第20話 『リゼ (1)』
フランヌ王の来歴については、事前に調べがついていた。
今でこそ一国の王という重責を担っておられるが、その出自は取り立てて大きくもない地方のいち貴族に過ぎない。生まれ故郷は伯爵領を称されていたものの、実態は男爵領に毛が生えた規模の広さしかなく、若きフランヌも野心とは無縁の人間であった。
周囲の人々が望むがままに生き、疑いを差し挟まない。
素直で従順な気質は、彼を模範的な地方領主の道へと導くかに見えた。
その道行きを手助けする者もいた。幼馴染の少女だ。最寄りの領主のひとり娘で、フランヌとは幼い頃から付き合いがある。
無論それだけの間柄はない。彼女はフランヌの婚約者だった。縁談は、貴族である親同士が話し合って決めた。貴族社会では珍しくない、ありふれた政略結婚だった。
「……その娘とは、いずれ結婚するものと?」
「思っていました。そのように運命づけられているのだと」
「しかし、親同士が決めた婚約だったのでしょう」
「お蔭様で、仲は悪くありませんでした。今もし彼女がここにいたら、同じことを君に告げたことでしょう」
楽しげに語るフランヌ王の視線の先には私がいる。
しかし私を見ているわけではない。
私の身体を透過して、ご自分の過去と対峙されている。
「彼女がどのような女性だったか、君に説明すべきかもしれません。一言で言うなら、僕と同じ方向を見てくれる女性でした。いつか人生の道行きに迷い、立ち止まることがあったとしても、彼女ならばきっと最後まで僕の手助けをしてくれたことでしょう。僕の手を取り、それが当然であると、感謝の言葉すら求めることはなかったでしょう」
フランヌ王が慎重に選ばれた言葉に、私は妻たるものの理想像を思い描く。
夫を隣から補佐し、尽くし、しかしあくまで対等な存在として同じ人生を歩んでゆく――そんな貴婦人の姿を。
「……私には、失って惜しいほどの女性に思えます」
「その価値がありました。まるで宝石のような女性だったと」
「なのに、あなたはその手を振り払ってしまわれたのですか」
責めたわけではない。結果的にそう取れる言い方になっただけだ。
フランヌ王も心得ておられるらしく、紅茶を美味しそうに口へ運ぶ。
「その価値を知らなかったとは言いません。しかしそれ以上のものを見つけてしまった。彼女は地方貴族の社交パーティーの場に、なんの兆しもなく現れたのです」
まるで天使か、妖精にでも出会ったような物言いをされる。
しかし後になって考えれば、フランヌ王にとってその女性は、そもそも地上の存在ではなかったのかもしれない。
「とある貴族令嬢の、傍仕えのメイドでした。彼女は会場の隅に立ち、ぼんやりとした視線で室内を眺めていたように記憶しています。僕は夜道の灯りに吸い寄せられる蛾のように、夢見心地で彼女の元へと近づきました」
……一言、二言、おっかなびっくり言葉を交わす。
元より共通の話題など存在しない。彼女の女主人の名前すら碌に憶えていないのだ。会場にあっては身分の高い貴族の一粒種が、どうして自分のような者に熱心に語りかけるのか。メイドの胸中に生じた困惑は察するにあまりある。
片や、当時の心情を語るフランヌ王の口調は熱を帯びる。
「ともかく必死でした。寄り合い所帯のパーティーで、この機を逃せばいつ会えるかわかりませんでしたから。気合いがから回って、咽喉の奥が乾いて、彼女は1度だって僕の話で笑うことはありませんでした」
それでも若きフランヌの情熱は、彼女の名前を聞き出すことに成功する。
「リゼです。実に庶民的な響きだと思いませんか。しかし思っていたより身分は高かった。とある高名な騎士の六女で、貴族令嬢の家には奉公として出向していたのです」
それでも貴賤には変わりない。私は浮かんだ心象を咄嗟に隠した。
試みは成功したのかもしれない。フランヌ王は上機嫌で続ける。
「僕はずっと狼狽えていました。女性とどのようにしてお近づきになればいいのか、その方法を知らなかったのです。手持ちに、口説き文句のひとつすらなかった。おかしなものですね、婚約者なら幼い頃からいたのに」
