第2話 『老執事アーノルドとコルラン領の日常』
3年の月日が過ぎた。
辺境伯としての執務にも慣れた。元来、ずぶの素人ではなかった。母上亡き後は率先して父上の執務室に入り浸り、君主のなんたるかを見てきたつもりだ。学院入学後も折を見ては故郷に舞い戻り、私なりに父上の執政の補佐をこなしてきた自負もある。もっとも、学生は学生らしくしていろとあしらわれるのが落ちではあったのだが。
少し話を変えよう。
場には力がある。
特別な場というものは独自の引力のようなものを発し、特別な人間を呼び寄せる。我が領地、コルラン領にもそのようなパワースポットがある。
当家の館の中庭にそれはある。2人用の円テーブルに、小さな椅子。
今しがたそこにちょこんと腰かけ、ティーカップを口に運んでいる老人こそ、コルラン家に仕えて半世紀近くの時を過ごした名物執事長アーノルドだ。
「……おや、レオン坊ちゃまではありませんか?」
ほら、この距離なのにもう見咎めた。
ただ者ではないのだ、この老人は。
私は早足で近づき、円テーブルの上に茶菓子の入ったバスケットを置いた。
いつかの意趣返しというわけではないが、言っておくべき事柄がある。
「紅茶だけだと胃が荒れる。毒は入ってないから食え」
「ありがとうございます。ですが、何故毒なのです?」
「耄碌した振りはまだ下手らしいな」
基本的にアーノルドの芝居は上手い。
あえて三文芝居に徹しようと思わなければ、だが。
私の脳裏に、青春時代の光景が過ぎる。
「3年前の卒業記念パーティー、私のことを狙っていたのはお前だ。吹き矢の先端に塗られていたのは麻痺毒。以前領内に侵入した北方遊牧民が使っていたものだ。象ですら一発で昏倒させる劇毒だった」
言っても、すっとぼけられるだろうとは思っていた。案の定だが。
「お言葉ですが、コルラン家に代々仕えてきた私がそのような大それたことをするとお思いで?」
「ああそうだ。お前しかやらん。他のやつにそんな度胸はない」
「小心者の老人を随分と買い被られておられますな」
「むしろ足りんだろう。色々とな」
呆れて告げる。この程度の応酬は駆け引きではない。
私如きの考えなど、この老骨はすべて読み切っているのだから。
私は自分の椅子を持ってきて、アーノルドの対面に座った。
「それで? 何故撃たなかった?」
「はて? 撃つとはどのような行為を指しておられるのですかな」
「私が暴力に訴えたら撃つつもりだったろう」
「旦那様の懸念事項でしたので。そこは止めないと」
とても美味しそうに紅茶を啜るアーノルド。
私の弱点など、稚児の頃からとうに知り尽くしている。
「レオン坊ちゃまは昔から、少々怒りっぽく」
「アーノルド、昔の話だ」
「現在進行形でございます」
食えない老執事は、にっと口元に笑みを湛える。
「先刻の質問にお答えしましょうかな。何故私があのような危険な毒を用いたか。それは単純な話、レオン坊ちゃまには毒の効きが悪いからでございます。通常の麻痺毒では、動けなくなる前に刃傷沙汰を起こしてしまう。レオン坊ちゃまの腕前なら、皆殺しです」
結論に関してなら、まあ間違いはない。
あの場にいる全員が敵に回っても、剣を抜いた私は止められないだろう。
「どうしてそのような特異な体質になったかまで、お教えいたしましょうか」
「自明だ。必要ない」
いろんな意味で胸糞の悪い過去のやらかし。
今さら古傷をほじくり返す気になど到底ならない。
「旦那様の言いつけに背いて、野盗の巣窟に単身出向かれた」
「待て、必要ないと言った」
「勇敢さと無謀さを履き違えておられた」
「…………」
遠回しな説教がしたいのか? 父上はもうおられない。
アーノルドの様子を注意深く観察すると、少し違うとわかる。
「しかしレオン坊ちゃまは、痕跡を残された。野盗の巣窟にて、攫われたのがコルラン家の令息であるとの印を。私はそれを発見していた」
これは、罪悪感?
