれば、このような猿芝居など頼まれたとてするものか。
まるで永久凍土のように、私の心は冷え至る。それにも増して冷たく凍りついているのは招かれし賓客たちの方だ。皿を見つめた状態で、顔の血の気が失せている。私の行為と言葉が、まるで信じられないとでもいった風に――。
「どうした、食されないのか?」
激烈な反応を示したのは、アントニーだった。固めた拳を本気で叩きつけ、このバカ力の持ち主は、テーブルの一部を実際に損壊させた。
「食え、だぁ!? てめえ、よくもそんなこと言えたもんだな!! こいつは、あの茶会でマリーヌが振る舞ったクッキーそのものじゃねえか!!」
アントニーの頭はそう良いものではない。だからこいつは見たままを語った。私としても、説明が省けてありがたいと言ったところだ。
「その通りだ。料理人には似せて作るよう命じた。直に眼にすることはなかったが、その様子だとどうやら瓜二つのようだな」
「ざけんな!! こんなもん食えっかよ!!」
「待て」
最後の声は私のものではない。アントニーが皿の縁を掴み、クッキーごと私に投げて寄越そうとした瞬間にそれは聞こえた。
座したロイの様子を見て、皿を投擲寸前のアントニーが手を止めた。立った状態から見下ろす王太子の顔になにを見たかはわかっている。ロイはもう騒ぎ立てはしない。ただ冷静に、冷徹にこの事態そのものの把握に努めている。
「……レオン、君はさっき言ったな。この場は君が僕の器を見定める場だと」
「ああ」
「これが、それをたしかめるための手段なのか」
真剣な瞳はもう揺らがない。その持ち主に頷いてみせる。
「そうだ、毒は入っていないから食え」
「僕に、これを食べろと……」
皿の上には数枚のクッキーが整然と並んでいる。震えるロイの指先がそのうちの1枚に触れようとした途端、私は先んじて声を出した。
「お前だけじゃない。3人揃って口にしろ」
「レオン!! てめえどこまで調子乗りゃ気が済みやがる!!」
一瞥。それだけでことが足りる。勇み足で敵意を顕わにする獰猛な野獣を、ロイがまたしても諫めてみせた。
「毒が入っていないと保証するものは?」
「ない」
きっぱりと断言した後で、他の誰かが騒ぎ立てる前にこう付け足す。
「……と言いたいところだが、それではフェアじゃないだろう。私自身の命を懸けよう」
「もし毒が入っていたら?」
「この首切り落とし、王城まで持って帰ってもらって結構だ」
私が首筋に人差し指を這わすと、かち合う視線が互いを値踏みする。
隣の護衛は納得していない。間に割り入るように声を張った。
「さっきから聞いてりゃなにがフェアだ。レオン、てめえの言ってることはバカげてる。もしこのクッキーに毒が入ってりゃあ、俺たちゃ全員仲良くあの世行きじゃねえか!! これのどこがフェアだってんだ!!」
ここに来て、アントニーがやにわに怒りを滾らせ始めた。
先にも増して獣の瞳染みた眼光と声音で、私を威圧しようとする。
「お前の魂胆なんざ最初から見え透いてんだよ!! ここで俺たちを毒殺して、独立宣言後に起こるいくさで優位に立とうって腹だろう!! ……なあ殿下、こんなやつの言うことなんか乗るこたないぜ。それよか、俺に命じてくれ!! 今すぐこいつをブッ飛ばして、牢獄まで連行しろってよ!!」
国敵に対し気勢を吐く、近衛騎士の在り様はそうおかしなものではなかろう。冷静に判断すれば、なるほどこれはフェアな条件などではない。まったくと言えるほど、滑稽に思えるほどに。
私がもし、このクッキーに毒を仕込んでいたら、3人は中毒死する。対して、私に死の鉄槌を下すためにはその毒に打ち勝って生き残る必要がある。
だがなアントニー……お前には見えていない。
事態は既に、条件の有利不利などで足踏みできるような状況にはないということに。これは私とロイの、2人の男の意地の張り合いなのだ。
