第25話 『王太子ロイ・ブリアリンの悲しみ』
ロイの口から語られる物語。
その主人公は、彼の姉ではなかった。その、傍付きメイドだった。
彼女は、ブリアリン家に代々仕える由緒ある家の出だった。王都にあるブリアリン城近郊で生まれ、物心つく頃には奉公のために城に上がり、そこを終生の職場とした。
生まれた瞬間に人生のすべてが決定している、この時代には珍しくない女性だった。
代々続く家臣の血がそうさせたのか、職務に関しては熱心だった。家の者の教えを良く守り、自身でも学びを怠らず、主君に対しては常に忠実。その姿は、ロイをして理想のメイドと言わしめるものだった。
しかし人の世はいつだって、悲しみとは切り離せない。
順風満帆に見えた彼女の人生にも、暗い影が差す瞬間が訪れた。
馬車事故。誰に責任を求めることもできない不幸によって、彼女は愛する家族をいちどきに喪った。残されたのは自分だけだ。
彼女は一転して、天涯孤独の身となってしまったのだ。
「家の者は……そんな彼女の身を案じていた」
ロイは述懐する。彼女は肉親の死から眼を逸らすように、今までにも増して仕事に励むようになったのだと。
その姿は、他の者にとって痛ましさを感じさせるものだ。
ときに、そんな彼女に手を差し伸べる者があった。ロイの姉君だ。
「姉上は、彼女を自分の傍付きメイドに抜擢した。いつだって彼女のことを傍に置き、やさしく語りかけては甲斐甲斐しく心の傷の具合を診られていた。いつしか彼女の心も癒え、時折笑顔を見せるまでに回復したんだ」
貴族学院が長期休暇に入ったタイミングで、ロイは姉君からメイドの紹介を受けた。
恭しく頭を垂れて挨拶する姿に最初は少し硬さを感じたものの、すぐに打ち解けて仲良くなることができた。
「彼女たちの仲は良かった。誰に対してもやさしいが、ときに気位の高さが邪魔をするのが姉上の気質だった。同年代で、同じ目線より少しだけ下でいてくれる彼女の存在は、姉上にとって最高の友人の条件を満たしていたんだ」
ロイの長期休暇も半ばを迎える。天真爛漫で、ときにお転婆な姿も見せる姉君と、いつも主人の傍に控えて見守っている彼女のメイドとは、対照的だがとても仲の良い姉妹のようにロイの眼には映った。
だからなのだろう。ロイは立場を超えた2人の美しい友情を、より輝かしいものにしたいと願ってしまったのだ。
「残りの休暇を、僕たちは飛び地にある別荘で過ごそうと思った。緑豊かで、静かな地だ。読書や、語らいにもってこいの場であるはずだった」
過去を思い返すロイの横顔は、深い後悔の色に苛まれている。良かれと思って連れ出したその先が、彼らの人生の分岐点となってしまった。
初めは、みんな喜んでいた。ロイの姉君は彼女のメイドを草原のある外へと連れ出し、困惑を見せながらも、2人して果てのない草原を駆けた。
ときに羊の群れと出くわし、ときに川の清流を掬って咽喉を潤し、ときに繁茂する野苺を千切って食べ、ときに沈みゆく落日をともに見送る。
王都の窮屈さを離れた彼女たちは、大自然のもたらす恵みを満喫していたのだ。
「彼女も、日ごとに笑う回数が増えていった。良い傾向だと思ったんだ。それが、あんな……」
先には立たなかったロイの後悔は、具体的な人物となって彼らの前に現れた。
別荘の滞在期間中に、とある客人の来訪を受けたのだ。
「その人物とは誰だ?」
「学友だ。名前は伏せる。休暇明けの貴族学院の催しについて、僕に相談を持ちかけてきたんだ。別荘へは、僕を追いかけてきた」
大自然の楽園に、突如として入り混じった異物。
その人物を正しく評すればそういうことになる。彼は都市型人間だった。王都から逃げるようにして離れ、羽を伸ばす姉君とメイドのことを、内心では嘲笑っていたのだという。
「僕には、そんな様子は見せなかったけどね。内心はどうだったやら」
「…………」
「少しの我慢で済むはずだったんだ。彼はすぐ発つ予定だった」
ロイとの話し合いは深夜にまで及び、指針が決まった頃には日が変わっていた。一夜の宿を別荘で過ごし、明朝に出発する。そう段取りを組んで、彼らは就寝することにした。
