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売れ残り万能令嬢と怒れる銀髪伯爵 ~『氷の伯爵』、不当な婚約破棄にブチギレて公爵令嬢を攫う~  作者: ソーカンノ


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第13話 『美しい人生 (後編)』

 とても長い時間、私は自分の髪をマリーヌ嬢に預けていた。


 ときに体感時間というものは当てにはならない。今だってそうだ。日常ではあり得ない体験をしているとき、人の時間感覚というものは狂いに狂ってしまう。永遠に長く引き伸ばされて感じたり、刹那に等しく圧縮されて感じたり、しかし実際のところは、自然に経つべき時間しか経ってはいない。


 あれからの私は、どこか夢うつつの心地でいた。ただし眠ってはいないはずだった。何故なら私の視線は前を向いていて、傾ぎゆく太陽をしっかりとその眼で追っていたからだ。


 ただし、先程までと一点だけ違う部分があった。今の私はマリーヌ嬢を警戒していない。人に背後を取られることをあれほど倦厭していたのに、身体の芯からリラックスしているのがわかる。


 感覚の違いは記憶にも作用する。どこか懐かしさを覚えるその感覚を手繰ってゆくと、記憶の底で眠りについていたとある思い出の入った箱に指が届く。


 遠い昔、母上に髪を切ってもらったことがある。


 たしか幼稚舎への入学のために、コルランを立つ前日のことだった。方々を遊び回っていた私はアーノルドに呼ばれ、母上の部屋へと連れて行かれた。


「母様、起き上がっても平気なのですか?」

「ええ。今日はとっても調子が良いのよ……レオン、お顔を見せて頂戴」


 ベッドに近づくと、母上の慈愛に満ちた笑みが良く見える。


「段々と、お父様に似て精悍な顔つきになってきたわね。けれど服が少し汚れているわ。今日も村へ行ったの?」

「ごめんなさい母様、その……」


 言いつけを破った気まずさに眼を伏せるものの、母上はふふっと楽しそうに笑って。


「別に責めているわけじゃないのよ。男の子は少しやんちゃなくらいがいい。毎日大冒険するくらいに元気じゃないと」


 そうおっしゃると、よしよしと頭を撫でてくれる。なすがままにされていたが、少し複雑な心境だった。子ども扱いされたくなかったのだ。


 ふとその手が止まる。母上が別のことに気づいた。


「あら? 頬のところ、少し赤くなってるわ」

「気のせいじゃないかな」

「いいえ、お母さんレオンのことならなんだってわかっちゃうんだから。また村の子とケンカしたのね?」


 その通りだったから少し考えた。

 どう言い訳すれば怒られずに済むのだろう。


「ケニーたちが悪いんだ。僕は、領主の息子として見過ごせなかっただけなんです」

「でも、先に手を出したのはレオンでしょ? 村の子たちの方からあなたに手を上げたりなんてしないわ」


 その通りだった。領主の息子を殴ったなんて知れたら、親に厳しく叱られる。だから私は当時、村に降りても同年代の子らに遠巻きにされていた。


「お願いだから本当のことを教えて」


 こちらに詰め寄るときの、母上の顔に弱かった。怒りを滲ませて言うことを聞かすというより、とても寂しそうなお顔をしているように見えたからだ。


「だって、卑怯なんです。あいつらよってたかって、ミッチのことを……」

「いじめているのを見たのね?」

「ミッチは年少で、身体だってまだ小さい。気に食わないなら、同じくらいの背丈に育ってから、決闘で話を付けるのが筋ではないですか」


 今思うに、とんでもない幼子の理屈だ。彼らは今のミッチが気に食わないというのに、よもや育ってから蹴りをつけろとは。


 しかし母上はそんな私を咎めたりはしなかった。子どもには子どもなりの尊重すべき理屈があり、安易に一蹴すべきではないと理解しておられたのだ。


 当時の私と同じ視点に立ってくださる、とてもおやさしい方だったのだ。


 もう1度私の頭を撫でて、諭すようにおっしゃった。


「いじめを止めたのは良いこと。でも、ケンカをしたのは悪いことよ。レオンも、それはわかるでしょ?」