私はロイだけを見つめ、ロイもまた私だけを見つめている。
「証明してみせろ。お前の器を。それともお前は臣下の言葉すら信じられない腑抜けた王太子なのか」
前傾して凝視すると、ロイが私の眼圧を撥ね返してきた。
「僕だけでは……ダメなのか……」
「ダメだ。全員が一蓮托生となって同時に食え」
「仮に毒が入っていたとしたら、僕は2人に死の道を選ばせたことになる」
「飲み込んでみせろ。その責任の重さを。それでこそ王太子だ」
「……僕は……」
距離は関係なかった。私は辺境伯の椅子に座したまま、臆病風に吹かれるロイへと迫る。
「僕だけの命ならばいくら賭けたって構わない。けれどここには忠臣と、愛する妻までもがいる。僕の意地で、彼らの命まで危険に晒すわけには……」
「ロイ様」
断りを入れようとした瞬間、テーブル上のロイの手に添えられるものがある。
その妻、アウロア・ブリアリンの掌が柔らかく包み込んでいる。
「どうか、あなたの心のままになさってください。私、アウロアは、どこまでもあなたに付いてゆきます」
「アウロア……しかし、構わないのか」
「ええ、だって、私にはロイ様しかいませんもの!!」
無理に作った笑顔だった。私ですらわかる。アウロアは死を恐れている。
しかしそれ以上に、ロイから離れてしまうことをこそ、恐れている……。
背中を守る人物は、この光景をどのように見つめているのだろうか。
想像の合間に、アウロアが頭を上げて視線を移動させるのを見た。
「アントニー、あんたもよ」
「マジか。王太子妃まで、頭イカれてんぞマジで……」
「今の不敬な発言、聞かなかったことにしてあげる。レオンのことなんて信じることないわ。私たちは、ロイ様の判断をこそ信じるのよ」
「どうかしてんぜ、まったくよぉ」
額に手を当て、盛大に呻く。しかし王太子夫妻が息を合わせた今、その忠臣たる自分が付き合わないわけにはいかない。
「後で金一封寄越せよ。割に合わないゲームは趣味じゃねえんだ」
「アントニーもありがとう。色を付けるとを約束する」
3人が顔を見合わせて頷き合い、再び私へと対峙した。
「話は纏まったようだな」
「その前に、君に訊ねておくことがある」
眉を動かすと、見て取ったロイが続きを話す。
「これはマリーヌの復讐で、君はその代理執行者ではないのか」
「何故そう思う」
純粋な好奇心で訊ねた。ロイも隠し立てなく応える。
「卒業記念パーティーでのことだ。君は、僕たちがマリーヌとの婚約を破棄しようとするのを眼にして、ステージに飛び込んできた。そして思い直すよう、何度も僕を説得しようとした。しかし結局、僕は君の言葉を無下にし――そして、そのまま君と別れた。君は、僕がマリーヌを捨ててアウロアへ走ったことを今も怒っているんじゃないのか」
耳を澄まし、私の答えを待ち望んでいる。
一言一句を聞き逃すまいと、気を張り詰めている。
私の答えならばひとつだ。その眼、その態度を3年前に見たかった。お前が真剣に私の言葉に耳を傾けてさえいれば、私とてあの場で怒りの感情に惑わされずに済んだことだろう。
しかし、すべては終わったことだ。
いくら願ったところで、もう取り戻せはしない。
私は眼を瞑り、夢想を振り払うよう首を振ってから答えた。
「似合いの2人だとずっと思っていた……お前とマリーヌ嬢に関する感情は、今も昔もそれだけだ」
「そうか、わかった」
無言のまま頷くと、ロイはその言葉を信じた。そして左右の人物に目配せをし、タイミングを合わせて皿の上のクッキーを手で口まで運ぶ。
これで決着はついた。私は彼らの姿を余さず凝視する。クッキーを噛み砕き、咀嚼し、一息に飲み込むその所作のすべてを確実に記憶する。
表情を歪ませ、顔色を青白くし、苦しみに咽喉を掻きむしろうとする指先を。
俯き、眼から止めどなく溢れる涙を、眉根の寄り行く筋肉のその動きすらも。
そしてなにより、彼らの苦しむ姿こそを――。