そこから先は、偶然の要素が強い。
誰もが寝静まった頃、彼女がふと眼を覚ました。
ロイの姉君たっての願いで同じベッドで眠っていた彼女は、姉君を起こさぬように起き出して、別荘の外に出た。明日、お客人の馬車が問題なく走るように、点検作業を行おうとしたのだ。
「その甲斐甲斐しさが、仇になった」
奇妙なことに、どこか見覚えのある車体だった。ランタンの光を片手に、彼女は寝巻のまま仔細を点検してゆく。ふと、その眼が車体前方の一点で止まる。なにか動物のようなものと激突したらしき大きな傷。彼女はそれに手を伸べて直に触れ、そして真実を知った。
帰りは早歩きだった。寝巻きの裾に土が飛んでも、構うことはなかった。月明かりの下で、彼女は涙を流していた。部屋に帰ると両手で顔を覆い、穏やかに眠るロイの姉君を起こさぬよう無音で嗚咽した。
泣き終えた彼女は意を決して立ち上がり、紅茶一式の準備を始めた。キッチンで湯を沸かし、ポットに淹れ、胸元に下げた小瓶の栓を抜き、その中身を振りかける。彼女はそれを盆に載せると、両手に持って立ち上がった。
「轢き逃げだったんだな」
「ああ」
いたたまれない表情でロイが相槌を打つ。
「事故は彼女のすぐ傍で起こった。四頭立ての馬車が、彼女の両親と弟を轢き潰して走り去った。目撃者はみな、彼女の家族が急に車道に飛び出したのだと証言したよ。でもそれは嘘だった。買収されていたんだ」
悲痛さを湛えて歯噛みするロイだが、どうしても聞いておかねばならぬことがある。
「毒を所持していたのは何故だ」
「希死念慮だ。彼女は家族の元へ行きたがっていた」
「お前の姉君はそれを留めていたんだな」
「ああ……自分が新しい家族になるつもりでいたんだ」
新たに家族を得れば、死の魔性からは解放される。ロイの姉君は、自分が彼女の姉であるように振る舞うことで、彼女の命を守っていたのだ。
「あの日、別荘には彼女の仇がいた。最初で最後のチャンスだった。この夜を逃せば、もう2度と復讐の機会はない」
紅茶のポットに入れたのは致死毒だ。ほんのわずかの分量で人を死に至らしめることができる。飲むことならば簡単だ。しかし飲ませるとなると条件を整える必要がある。誰もが寝静まった深夜に、メイドが客人を訊ねる理由など存在するだろうか?
ロイの発した言葉が、そんな私の疑問を片づける。
「理由を考える必要なんてなかったのさ。彼は評判の良い人物ではなかった。夜分に乙女が部屋に訪れたとして、理由はひとつと考えただろう。来るもの拒まず、無条件に招き入れていたはずだ」
「一夜の思い出を求めて、か」
大真面目に言ったつもりだが、私をしてらしくない言い回しだったかもしれない。
ロイはほんのわずかに眼を丸くし、少しだけ眉を上げた。
「そんな良いものではないさ。彼は筋金入りの好色漢だった。後で発覚したことだが、彼の取った迂闊な行動が原因で、何人もの令嬢が貴族学院を退学していたらしい。姉上や彼女にも、僕に隠れて色目を使っていたくらいだからな」
昼間に狙いを付けられていたなら、取り入るのも容易いか。
嫌な意味で、その男の人物像が鮮明になってしまったな……。
「……すべての準備を終えても、彼女の心は揺れ続けていた」
手前で準備した盆を、立ったままじっと見つめる。これを持って男の部屋を訪ねれば、状況は川のように行き着く果てに流れることだろう。すべきことならばわかっている。彼の意のままになる振りをして、紅茶を飲むよう誘導すればいい。朱色の液体に溶ける無味無臭の猛毒が、確実にすべてを終わらせてくれる。
一方で、彼女の足を釘付けにする考えもある。身の破滅が怖いわけじゃない。むしろずっと以前から願っていたことだった。家族のいない世界で長らえさせたい命でもない。そんな価値などとうに失せてしまっている。
「…………」
だけど躊躇がある。今もし家族の仇を討ってしまったら、それはある人物への手ひどい裏切り行為になってしまうのではないだろうか?