「でも……どうせ言っても聞きやしないんだ」


 それは経験則だった。前にも同じ現場に居合わせたことがあり、口頭で注意したのだが、彼らはニヤニヤとするばかりでいじめをやめようとしなかった。


「でも、それでもなの。対話することを諦めてはダメなの」

「言っても聞かなくても?」


 笑顔の奥に真剣な眼差しを湛えて、母上が続ける。


「暴力を使うと、問題が置き換わってしまうわ」

「置き換わる……?」


 意味がわからず鸚鵡返しにすると、母上は深く頷いて。


「そうよ、本当は別の問題があったのに、暴力を使えば身体の強さですべてが決まってしまう。片方に言うことを聞かせて、ねじ伏せてしまう。それは相手を力で支配することであって、問題の根本的な解決を諦めたことになるの」


 当時の私には、母上の言っている意味がよくわからなかった。

 首を傾げて見ていると、ふっと母上の雰囲気が変わったのがわかった。


「ごめんね。まだレオンにはちょっと難しかったかな?」


 いつも通りの母上の姿に少しほっとして、私は最初の要件を思い出した。


「そうだ。母様の御用って……」

「あ、そうそう、お母さんすっかり忘れちゃってたな。ちょっと待っててね」


 よいしょ、と声を出して、母上はシーツをまくり上げると、横からそろりと足を降ろした。その姿を見て、当時の私は慌ててしまう。


「な、なにやってんのさ!! 寝てなきゃダメだよ!!」

「ううん、大丈夫よ。今日は本当に体調が良いんだから」


 嘘だ。

 ほんの少し動いただけなのに、母上の額には珠のような汗が浮かぶ。


 それに他の使用人が噂話しているのを聞いたのだ。母上は不治の病に罹られているって。


「私のことをこんなに心配してくれるなんて、レオンは本当に良い子ね」

「母様……僕、アーノルドを呼んでくるよ」

「お話ならもう通してあるわ。さあ、お母さんの後ろに付いてきて」


 母上は立ち上がり、大病を患っていると思えないほど背筋を伸ばし、たしかな足取りで歩き始めた。私はその背を追つつ、いつ倒れても支えに行けるようにと、心の中で準備を整えていた。


 中庭に出る。子ども用の椅子が置かれており、その上に薄手のケープが掛かっていた。


「ほらね、アーノルドがちゃんと準備してくれてる」

「なんの準備なのですか?」

「散髪よ。これからレオンの髪を、私が切ってあげるからね」


 母上が手ずから、私の髪を切ってくれる――無上の喜びより先に訪れたのは、本当にそんなことをさせてしまっていいのかという困惑の方だった。


 だから私は、本音を押し殺して首を横に振ったのだ。


「いいです……髪なら、他の誰かに切ってもらいますから」

「もしかして遠慮してるの?」

「ち、違います!! こんなことで母様の御手を煩わせたくないだけです!!」


 強情の裏側にあるものを、きっと母上はお読みになられていただろう。

 病に臥せった身体に無理をさせることを、子どもながらに心配していると。


 だからこそ母上は病気であることを忘れさせるような笑顔を浮かべて、私の髪をやさしく撫でてくれたのだ。


「ねえレオン、これは私からあなたへのお願いなの。どうかお母さんに、レオンの髪を切らせてもらえないかな?」

「な、何故ですか……だってこんなこと、誰でも」


 そう、誰でもできる。アーノルドでも、メイドでも、執事でも、命令すれば厩番だってやってくれるだろう。


「そうね。髪くらいなら誰でも切れるわ。でも、いつでもじゃない」

「え?」

「もうすぐレオンはコルランを離れて、王都の幼稚舎に通うんですもの。そしたらお母さん、レオンの髪を切りたくても切れなくなっちゃう」


 たしかにそうだった。有力な貴族子女はみな、一定の年齢になると王都にある幼稚舎へと入学する。夏季と冬季にある長期休暇を除けば、寮で住み込みの生活を送らねばならない。


「だからお願い、お母さんに髪を切らせて」

「えっと、そういうことなら……わかりました」


 内心の嬉しさを悟られないように、私は少し恥ずかしがりながらちょこんと椅子に腰かけた。母上は後ろから首にケープを回し、苦しくない程度の締め付け具合に調節してくれる。