「ケホッ!! ケホッ!!」
反射のような動きだった。アウロアがハンカチを口元に当て、込み上げる苦痛に耐えられず大仰な咳をする。その眼元には涙が見える。感情の揺らめきでなく、生理的な反応がそれを作り出す。身体が異物を拒絶しているのだ。
「がっはっ……レオン!! てめぇ……!!」
アントニーはこちらを睨みつけている。利き手で咽喉元を押さえ、私を親の仇のような眼で見ている。もっとも、口内の残存物が邪魔立てして正常な動きが取れないのか、気勢は浮いた車輪のように空回りする。ときに餌に毒を盛られた檻の中の猛獣は、このようにして果ててゆくものなのかもしれない。
「裏……切ったのか……僕を……!!」
血走った眼が見開かれるのを見た。アントニーの敵意よりも、余程の凄みがある。ロイは己の運命を天に預けた。私を信じるとそう決めた。だから口の中にはもうなにも残っていない。噛み砕き、一気に嚥下を果たした。これが毒ならば助かりようがない。
苦しみ喘ぐ最中に、三者はそれぞれの動きを見せる。
絶命に至るまでの猶予に、やり遂げなければならぬことがある。
椅子を倒し、脚で蹴り飛ばしながらアントニーが重戦車のように突進してくる。相討ち覚悟で私と決着をつけるつもりだ。その意は他の人物も同じく見せる。青褪めた顔で、ロイは剣を構えようと抜剣の体勢に入った。アウロアの様子だけが先程までと変わらない。死の間際にも、椅子に腰かけてロイのことを心配そうにじっと見上げている。
この先に待ち受けるは血みどろの殺し合いだ。
毒を盛られた2人が、主催であるひとりの剣士と戦う。
仮にここに席があったなら、観客のお歴々はさぞや見物だろう。
数的有利は向こうにあり、残り時間にはこちらが分がある。
勝敗は五分に近い。そして互いに己のすべてと命運を懸けている。
この場で私を殺しきれなければ、近い将来に弑逆されるのは彼らの親族たちだ。逆ならば追って起こるであろう内戦は私の陣営の有利に進む。かつて隆盛を誇った古代帝国の、剣闘士もかくやの凄惨な殺し合いとなったはずだ。
……もし私が盛ったのが本当に毒だったとすればな。
「ロイ」
構えた剣の先端の辺りから、ぬっと私が顔を出した。
顔面蒼白のロイの顔が一転、驚きの表情に変化する。
しかし不思議なことなどなにもない。私が既に正面にいるのは、お前たちが皿を凝視していた頃から既に歩を進めていたからだ。お前たちのことを余さず観察しながら、次の仕事の準備をしていたためなのだ。
「動くな」
そう言った。意味は通じていたか怪しい。ロイは金縛りに遭っていた。私の声が拍車を掛けた。やにわに取った私の所作を、眼を動かして追うので精一杯であっただろう。
ロイがこちらを凝視しているのを確認し、私はロイから視線を下方に外してテーブルの上の皿を見た。ロイの食した分を除いて、クッキーには数枚の残りがある。私はそれを親指と人差し指を用いてすかさず持ち上げると、無造作に口内に放り込んで咀嚼し、こくんと嚥下して見せた。
「レオン……なにを!?」
「まだだ。まだ動くな」
手を上げ、声に出して制止する。食べ物が胃に落ちる感覚がするまでじっと待ち、私は食道の辺りを手で擦りながらロイの顔を平然と見た。
「なんともないだと……?」
「言っただろう、毒ではない」
「そ、そんなバカな話はない!! 現に僕たちは、舌に刺すような痛みを感じているんだぞ!?」
ロイの狼狽も理解はできる。まったく同じものを食しておいて、この反応の差たるや信じがたいのだろう。
「何故、君だけが平然としている……」
「理由がある。順を追って話す」
デモンストレーションを終えた私は一同に向き直った。
口にハンカチを当てて半ば呆然とするアウロア、殴り込みを掛けようとした矢先に出鼻を挫かれて拳の振り下ろし先を失ったアントニーも、再び私を注視し始める。