当時を懐かしむ物言いに、ふと気づくことがある。周辺貴族で集いを持ったならば、フランヌ王の婚約者だってその場にいたのではないか。
「……随分と危ない橋を渡られたのですね」
「品行方正で、周囲の者の意見に従順なのが当時の僕でしたから。まさか不貞に手を染めているとは誰も思わなかったのでしょう」
それでも危機感からは逃れられない。
フランヌは手短に話を切り上げる必要があった。
「居場所と、次に会う約束だけどうにか結んで、彼女の傍を離れなければなりませんでした。ダンスの時間が始まってしまったからです。フィアンセの手を取ることは、僕以外の誰にも許されていませんでしたから」
夢うつつのままダンスパーティーを終えて、邸に帰ったフランヌは初めて知った恋の妙味を幾度となく反芻する。
幸いにも貴族令嬢の領地はすぐ隣にあった。フランヌの邸からリゼの棲み家へも近い。馬で数時間もかからぬほどの目と鼻の先だ。
悩みの種は、あの日リゼに告げたこと。大事な用向きがある。だから僕ともう1度会って欲しい。このことは絶対に、誰にも言わないで。
「どれが問題だったのですか?」
「わかるでしょう、どれもですよ」
フランヌ王の御心は当時に戻っている。ニコニコと笑まれながら惚気られているので、こちらの方で思考を巡らせるよりない。
「リゼは、騎士の家系に連なる女性だとあなたはおっしゃった。ならば、高貴な男性と2人きりで会うなどという事態は、常識に照らして避けようとするはずです。あなたはそのことを危惧しておられたのでは?」
推論を口に出すと、それもあります、と素直に首肯される。
「ですが僕が心配していたのはもう一方です。初対面の女性を呼び出すに足る大事な用向きとはいったいなんでしょう? バカ正直に、一目惚れしたから君に会いたかったなどとは口が裂けても言えませんし」
ふふ、と声を出されるフランヌ王は、すぐにその答えを提示された。
「なので僕は、詩を吟じたことにしました」
「詩ですか」
代々武の棟梁として鳴らしたコルラン家にとって、明るくない話題だ。私とて御多分に漏れない。書庫で詩集を読み込むくらいなら、外で剣を振っていた方がずっといい。なんなら家臣に混じって豚や鶏の世話をしていた方がマシだ。
「やはり嫌そうな顔をしますね」
「そ、そのようなことは……」
図星だが、フランヌ王は私の反応すら楽まれている様子だ。
「実を言うと戦略でした。リゼは騎士の家系に連なる女性、であるならば、当然騎士道物語にも造詣が深いのではないか。そのような考えから邸の書庫にこもり、多くの関連書籍に眼を通しました。取り分けロマンス色の強い1冊を見つけ出すと、そこに描かれた騎士の恋人について詩をしたためたのです」
そして約束の日を迎えた。貴族令嬢の家に赴くと、窓際から様子を窺っていたリゼが飛ぶような速さで駆け下りてくる。
玄関先を訪ねるより先に合流を果たした2人は、人目を忍ぶかのように物静かな場所へと移った。
「僕は言いました。この書物に出てくる少女は、君のイメージにぴったりと合致するんだよと」
「リゼはどのような反応を?」
私が前のめりになると、勢いをかわすようもったいぶられてから。
「とても不思議そうに言うのです。『これはどのような本なのですか』と」
「騎士道物語に造詣が深かったはずでは?」
「そうであれば良かったのですが、どうやら当てが外れてしまったようなのです」
まるで他人事のように告げて、フランヌ王は当時の空振りを振り返る。
「深く話を聞くと、不思議なことはありませんでした。リゼの実家は騎士の家系、つまり武家です。武家に生まれた女性は常に、実際に剣を振るえる男性よりも低く見られることになる。リゼもそうでした。実家では冷遇され、小間使いにされ、扱いに困って外に奉公に出された。本など、兄たちが読む戦術書以外に見たことがなかったのです」
そう言われれば、私も得心がいく。
リゼの家の方針は私の家のそれと近しい部分があった。