「あなたは今、悲しみの淵に沈んでいるのね?」
脳裏に浮かんだのは、いつかの光景。
大事な人たちを喪った彼女が、今の主人に呼ばれたときのこと――。
「家族がいなくて寂しいのなら、私を姉だと思いなさい。いつだって甘えていい。私は、あなたのことを上とも下とも思わないわ。でもこれだけは覚えていて。死に逃げてはダメよ。あなたの家族はあなたのことを待ってはいないわ。待っているのは、あなたがこの世界で生きたまましあわせになること。あなたがこの試練を乗り越えて、強く美しくなることなのだから」
忘れられない言葉だった。日記にだって書き綴っていた。けれどその必要はなかったのだ。
あれから頭の中で何度も何度も記憶を呼び起こし、笑顔とともに差し出されたその手の感触すら、昨日のことのように鮮明に思い出せる。
「……そして、彼女は決めたのだな」
長い、とても長い時間が流れた気がした。
ふと気がつくと、視界は歪んで床には水溜りができていた。
我を取り戻した彼女は思った。裏切れないと。それは、これまでははっきりと見えていなかったものかもしれない。しかし彼女は今その存在に気づいた。彼女の前には新たな道があり、それはロイの姉君によって舗装されたものなのだと。
寝巻の袖で、涙を拭う。ハンカチで床に落ちた水気も拭き取った。机の上に置いたティーセットは既に意味を失くしていた。それは彼女の心の澱だった。悪しき欲求に打ち勝った今、もはやこの部屋に存在する意味はない。
一刻も早く、処理せねば――彼女の脳裏にそんな思いが過ぎる。
盆に手を掛けたその瞬間、茶器が擦れたような音を立てた。耳に聞こえた唸りのような音は、ロイの姉が音に反応したものだ。
彼女の脳裏に正しい仕事の手順が浮かぶ。そうだ、なにをやっているのだ私は。もし今ご主人様が起きてしまったら、私は泣き腫らした眼を見られてしまう。誰よりも大切に思っているこの御方に、不要な心配を抱かせてしまう。だから、真っ先にすべき仕事は、これじゃない。
彼女は健やかに寝息を立てる彼女の主人の様子を確認し、そっと寝室を後にした。顔を洗うためだ。外に出て、井戸で汲んだ冷たい水で何度も、念入りに顔を洗う。心の澱の残りまでもが、浄化されてゆく気がした。
タオルで顔を拭き、部屋に戻る頃には平常心を取り戻していた。澱が消えてがらんどうとなった胸の内には、新たに希望が満ち始めていた。これから私は、ご主人様のために生きてゆくのだ。その固い決意の先に、少し気恥ずかしい思いもある。どんなに高く評価してくださったとしても、メイドの私があの御方の妹になんてなれっこない。けれど、もしかしたら。
ドアノブに手を掛けた。深呼吸して、胸の鼓動が元に戻っていることを感じる。私はもう大丈夫。だから、あとは誰にも見つかぬ内にすべてを片づけてしまおう。そして新しい私になろう。彼女は決意とともに扉を開き、そして――。
「……即死だった」
苦渋に満ちたロイの言葉は震えている。
「この悲劇に救いがあったとすれば、それこそが救いだった。彼女が顔を洗うために外に出ている間に、姉君は眼を覚ました」
私の視線が3人の間を泳ぐ。誰もが葬儀のように黙している。
「眠るように息を引き取っていた。自慢だった金色の長髪は床に広がっていて、まるで横たわる場所がベッドから床に変わっただけのようだった。でも、どうしてこんなことになったんだ。昼間にはしゃぎすぎて咽喉が乾いただけだというのに」
ロイが私を見て、私は理解の及んだ証として頷きを返す。
「あれは事故だった。彼女は内なる欲求に打ち勝っていた。耐え難い復讐心を押し殺し、僕たちと生きる明日を選んでくれていたんだ。そんな彼女が何故……姉上の死を真っ先に目撃しなければならない!!」
誰も答えを持ち合わせてなどいない。私たちは揃って噤む。
ロイも落ち着きを取り戻したらしく、しわがれた声を発した。
「済まない……当たるつもりでは」
「言いにくいなら言わなくていい。彼女はどうなった?」
「王族を死なせておいて、なんの咎めもなしというわけにはいかない」
王女を見舞った突然の死。ロイと私の見解は一致している。これは事故だ。しかし、それでも誰かに責を問わねばならない。高貴なる血筋に生まれるとはそういうことなのだから。
「ならば、彼女は……」
私の言わんとするところを先読みして、ロイが首を振った。