「他のお客人も、そろそろ気づき始めた頃合いだろう。口内に残る痛覚、いや後味がなんであるのか。先に答えを言ってしまうなら、それは塩味だ。それこそが、舌を突き刺すほどの刺激の正体だ」
言い終えると、残りの面々の顔にも冷静さが戻る。
私の言葉にも増して、舌に残る感覚がそれを物語っているのだろう。
一口目に感じた劇的な痛みが治まれば、なるほどそれはしょっぱいという味覚に他ならない。
ロイもまた、舌を使って口内の状態を確認した。
「塩味……たしかにその通りだ。だが君の言っていることはやはりおかしい。このクッキーに塩を入れたとして、どうして同じものを食べた君だけが無事なんだ?」
疑問はごもっともだが、前提条件に誤りがある。
「誰がクッキーに塩を入れたなどと言った?」
「違うのか!? しかし……」
ロイたちは顔を見合わせる。悩ましげに頭を捻る両者から返ってくる頷きは、たしかに塩味だったと保証するものだ。
種明かしの時間だ。私は惜しみなく言ってのけた。
「このクッキーには、件の茶会でマリーヌ嬢が振る舞ったものに近しい成分が入っている」
「……どういった意味だ?」
深刻に訊ねられたが問いには答えない。打ち明け話の方が先決だ。
「昔、野盗に攫われたことがある。私は洞窟に監禁され、ありとあらゆる毒を試された。洞窟内で発熱し、幾度も生死の境を彷徨った。そして手に入れたのだ。あらゆる毒素に対する強い耐性を」
再び3人に向き直り、静聴する彼らに向かって告げる。
「このクッキーには、甘味を塩味に誤認させる成分が入っている。さっきお前たちが感じた痛みの正体は、クッキーの調理段階でふんだんに使った砂糖の甘みが反転したものだ。しかしこの強烈な塩味は私には効果がない。何故ならこの成分は、元々は人体にとっての毒物であったからだ」
毒物。
その剣呑な響きが再び一同の顔を青褪めさせる。
「ちょっと待ってくれ!! ならば僕たちが口にしたのはやはり毒ではないのか!!」
疑うのも無理はないが、話はまだ途中だ。
首を振って言い足す。
「精製段階で毒素のみ取り除いた。今しがたお前たちが体感したのは副次的効果の方だ。あの茶会で振る舞われたクッキーの断片から、ここまで再現するのに相当な時間が要った。途方もない、と言って過言でないほどのな」
3年の月日の重み。気の遠くなるような歳月の感慨は、マリーヌ嬢とアーノルドが支払った苦労を思ってのことだ。
彼ら優れたる頭脳の持ち主が揃っていなければ、この謎は誰にも解かれぬまま、完全に風化してしまったことだろう。
「それと、この毒物にはユニークな特性がある。ある摂取量までは舌に乗った甘味を塩味に誤認させるだけだが、それを超えると一気に劇毒化して死に至らしめる。あの茶会で誰も死ななかったのは、誰かが致死量を摂取する前にマリーヌ嬢が異変に気づいて制止したからに他ならない」
……想像するに、肝の冷える思いがする。
あの茶会は失敗が許されぬものだった。主催であるマリーヌ嬢も万全を期していた。招かれた客人はマリーヌ嬢を慕う令嬢が主であり、彼女たちはマリーヌ嬢とロイとの関係をずっと案じていた。
主催として方々に出ずっぱりのマリーヌ嬢、そして比較的自由にしていた眼の前の3人に先んじて、彼女たちにはクッキーが振る舞われた。そして一口食べた瞬間に気づく。砂糖と塩が間違って混入していると。
食べるのを途中で止めることも、指摘することも簡単だった。けれど彼女たちはマリーヌ嬢の立場を知っていた。もしこの茶会でミスを犯したと知られれば、ロイ王子がマリーヌ嬢に婚約破棄を突きつける恰好の大義名分となる。それだけはなんとしても回避せねばならない。だから――。
「調べは付いている。あの茶会での体調不良者の大半は、マリーヌ嬢の取り巻き令嬢に集中している。マリーヌ嬢の身を案じて、違和感を覚えながらもクッキーを食べ続けたせいだ。追って調査を走らせたところによると、茶会後も不調が続き、学院を休学した者までいたそうだ」