「僕はもうがっかりしてしまって。なにせ、これまでの努力が一瞬で水泡に帰してしまったのですから」
「しかしあなたは、リゼとの関係を深めたはずだ」
「いかにも。縁というのはどこで深まるかわからないということなのでしょう」
リゼは、フランヌの持参した本に興味を持った。彼のものした詩にもだ。
自分をイメージしたという詩の内容はいかばかりのものか、真に理解するためには、まずはその本の内容から紐解かねばならない。
「彼女は僕に、持参した本の読み聞かせを願ったのです」
偶然にもリゼはその日の仕事を終えていて、午後の時間には空きがある。彼らは密集した木々の入り口にある巨木の下に座り、ともに1冊の本へと視線を注いだ。フランヌの膝元に開かれた本を、横から覗き込むようにしてリゼも注視する。その過程で、自然と2人の身体は密着してゆく。
そのときの思い出を、フランヌ王はこう述懐する。
「文字は眼を滑り、声は今にも震え出してしまいそうでした。彼女の存在をすぐ傍に感じて、僕はそのくらい緊張していたのです」
「リゼの様子はどうだったのですか」
「物語に集中していて脇目も振りませんでした。きっと内容に興味津々だったのだと思います」
長い時間を、とても長い時間を2人は過ごした。
気づけば日は傾き、地平線の彼方に沈み込んで赤い光を寄越してくる。
本1冊に渡る長大な騎士道物語を、たった半日で音読できるはずもない。読み聞かせは中途半端な位置で終わってしまう。しかし物語の持つ力は、リゼの好奇心を鷲掴みにして離さなかった。
彼女はフランヌへと直々に頭を下げ、その本と彼の書いた詩を借り受けたいと申し出たのだった。
「断るという選択は僕にはありませんでした。貸したものは、いずれ返してもらわなければなりませんからね」
合縁奇縁。そのかたち。
即座に断たれていたかもしれない2人の縁は、こうして存続を保った。
馬を走らせ、邸へ帰る。まったく休まなかった馬の心臓にも増して、フランヌの心臓は早鐘を打っていた。それは未だ望みがあると感じたためか、意中の女性とともに時間を過ごした高揚感か、それらが入り混じったものか、落ち着いてからも彼には判然としなかった。
翌朝、知らせが届く。さる用向きがあり、婚約者がフランヌの邸へと訪れるというのだ。便箋に躍る見慣れた文字から、フランヌは自身を取り巻く世界が色褪せてゆくのを感じた。
「……例えるなら、そうですね。このとき僕は、婚約者のいる平凡な世界に帰ってきたのでしょう」
婚約者が会いたいと申し出るなら、断りを入れることはできない。周囲の眼だってある。彼女もまたそのために自分に会おうとしている。婚約者たる者の義務として。
「今まではそれが当然でした。でも気づいてしまえば、僕にとって到底耐えられるものではなかった。好きでもない女性と、婚約者ごっこをするなどというのは」
フランヌ王は首を振られる。皮肉げな言い方をされたのは、当時の御自分を恥じておられるからだろうか?
「それでも、あなたは義務を放棄されるような御人ではない」
「ええ、そうあろうと務めます。だから嘘の気持ちで彼女と向き合うことになりました」
婚約者をいつものように歓待し、談笑に耽り、惜しみながら別れを告げる。
フランヌは、それらすべてを真っ赤な嘘としてこなさねばならなかった。
耐え難い時間を過ごした反動は、彼を机に向けさせた。リゼへの手紙を情熱的な言葉で書き殴り、破って焼くことで心を昇華した。声に出しては言えない真実を、文字にして叫ぶしかなかったのだ。
そんな日々が続き、再び機会がやってくる。それはあらかじめ設定しておいた、本の返却期日だ。以前と同じく馬で出奔したフランヌは、待ち合わせ場所として指定した、例の巨木の下を目指した。
日の加減から、約束の時間よりやや前倒しで到着したのがわかる。リゼの姿は既にそこにあった。梢が作るまばらな影が額にヴェールを作り、遠目からでは彼女の表情を窺えない。
馬を降り、手綱を引いて木の下へ向かうと、その根元に腰かけていたリゼがやにわに立ち上がった。メイド服の胸元に本を両手で掻き抱いたまま、フランヌに対して深々と黙礼をする。