「相応の罰が下されたはずだ。家の者が、2人の関係を知らなかったとすれば」
「罪を不問にしようとしたのか」
頷き、しかしその顔に晴れやかさが戻ることはない。
「どの道、彼女にもう明日を生きる力は残っていなかった。物も食べず、水も飲まず、眠りもしない。彼女は一切の生命活動を取ることをやめてしまった。もし僕たちが取り上げていなければ、毒を飲んで自分自身で決着を図ったはずだ」
簡単に、自嘲的に言ってのける。だがロイが冷淡な人間でないことは私自身が一番よく知っている。見舞ったはずだ。何度だって彼女の部屋を。そして願った。実の姉が見ることのできなかった明日を共に見ることを。
「最後は、家の者で話し合って決めた。苦しみを与えない方法を取ろうと」
「それが彼女の救いであったならいいのだがな……」
薄皮がはがれかけた自覚がある。唇を噛んで自らを律した。
私が言葉を切ったことで今度は自分の番だと思ったのだろう。ロイは悲惨な過去の記憶から自らの意識を引き上げた。
「わかるだろう、レオン。僕は毒を憎む。人の食するものに気を払えないおよそあらゆるものを憎む。マリーヌに対する婚約破棄は、相応の措置だ」
私はロイの瞳を見た。その心情のすべてを知った。行為の是非は置くとして、ロイ・ブリアリンという人物のもっとも深い部分に触れるに至った。きっと今の私ならば、ロイの心情を慮ることができる。
だが、友よ。私たちは今とても難しい立場にいる。仮にどれほど互いを思っていようとも、胸の内をすべて明かすわけにはいかない。それが大義のためであるのならば、私はお前の心のもっとも脆い部分にすら刃を突き立てよう。
覚悟ならばとうに決めている。私は重たい口を開いて、言った。
「お前がマリーヌ嬢に婚約破棄を宣告した経緯はわかった」
「そうか、なら……」
「ひとつ訊いておきたい。アウロアを選んだ理由だ。マリーヌ嬢でないとすれば、お前はこの女を本気で愛しているのだな」
それは問う必要すらない簡単な質問だったかもしれない。だがこの場で、私がそれを口にする重さをロイも心得ていたのだろう。神妙に頷く。
「……もちろんだ。妻として、彼女以外の女性は考えられない」
「そうか」
その言葉に嘘はなかった。だからこそ私はその先を続けることができる。
「ならば逆に、マリーヌ嬢ではなくアウロアがあの茶会を催し、同じ過失を犯していたならばお前はどうした」
こちらの変化もわかり切っていたことだ。ロイがまたしても言葉を失う。その身体の内側で沸々と怒りが煮え滾る気配がする。
だがその表立った発露すら、眼の前の男には無意味なのだとロイもようやく悟った。
「レオン、その仮定はアウロアに対する侮辱だ」
「侮辱でなかったとしたら」
「……なに?」
端正な眉根が寄るのを見る。今の私は冗談半分でこのようなことを口にはしない。
静かに、互いを見つめる時間が流れた。私は抜け目なくロイ以外の客人をも観察する。アウロアは深く俯き、アントニーも同じく腕を組んだまま、微動だにしない。私とロイとの間に割って入る資格がないことを理解したのだろう。何故ならそれは一朝一夕で結ばれた関係じゃない。私とロイは長い時間をともに過ごした、親友同士なのだから。
やがて時が訪れた。カチャリ、と蝶番の動く音がして、私の背後にある両開きの扉が開く。私は振り返らない。しかし誰よりも早く彼女の帰還に気づく。
「……失礼いたします」
扉越しの挨拶が響き、配膳車を突いて姿を見せるはマリーヌ・ヴィクスドール。ロイをして腹心と言わしめた関係性そのままに、主君である私の背を守るように斜め後方で控える。
「どうやら、時が満ちたものらしい。この席も、宴もたけなわということだ。この場を預かる主催として、遠方より来訪されたお三方に、最後の興趣をお楽しみいただくとしよう」
私が右手を挙げる合図を受けて、金属の擦れる音がした。マリーヌ嬢が皿を覆っていた銀のクローシュに手をかけたのだ。そして私は、皿の中身が露わになるとともに、3人の表情が豹変する様を特等席で見届けるに至る。
そして――。
「デザートに、甘味などはいかがかな」
一言:馬車事故を起こしたロイの学友は、王家が国外追放処分に処しました。実家はかろうじて取り潰されずに済みましたが家格を落とされ、彼が生きている間にブリアリンの地を踏むことはありません。