誰もが言葉を失う。もっともショックを受けて見えるのはもちろんロイだ。かつて毒のせいで大切な姉たちを失った男は、顔面蒼白のまま虚ろに独りごちる。
「なら、あの茶会で実際に振る舞われていたのは……」
「毒の入ったクッキーということになる」
項垂れるロイから視線を外し、即座にアウロアを見た。そして――。
「端的に伺おう。何故あんなことをした?」
「わ……私!?」
虚を突かれた顔をして、思わず大きな瞳を見開く。口を半開きにして唖然としたのも束の間、今の自分の立場を思い出して早口になる。
「あ、あんたなにを言っているの!? 私がそんなことするはずないじゃない!!」
「動機ならある。マリーヌ嬢が主催した茶会が失敗したことで、もっとも得をした人物はお前だからだ」
不遜な態度でお前呼ばわりされた怒りというより、追い詰められたネズミが猫に刃向かうように喚き立てる。
「濡れ衣よ!! なんで私がそんな……!!」
「答えるのは私にではない。ロイに向けて釈明してみせろ」
一分の容赦もなくきつく睨み返す。肩を浮かせて怯えを見せるも、すぐにロイに向けて大声を放ってみせた。
「私、毒なんて盛っていません!!」
精一杯の叫びは、助けを求めているように聞こえたか。弱き者であれば誰であろうとロイの心を打つ。愛する妻であるのなら、なおのことだ。
「レオン、見損なったぞ!! こともあろうに、僕の妻に向けてこんな……!!」
「損得勘定の範疇だ。それに、なにも根拠なく言ったわけではない」
「なんだと?」
「あの場で会場を離れる自由が利いたのは、マリーヌ嬢を除けば、お前たち3人以外にいないということだ」
ふう、と一呼吸入れて私は続けた。
「マリーヌ嬢には手を汚す理由がない。アントニーは護衛としてお前に付きっきりとなっていた。状況的に、調理場に忍び込んでクッキーの生地に毒を盛ることができたのは、アウロアを除いて他にいない」
「君は、なんて大それたことを……そこまで言ってのけるからには確たる証拠があるんだろうな!!」
愛する妻に殺人未遂の容疑が掛けられている。鼻息荒く凄むのも当然のことだろう。だがそうとしか考えられない理由はある。
「先に語った。私たちはマリーヌ嬢が密かに保存していたクッキーから、混入していた毒物を検出した。実際に同じものを作り出してすらいる。それに……もうひとつ、看過できない大きな事実も把握している」
「大きな事実だと!?」
問い返すロイに、大きな動きで頷いてみせた。
「あの茶会において、マリーヌ嬢は万全を期していた。異物の混入にだって気を払っていたんだ。砂糖はすべて新品のものが使われる予定だった。そして準備した新品の砂糖袋は、調理場にて実際に開封されている」
これも確認が取れた事実だ。
事前に準備していた砂糖袋は開けられており、内容物はクッキーに使われる分量だけ減少していた。
「あのクッキーには、間違いなく砂糖が入っていた。しかしクッキーの味について、その甘味が言及されたことはない。誰もが舌を突き刺すような塩味を感じていたと証言している。おかしいと思わないか」
一般的に、貴族の味覚は優れている。精の付くものであれば基本的に味など問わない私などを除けば、繊細微妙な部分まで判別することができると言っていい。
聞き込みは、書簡でも、アーノルド手ずから邸宅へ赴くことでも行った。当時、マリーヌ嬢の取り巻きをしており被害に遭った令嬢の多くは、クッキーから強烈な塩味以外の何物も感じなかったという。
妙な話だ。料理人もかくやの舌を持つ海千山千の令嬢たちに、甘味について言及した者がひとりとしていなかったとは。
「毒による甘味の反転……しかし!! それだけでアウロアを犯人だとは!!」
「冷静に考えろ、ロイ」
冷徹にアウロアを射竦めたまま、隣のロイへと語る。