頭を上げて初めて見えたその頬は、朱色に染まっていた。
本を読破した彼女は、フランヌの詩を意味を理解したのだ。
「女性に捧げる詩というものは、今も昔も変わりません。その美貌を高らかに謳い上げるものです。僕は先人に学び、その手法を踏襲したに過ぎません」
などと謙遜されるが、詩才がおありだったのだろう。たった3度目の邂逅にして、フランヌはリゼの心臓を射止めてしまったのだから。
「リゼは僕に訊ねました。何故このような詩を自分に送ったのか。そして本当に物語に描かれた女性のイメージは自分に近しいのかと」
もっともな疑問だ。間髪入れずに私も訊く。
「なんと答えられたのですか?」
「少しばかり考える時間が必要でした。なにせモデルとなった人物は敵国の姫君で、物語の主人公にとって不義の恋人に当たりましたから」
昔アーノルドから聞いたことがある。騎士道物語における色恋は、得てして不健全なかたちで結実するものだと。それこそ敵国の姫君ならまだ大人しい方で、ときに主君の奥方と関係を結ぶことも珍しくないのだとか……。
「それはまた、思い切った選択ですね」
「適役がいなかったのですよ。もちろんリゼは敵国の姫ではありませんし、僕と恋人関係でもなかったのですが」
まだ、という含みこそ入れなかったが、私はそのように解釈する。
「……では、どのような共通項を?」
「彼女たちはともに、鴉の濡れ羽のような黒く美しい艶髪を持っていました。そして物語の主人公は僕と同じく、とある舞踏会で劇的な出会いを果たすのです」
物語の主人公もフランヌも、運命の女性を見た瞬間、その背に雷に撃たれたような衝撃が走ったらしい。
「下手な勘繰りをお許し願いたい。もはや愛の告白も同然では?」
「はい。話す私も聞くリゼも、ともに羞恥で頬を赤らめていました。若い僕たちはとてもうぶだったのです」
気持ちのすべてを語り終えたフランヌは、リゼに答えを迫った。
フランヌの正体を知らぬ者などいない。地方とはいえ有力貴族の一粒種であり、いずれ家督を継ぐことになる彼に、既に婚約者がいることを知らぬ者も。
彼の心に応えるということは、不義の関係を結ぶということだ。
書物の、物語に出てくる姫君と同じく――。
「即答はもらえませんでした。考えさせて欲しいと」
わかっていたことだ。本を読み、吟じられた詩の意味を知ったなら、フランヌが自分に懸想しているのは理解できる。
リゼは理解した上で、直に会うという選択を放棄しなかった。フランヌに会う前から、心はずっと揺らぎ続けていた。
「あなたは、また会う約束を取り付けるに至ったのですね」
「熟考して欲しいと頼みました。後悔のない選択をと」
「…………」
寒風が窓を鳴らし、私は一時的に口を噤んだ。
灯りが照らすフランヌ王の面貌を見る。ロイのような女性好みの甘いマスクではなく、私のように単に整っているだけでもない。青白く、どこか病的な神経質さを感じさせるその面持ちは、かつて文学青年の趣を放っていただろう。
仮に己を女性だと仮定し、その魅力を考える。武勇が幅を利かす家にいないタイプの男であることは間違いない。リゼの眼に、他にはない魅力を持つ男として映っていても不思議はなかった。
「それからの僕は、一日千秋の思いでした。寝ても醒めても、リゼのこと以外に考えが及ばなかったのです。このような経験は初めてでした」
色褪せた世界の中心で、若きフランヌは夢を見る。リゼが隣にいる夢を。淡々とした味気のない日常に、それは色を与えてくれるものだ。彼女以外の他の誰にもそんなことはできない。定められた婚約者にだって、それはできない。
「周囲の者に露見しなかったのですか」
「薄々なにかあると勘付いていたでしょう。しかし単純に体調不良だと思っていたのかもしれません」
食卓に並ぶパンの数が増えましたから、とフランヌ王は冗談を入れる。
「僕の心に渦巻く嵐に音はありません。その音は僕の耳元でだけ唸りを上げるものです。やがて時が満ちました。リゼの答えを聞く日が来たのです」