いつも太々しい老執事にしては珍しい。
「私は既に騎士甲冑を纏い、軍馬も準備しておりました。しかし旦那様が行くなと」
自らの失策は、自らの手でそそげ。
なるほど、父上らしい発想だ。道理で助けが来なかったわけだ。
「禁を破ったかどで、助けを求めたのを無視されていたんだな」
「何度も訴えたのですが、頑としてお首を縦に振ってもらえず」
「お蔭で私は野盗が持っていたあらゆる毒を試されたわけだ」
私は洞窟内で発熱し、死ぬような目に遭った。
しかし熱が引いたとき手に入れたのだ。あらゆる毒素に対する強い耐性を。
私は私を捕えた野盗を皆殺しにし、その場を後にした。
「緘口令を敷かれていたのです。旦那様が亡くなるまではと。あの節は申し訳ございませんでした」
この件に関して、私はアーノルドに頭を下げさせたいわけではない。
あれは我が身から出た錆であるし、希少な素質を手に入れることができた。
「謝罪など、お前のすることではない。それは別にある」
「……と、言いますと?」
「撃つタイミングなら別にあったということだ」
心当たりがないとでも言いたげに、アーノルドが首を傾げる。
無論ポーズだ。やれやれ。もういつものペースを取り戻したのか。
「私がマリーヌ嬢の身体に手を掛けただろう。淑女に対する礼儀を欠いた」
「ああ、あれですか」
「そうだ」
「あれはよき判断にござりました」
満面の笑顔が私にぶつかる。こいつ……。
「そして頭に血が昇り、つい攫ってしまった。私自身の行動もさることながら、お前の判断ミスでもある。それこそ私を撃ってでも止めるべきだった。謝罪するなら、むしろこっちをこそだろう」
正論でこの男を押し切れた試しはない。
当然、アーノルドも心得ている。
「僭越ながら謝罪を求めるのは私ではなく、ロイ殿下にではありませんか」
「ロイが悪いのは先刻承知している。昔からああいうやつだ」
根は悪い人間ではないのに、女を見る眼が壊滅している。
「私ももう諦めた」
「はあ……では、私はロイ殿下に見捨てられ、よすがを失ったマリーヌ様を、間接的に見殺しにすればよかったということなのですね?」
私は眉根を寄せた。相変わらず、舌の回る。
「そうは言っとらんだろう」
「ですが、あの場でマリーヌ様の味方をしていたのはレオン坊ちゃまただおひとり。あなた様を失っては、マリーヌ様は路頭に迷う他に手立てがなかったかと」
理詰めで堀を埋め立てられている。
私としても、その方向で話を進めるなら同じ結論に到達してしまうだろう。
「わかった。この話はもういい。それより、ヴィクスドール公からの苦情がいい加減届いているはずだ」
私は円テーブルの上に散った便箋に視線を移して言った。
それと私を見比べて、アーノルドが朗らかな笑みを浮かべる。
「そのようなもの、絶対に届かないととっくにご存じでしょうに」
「いや、届く。特にパーティーの席で愛娘を攫った不届き物の家にはな」
円テーブルの上には便箋の他に、ペンとインクも置かれている。
アーノルドが、苦情に対する返信を勝手に書いていたに違いない。
私はそれを指差して、言った。
「お前がどのような文言を使って暗躍しようが、これは変えようのない事実だ。私はマリーヌ嬢を攫った。ヴィクスドール公は愛娘を返還するよう苦情を寄越している。私にはいつだってその準備がある。頭を下げる準備もな」
以前にも何度か顔合わせをしたことがある。
ヴィクスドール公は話のわかる御仁だ。あの場で起きたことが若さ故の暴走であることをお知りになったなら、きっと私のことだって許してくださるに違いない。
私はテーブルに置かれたペンを手に取ると、インク瓶に先端を付けた。
「私も一筆したためる」
「失礼ですが、余計なことをなさらないで」
「なに?」
「これは私と、私の手紙友達であるヴィクスドール公爵閣下とのプライベートな手紙ですので」
ぽかん、と一瞬忘我の状態に陥る。
言っていることの意味が、段々と理解できてきた。
アーノルドはどこから取り出したやら、別のペンを指に持ち、円テーブルの縁にある口の破れた封筒を差して見せた。
「公的な文書はそちらです。返事は今頃馬車に揺られています」
「お前、私に無断でヴィクスドール公と連絡を取り合っていたのか」
「人聞きの悪い。言ったでしょう。手紙友達ですよ」
ほ、ほ、と愉快げに笑うアーノルドは捉えどころがない。
「友情も許可制で?」
「いや、お前の交友関係にまで口を出すつもりはない」
「そうでしょうとも。旦那様も大目に見てくださいました」
父上までも引き合いに出すか……。
まったく頭が痛くなるところ、私が態度を硬化させない理由を先回りしたアーノルドが、説明に入る。
「先方が気にしておられるのはマリーヌ様の身の安全ではございません。マリーヌ様が変わらずご息災であるかどうかと、マリーヌ様とレオン坊ちゃまがどこまで進展されたのかということです」
この老獪な老執事は、どうも明後日の方向にヴィクスドール公の興味を仕向けるのに、一役買っていたらしい。
「どのように返答した」
「大変仲睦まじくあられると、正直に」
「それは真実ではない。マリーヌ嬢は賓客だ。私は身分に相応しい態度で接しているに過ぎん」
「あれでも?」
ふっと、背中に涼やかな風を感じ、振り返る。
アーノルドの指差す先に、美貌の女執事が静かに立っている。
ピンと背筋を伸ばした正しい姿勢で、私の悩みの種そのものが口を開く。
「ここにおられましたか。サー」
清廉な声の持ち主を一瞥し、アーノルドが私にウインクを送って寄越す。
私ときたら、情けないことに肩を竦めることもできなかった……。