「たしかにことは未遂に終わった。だが仮に完遂していればどうなった? 貴族子女に死者を出せば、その責は当然マリーヌ嬢が受けることになる。お前は過失で学友を死なせてしまった女を、妃として隣に置くことができたのか?」
もはや無言こそが最大の返答だ。
ロイの負った心の傷がそれを許さない。
砂糖と塩を間違ったミスですら、幼少からの婚約者に婚約破棄を申しつけたのだ。実際に人死にを出してしまえば、後先を考えず国外追放の刑にすら処したことだろう。
マリーヌ嬢は、王太子妃となる資格を永久に剥奪されたはずだ。
「だが……何故だ!? 僕たちは愛し合っていた!! アウロアにここまでする理由なんてないはずだ!!」
勢い込んで問うてくるが、訊ねる相手が間違っている。
首を戻してロイに一瞥をくれると、その視線をアウロアの顔へと誘導する。
「当人に訊いてみろ。天地水明に、そして夫であるお前自身に誓って嘘は吐かないと誓いを立てさせてな」
ロイが生唾を嚥下した。真剣な表情で妻へと向き直る。
アウロアは追い詰められて見える。椅子の背を引いて、音を立てた箇所に眼を遣り、逃げ場がどこにもないことを確認して夫の顔へと視線を移した。
「ろ、ロイ様……!?」
「アウロア、僕は君を信じている」
念押しに、アウロアの眼が泳いだ。一瞬だけだ。
すぐ元の位置に戻して、愛する夫と見つめ合う。
「だから正直に言って欲しい。本当に君が、マリーヌのクッキーに手を加えたのか」
「…………」
私は瞬きをしない。すべてはこの瞬間のためにあった。アウロアの逃げ場所が急激に失われてゆく。今度はほんのわずかに下方へ眼をやって、言いづらそうに奥の歯を噛みしめる。
「黙ったままではわからない。言ってくれ。そんなことはしていないって」
「…………」
「心から、君のことを信じている。僕の眼を見て答えて欲しい」
恐らく、その一声が決め手となった。アウロアは胸の前できゅっと掌を合わせ、彼女らしからぬ消え入りそうな小声を出した。
「だって……だって、勝てない……」
「アウロア?」
「マリーヌは絶対にミスなんてしない。だから、誰かがやるしかなかった……」
顔を、視線を逸らしたいのを懸命に堪えているのがわかる。罪の重圧がアウロアを押し潰そうとする。そうされないためには、一気に押し上げるしかない。
「まさか、本当に君なのか……? 頼む、違うと言ってくれ!!」
それは王太子らしい振る舞いとは言えなかった。もはやロイは哀願していた。どうあってもアウロアに、首を横に振らせようとしていた。
しかし誓いは既になされている。今この場で嘘を吐くということは、愛する夫に対する裏切りにも等しい。
「マリーヌは完璧な令嬢よ。あの子がもし本気になったら、きっとロイ様のことだって取り戻されてしまう……」
「一緒になろうと誓った!! あんなことがなくたって、絶対に僕の口から御父上を説き伏せてみせるって!!」
「ご、ごめんなさい!! まさかこんなことになるなんて思わなかったの!! だから!! だから私……」
ぽろぽろと両の眼から止めどなく涙を零しながら、幾度となくアウロアが謝罪の言葉を口にする。
ロイは死体のように顔を青褪めさせ、その瞳もまた急激に光を失ってゆく。
「僕のことを、僕の愛を、信じていなかったというのか……」
「違います!! 信じたかった!! だけど……!!」
「もういい」
ぴしゃりと打ち切った。ロイはすっと立ち上がると、なおも弁明しようとするアウロアを捨て置いて、彼らの様子をじっと凝視していた私へと向き直る。
「……コルラン辺境伯。本件はたしかに由々しき事態だったようだ。どうやら僕は、この女の色香に誑かされて、犯罪者を王太子妃の座に就ける愚を犯してしまったらしい」
「違います!! たしかに私はクッキーに手を加えました!! でも盛ったのは塩で、毒なんかじゃなかったんです!!」