件の巨木の下で彼らは出会った。そのときはまだ友人として。
囁くような声で互いの気持ちを確かめ合った2人は、恋人として別れた。
「薔薇色などという時間がもしあるとすれば、その日からの僕たちのものでした。リゼは僕の詩を気に入り、もっと聞かせて欲しいと願いました。僕は募る想いを詩にしたため続けました。逢瀬の際、愛しい恋人の耳に囁くためにです」
嬉しそうなフランヌ王の語り口に、ロイならばと思わざるを得ない。
あいつならきっと、恋の味に浮かれるフランヌ王の御心にも共感できただろう。
しかし私にとっては、他国で用いられる言語のように縁遠い。
「人目を忍ぶ恋でした。だから今日は、少々懐かしい思いをしました」
遠い眼で暖炉の炎を見られる。リゼとの思い出は、つまるところ密会の思い出だ。人目を避け、許されぬ想いの成就に耽る。
人気のない雪山の城砦で、密かに他国の貴族に臣下の礼を取らせることと、本質的には近いものがある。
「許されないことと知りながら、祝福されないとわかっていながら、それでも僕たちは同じ時の流れにいたかったのです」
「…………」
本来、私に言えることはない。彼らの関係がどれほど情熱的に燃え上がろうと、それに共感するだけの経験がないからだ。理解できることはひとつ。彼らはその想いを抑えきれなかったということ。
「……つらくはなかったのですか」
「2人でいる間はそれを忘れていられましたから」
「しかし周囲を取り巻く状況は、あなたたちに未来を与えなかったはずだ」
それこそ力ずくでこじ開けようとしない限り、フランヌとリゼとの関係は遠からず行き止まりに達する。
婚約破棄――私の脳裏に、かつてのロイとアウロアの影が過ぎる。
「フランヌ王、あなたは無慈悲な御人ではない」
「ええ」
「長年にわたる婚約者との関係を解消する残酷さも理解しておられる」
「もちろんそうです」
「そして純粋だ。リゼを愛人の位置に置くこともできなかったでしょう」
「レオン君の言う通りです」
上辺だけではない、心からの肯定が返ってくることは予期していた。だからこそ解せない。リゼとの関係は破滅を迎える。しかし誰の手によってそれが引き起こされたのか、それが判然としない。
私の胸裏に生じた疑問を察されたのだろうか。フランヌ王は一転して表情を翳らせ、深い懊悩の底に沈み込まれる。
「リゼと別れて邸に帰った後、僕はいつも自分の運命を呪いました。何故かくも高貴な家に生まれ、幼い頃から婚約者がいたのか。もう少し、ほんのわずかでも立ち位置が下にズレていれば、このような思いはせずに済んだ。例え貴族子息であっても、嫡男でさえなければ望みはあったのです」
その嘆きは妥当なものだ。さりとて、そのような仮定を望んでも意味はない。フランヌには生来、伯爵として家を盛り立ててゆく以外の未来は用意されていないのだから。
「時は過ぎます。ひっくり返った巨大な砂時計のようなものです。くびれから漏れ落ちる砂粒はほんのわずかに見えても、いずれ器の上部は空になる。逢瀬を重ねる僕たちの間にも、来たるべき時間が遂にやってきました」
万物は流転する。永遠はない。1年という年月が人に必ず年齢を重ねさせるように、フランヌもまた適齢期と見なされるようになる。その婚約者たる女性もまた、彼との関係を改める必要性を身に感じていただろう。
それは周囲からの期待であり、自然の帰結であり、彼らの義務でもあった。
正式に、2人の婚儀の日取りが決まったのだ。
「僕は選ばねばなりませんでした。リゼとの関係を続けるのか、別れるのか」
「…………」
前者も、後者も選び難い。当時の心境へと戻られた、フランヌ王の口調から察することができる。
「恥ずかしながら、貴重な時間を無駄にしたと告白せねばなりません。日一日と、僕はその機会を先延ばしにしていた。予断を許さぬ状況が、逃げ腰の僕を追い詰めました。そこでやっと、僕は、僕自身の結婚をリゼに告白したのです」
リゼは当惑していた。いつかはこんな日が来ると知りながら、素知らぬ振りで幸福を享受していた。それは彼女も同様だったからだ。
「僕の心は最後まで決まりませんでした。そして卑劣な行いに手を染めてしまった。僕は自分の心を隠したまま、リゼの意思を確認したのです」
そのときの瞳が忘れられない、とフランヌ王は語った。
リゼの視線は下方を泳ぎ、助けを乞うようにフランヌの顔を見た。その顔に、眼に、己自身の答えをも探すように。
だがフランヌ自身の心もまた耐え難い決断の迷宮へと迷い込んでしまっている。そこに答えはない。いくら探しても存在しないものなど見つけようがない。
「リゼは、なにかを我慢するようにじっと黙っていました。メイド服の裾をきつく握りしめ、折檻を受けたときのように口を噤んで……そして突如、弾けたように胸に手を当てると、心の底にある本音をそのまま口にしたのです」
人は誰しも、嘘を吐く。
傷つかないように、傷つけないように。
しかし体面を取り払ってでも本音を口にせねばならぬときがある。死ぬか生きるかの瀬戸際へ追いやられたとき、人は己を繕ってなどいられない。
『フランヌ様……どうか、私を連れて逃げてはいただけないでしょうか!!』
必死な形相のリゼの言葉に、若きフランヌの心は震えた。
何故ならば、そう――。
「……リゼは、破滅しかけていました」
「あなたにはそれがわかったと?」
「僕がリゼなしで生きられなかったように、リゼもまた僕なしでは生きられぬ身だったのです」
炎のように燃え上がる情熱的な恋慕。
フランヌも、リゼも、許されざる禁忌と知りながらお互いを求め続けた。求め続けざるを得なかった。
身を刻まれるような痛みと表裏一体の恋は、まるで呪いであるかのようだ。
「そして僕は気づいたのです。リゼをここまで追い詰めたのは僕自身であると」
リゼの瞳に宿る光は、ただ彼女の心のみを表しているのではない。
その光には、この世のものならざる希望の色があった。夢見るような期待があった。それはフランヌと出会う前のリゼにはなかったものだ。
「騎士道物語ですよ。かつて僕がリゼを物語の姫君になぞらえたように、リゼもまた己を物語の姫君へとなぞらえた。そしてこの僕を、姫君が愛してやまない物語の主人公の座に置いた。そう、リゼは僕に迫っていたのです。この愛を成就するために、持てるすべてなげうって欲しいと」
そして私の手を取って欲しいと――。
「……あなたはリゼに、責任を感じていた」
「僕と出会う前のリゼならきっと、そんな愚かな選択はしませんでした」
彼女は騎士の家系に生まれ、地に足の着いた考え方を学んでいた。
「リゼの口から出た言葉は、彼女だけのものではありませんでした。それはかつて、僕が彼女を想って囁いたものでした。慣れない筆致で紡いだ詩の一篇一篇が、声に出して読み聞かせたその節々が、彼女の心に僕自身をも棲みつかせていたのです。だからこそ、僕はリゼで、リゼは僕なのでした」
ともすれば陶酔的で、大仰な言い回しかもしれない。
しかし主観とはそれを経験した当人にとっての真実だ。
フランヌ王は私に真実を語っている。それだけは間違いなかった。
「……では、あなたもまた決断を」
「ええ、リゼと駆け落ちするつもりでいました」
フランヌは己の運命を呪っていたが、周囲の者たちまで憎んでいたわけではない。彼らはフランヌに、当然の義務を求めていただけだ。フランヌにだってそれはわかっていた。
だからこそ考え方を変えねばならかった。問題なのは自分ではない、リゼにとって彼らの姿がどう映るかだ。それは障壁だった。忌むべき、憎むべき者たちだった。愛し合う2人の袂を引き裂こうとする、恋愛物語における最大の仇敵……。
「出奔は、婚儀の1週間前に決めました。僕は持てる財産のすべてを置いて、着の身着のままで出てゆく。密かに邸の外に待たせていたリゼと落ち合い、馬を駆ってどこまでも遠くへ逃げようと打ち合わせていました」
狙いならば言うまでもない。生まれ変わりだ。
彼らは名を捨て、身分を捨て、新たな自分へと生まれ変わる。
そしてこの地表の何処かに、愛の成就できる場所を探し求める。