アウロア必死の抗弁も、今のロイには届きはしない。
持って生まれた情が深いからこそ、注ぐ相手は誰でも良いというわけではない。ロイは、1度見切った相手にはどこまでも冷徹になれる男だ。
「君は僕を裏切った。今さら誰が君の言うことなど信じるというんだ」
「……ロイ様……」
頼るよすがを失って見えた。私をして、憐れさを思うほどに。
今のアウロアに手を差し伸べられるのは、きっとロイだけだ。
だが当のロイは孤児に鞭打つが如く、氷のように冷たく言い放つ。
「犯した罪には、然るべき罰を下す。それが王太子たる者の使命だ。例え1度は愛した女性であろうと、例外など許されない。君は茶会で無実の貴族子女たちを毒殺しようとし、あろうことかその罪をマリーヌに着せようとした。その代償は、己が身でもって償わねばならない。立て。これから君をブリアリン城の牢獄まで移送する」
犯罪者は、裁きの庭へと掛けられることになる。
直に手を取ろうとしたのは最後の情けだ。
かつて蝶よりも花よりも丁重にその手を取り、華やかなる社交場へエスコートしたのと同じ掌で、罰の下される場所へ誘おうとしている。
アウロアは、初めて受けなかった。静かに首を振って、それから――こんなときだというのに――泣き笑いの笑顔すら浮かべてロイの顔を見つめた。
結んだ両の掌を解き、ゆっくりと、そして優しい手つきで自身の下腹部に当てたのだ。そして。
「……赤ちゃんが、いるの……」
道理だと思った。私の脳裏に、ゲストルームに入室したばかりのアウロアの様子が回想される。しきりと椅子の状態を気にして、マリーヌ嬢にクッションの供与まで申しつけたのはそのためだったのか。
「あなたの子よ……この席を終えて、王都に帰ったらお伝えしようって、そう思っていたの……」
「み、身籠っているだと!? そんな見え透いた命乞いなんて!!」
剣呑な言葉と裏腹に、ロイの足が半歩退いた。動揺するなというのは酷な話だ。本当なら、世界中の誰よりもお前こそがその朗報を喜ぶはずだった。
大仰に頭を振った。乱れた髪が、ロイ自身の心模様をも描き出す。
息つく暇もなく、アウロアは涙を流しながら愛する夫へ言上する。
「お願いします!! 私の身はどうなったって構いません!! 一生日の差さない場所に幽閉されても、八つに裂かれても、火にくべられたっていい!! でも生まれてくる子に罪はないの……ロイ様、どうかこの子の命だけはお助け下さい!!」
涙を流し、両手を使ってロイの衣服に縋りつく。
ブリアリン王国の王太子は、その姿になにを見るのだろうか。母なるものの必死の献身か、延命のためのその場凌ぎの欺瞞か、それとも――。
私は、ただ夫妻の姿を眼にした。ほんの一瞬、唇を嚙みしめるロイが私の顔色を窺うのを見た。すべきことならばわかっている。今この女の胎に宿っているのは、未来に起こる戦争の種火だ。例え自分の子どもであったとて、生かしておけば確実に災厄を招き寄せることになるだろう。
だからこそ非情に徹する。正しき裁きを下す。
それこそが、いずれ一国を継ぐ王太子としてあるべき姿だ。
ロイは、己を見定める者の思う行動をこそ取らねばならなかった。
アウロアの手を乱暴に振りほどいて、叫ぶように言った。
「黙れ!! 今さらそんな世迷言なんて口にするな!! 今君の胎にあるもののせいで、この先どれだけの王国民の命が危険に晒されるか!! それならば、そんな事態を招くくらいなら、僕の手でいっそ……!!」
ロイが右手を高く掲げる。かつてやさしく触れた手を拳のかたちに固めて。
頃合いだった。もう十分だ。だからこそ私は、心のままにやるべきことをやる。
ロイがアウロアの顔に向けて拳を振り下ろす寸前、横合いからロイの右手首を掴んだ。
「レオン!? 邪魔立てをするな!!」
「もうよせ、ロイ」
お前にとっては今さらだろう。今さら私の顔に深い同情の色を見つけたところで、燃え盛る怒りに薪をくべるようなものでしかない。