「上手くいく保証など……当然なかったのでしょうね」
「ええ、しかし僕たちにはそうするしかなかった」
言葉を選ばないなら、愚かだと言いきってしまえる。
しかし私は当事者ではなかった。もし同じ境遇なら、同じ心理状態にあったなら、彼らと同じ選択を選ばない根拠がどこにあっただろうか。
「露見を恐れるなら、なにも言わず出てゆくべきだったのでしょう。しかし僕は自室の机の上に書置きを残しました。婚約者に宛てたものです」
「どのような内容を書かれたのですか」
動機ならばうっすらとわかる。
ただ私は、フランヌ王の口からそれを聞きたかった。
「ここに至る事情のすべてをしたためました。それから『僕のことは忘れて欲しい』と。『遠くへ行くから』と」
私は納得とともに頷く。フランヌは最低限の誠意を残した。ただ身元をくらますだけでは、婚約者はいつまでも帰りを待つことになるだろう。
フランヌと完全に断絶しなければ、彼女は未来すら選べない。
「外に出ると、木の影からリゼが姿を見せました。僕たちはともに駆け寄って、抱擁を交わしました。事前に準備していた馬に跨ると、星以外灯りのない夜闇の只中へと走り出したのです」
様々な意味で、先の見えない旅だった。婚約者宛てに手紙を残さなくても、いずれ追手は放たれていただろう。
彼らは所在を嗅ぎつけられる前に、できるだけ遠くに向かわねばならなかった。
「僕たちの乗っていたのは名馬で、初日は丸一昼夜走り通すことができました。しかし2日目も同じというわけにはいきません。馬は徐々に歩きがちになり、僕たちは背後に焦燥を感じながらも休みを摂らずにはいられませんでした」
出奔して3日目には雨が降った。横殴りの雨だ。
路面の状況は悪化し、名だたる駿馬だろうと足を鈍らせる。
リゼの体力も限界に達する。雨により気温が低下し、フランヌは背中越しに彼女の呼吸が荒くなるのを聞いた。馬を停めると、浅く荒いリゼの呼吸が空気中に白く残るのが見える。
「昼なのに、まるで夜のような暗さでした。追手を退けるには心許ない進捗です。しかしこの雨と寒さでは、馬もリゼも長くは保たなかったでしょう。僕たちは近場にあった風車小屋を勝手に借り受け、雨露を凌ぐことにしました」
風車小屋の中で、体温を失ったリゼは震えながら自身を掻き抱いていた。
フランヌはその瞳に、熱っぽい懇願の色が浮かぶのを見た。
この娘はもう誰も頼ることができない。自分以外の誰にも助けを乞うことができない。フランヌの出した最終結論が、わずかに残った最後の退路をも完全に断ち切ってしまったからだ。
すべての責任は他ならぬフランヌ自身にこそある。
だから――リゼに乞われるがまま、2人は熱を分け合った。
「……それから、僕たちは眠ることにしました。夜に走るためです」
「雨が止む可能性に賭けたのですね」
バチッ、と薪が爆ぜる音に続いて、こっくりと頷きが返ってくる。
「思っていたような旅路ではありませんでした。僕たちは自由になろうとしていた。そのための駆け落ちだった。2人ただしあわせになれればそれで良かったのです。なのに逃亡生活で直面したのは、圧倒的な不自由でした」
私もまた頷く。当時のフランヌの心境ならば少しはわかる。
逃げ出す者の背中には、いつだって恐怖の影が付きまとう。
「あなたも、リゼも、連れ戻された後のことを考えずにはいられない」
「その通りです。僕はきっとリゼと離れ離れに」
「そしてもう一生会うことはない」
私は言葉を奪い、紅茶を一口飲んだ。
フランヌ王の顔にも、当時の苦悩が滲む。
「起きていても、悪い想像が巡るだけでした。外は雨で、馬を駆って走ることもできない。にじり寄る彼らの影に怯えながら、なにも打つ手立てがないのです。僕はリゼの手を握りました。決して離れ離れにならないように。眼を瞑って神に祈りを捧げました。やがて深い眠りが、祝福のように僕の身に訪れました。僕はそれに身を委ねて、そして――」
深く息を吸って、一息にフランヌ王はおっしゃられた。
「目覚めたとき、リゼはどこにもいませんでした」