「ふざけるな!! 放せ!! 僕はこの女を罰しなければ……!!」
「本当にそれがお前の望みか」
「なに!?」
「見ろ」
私は睨みつけるロイの視線を、アウロアの座る席へ誘導した。
敵意に眇められた碧眼が、大きく見開かれてゆく様を見る。
アウロアはきつく眼を瞑り、来たるべき衝撃に備えていた。ただし自分の身など守ってはいない。じっと俯き、両腕を下腹の辺りで巻き付けるように掻き抱いて、お腹に宿る子どものことを必死に守ろうとしていた。
「……あ……あ、あ……」
ロイの右腕にこもる力が抜け、だらりと垂れ下がる。
自分が今誰に、なにをしようとしていたのかを思い知ったのだ。そして――。
芳しい香りがした。それはこのような修羅場には似合わない、リラックスした空間にこそ似つかわしい香りだ。私が執務の合間の楽しみとして慣れ親しんだその香りが、コツコツという靴音とともに背後から近づいてくる。
「紅茶をお持ちしました」
水のように流麗な所作。立ち上がったロイの周囲を巡るようにして、ソーサーごと彼の席へと滑り込ませる。
その声に、ロイが頭を上げて彼女の姿を見た。彼女はニッコリと笑って、臆することなく懇切丁寧に、修羅場を演じたばかりの王太子へ向けて説明を始める。
「こちらは、コルラン領にて穫れた最高級の茶葉を使用しております。濃厚で芳醇な香りは、砂糖の甘みととても相性が良いのです。砂糖壺より、お好みで砂糖をお加えになって、どうかゆっくりとお掻き混ぜになってください。無心になって混ぜられている間に、きっとお気づきになることでしょう。それはあなた様ではない。あなた様が今なさったことは、ほんの一時の気の迷いであって、なんの罪も、咎めも、決して必要なものではないのだと」
爽やかに笑みを湛える。その顔には慈愛がある。
まるで女神でもあるかのように、すべての罪を不問とする笑み。
「……君は……まさか……」
ロイがまたしても眼を大きく見開く。ようやく気付いたのだ。この優秀な女執事が誰であったのか。そしてロイ自身の、なにを許したのかすらも。
ロイは彼女に言われた通り、スプーンを手に取った。
逆の手で砂糖壺の蓋を開き、中からいくつかの角砂糖を取り出す。
朱色の水面に落とし入れると、慎重にスプーンを持ってゆっくりと掻き混ぜ始めた。茶葉が開く最適の温度に調整された液体は、圧力で固められただけの砂糖を見る間に溶かしてゆく。その最中に、別の眼に見えぬものも溶ける。
取っ手に指を添え、ゆるりと口元へ運んで一口嗜む。
味を見たロイの表情が、朱色の水面を見たまま平常に戻る。
「……美味しい」
「お褒めいただき光栄に存じますわ」
落ち着きを取り戻したロイから視線を外し、万能の令嬢が私を見た。私たちは頷きを交わし合う。私の瞳も、この優れたる令嬢の瞳も、ともに同じ結論へと達したようだった。
剣呑な芝居は幕を降ろした。私は役者の衣を脱ぎ捨てロイに言った。
「わかっただろう。アウロアじゃない」
「そうかもしれない……だが、僕はどうしたらいい?」
「私が言うことではない。心のままに動いてみろ」
ティーカップをソーサーに戻し、ロイは無言でアウロアを見る。
ときに己の立つ場所が、素直な心の邪魔をする。王太子という重責。果たすべき責務。それらを心理的遠近法の彼方へと遠ざけてやっと見えてくるものがある。
ロイの心の動きは、彼の手を動かした。未だ涙の筋が残るアウロアの頬に触れ、かつて幾度もそうしたように、横に動かして流れる髪の感触をたしかめる。
「ロイ様」
「済まなかった。アウロア……」
見下ろすロイの瞳にも、見上げるアウロアの瞳にも、ともに言葉に言い尽くせないものが甦る。ロイの心の底流に流れていたのは、抗い難いアウロアへの愛情だった。今なら私にだって理解できる。彼らはもう大丈夫なのだと。
その油断が、仇となった。