「銀色の、綺麗な髪。きっと私に似たのね。でも少し伸び過ぎかしら。お父様の真似をしてみたかったの?」

「後ろに人が立つのが苦手で、実はあんまり切ってもらっていないんです……」


 白状すると、ふふっという吐息が髪に掛かった。子どもの頃の私の髪は柔らかく、吐息が掛かっただけでもふわりと舞い上がる。


「アーノルドも言っていたわ。『レオン坊ちゃまは少々、不精垂れではないですかな』って。そういう理由があったのね」


 髪の一房を摘まんで持ち上げ、ハサミを入れる。

 鋭利な音が響き、切られた髪がケープの上に落ちてゆく。


 最初は、どこか緊張していた部分もあった。けれどそれは、母上が後ろにいてくれる安心感へと、いつしか置き換わっていた。


「どうして、髪を切るんですか?」

「どうしてって……伸びてたし、迷惑だった?」

「いいえ、全然迷惑なんかじゃないです」


 実際に首を振って、大否定した。それから――。


「母様がここまでしてくださるのはどうしてなのかなって……あの、僕になにかして欲しいことでもあるんじゃないですか?」


 今思い返しても、浅はかな言い分だ。


 どうも当時の私は、人が見返りなしにことをなすのを信じていなかったらしい。母上がここまで無理を押して、私の髪を切ってくれたことにはなにか理由があると思っていた。母の愛は、損得なんて超えた場所にあるというのに……。


 今ならわかる。母上は、ただ私の髪に触れたかっただけなのだ。これから王都へ旅立ち、長い期間帰ってくることのない息子と、最後に睦む時間を持ちたかっただけなのだ。


 たとえそれが、病に侵された身体に無理をさせることであったとしても。


 しかし私自身も、これだけのことをしてもらっておきながら、もらったままではいられないと感じていた。


 母上もそんな私の内心を読まれたのかもしれない。少し考えられた後、穏やかに口を開かれた。


「……あるよ。レオンにしてもらいたいこと」

「なんなのですか?」

「王都でたくさんのお友だちを作ること」


 友だち? 頭の中で疑問符が点灯する。


「友人ならもういます」

「本当に? それってドナ、ブラー?」

「ば、番犬だけじゃありません。ほら、厩番の息子のゲールだって!」

「お母さん思うんだけど、レオンとゲールの関係って、親分と子分の関係に近くないかな?」


 そう言われれば、そんな感じもする……。


 私は友情というものに関してしばし頭を悩ませた。過去から今に至るまで、果たして自分に友だちと自信を持って断言できる人物はいただろうかと。


「ふふっ、そんなに思い悩む必要はないわよ。王都に行けば、きっと素敵なお友だちができるから」


 母上のお声は自信に満ちていたけれど、とてもそんな風には思えない。


「お友だちの条件はね、対等であること。レオンと対等の立場を持った同世代の子は、コルランにはいなかったでしょ。別に悪いことじゃないけれど、みんなどこかでレオンに気を遣って接していたんだと思うの」


 思い至る節はあった。殴り合いになった際、ケリーは心底嫌そうな顔で私を見ていた。領主の息子とケンカすることより、その先に待ち受ける数々の問題を先んじて憂いているかのような。


 嫌なやつは嫌なやつなりに、私に気を遣わざるを得なかったのだ。


 難しく考え込む私の背後で、ハサミの音が止まる。振り返ると、母上が満足げな表情を浮かべていた。


「……母様?」

「できたよ、レオン。これで幼稚舎でも恥ずかしくないからね」

「本当? 友だち……できるかな」

「できるできる!! お母さん、太鼓判捺しちゃうんだから!!」


 嬉しそうに笑う母上は、とても命に関わる病気に罹っている人とは思えない。その事実を束の間だけ忘れて、私も釣られるようにして笑ってしまう。


「うん、僕幼稚舎に入ったら、たくさん友だち作るよ。努力する」

「その意気よ。じゃあお母さんと約束してくれる?」

「約束?」


 訊き返すと、母上はこちらに小指を差し出してきた。


「お友だちができたら、お母さんに紹介して。コルランに連れてきて、この子が僕のお友だちですってあなたの手で紹介してほしいの。約束よ?」


 小指と小指が絡み合う。2人の声が同じ旋律をなぞった。


 子どもと大人が結ぶ指切りげんまんの約束は、とても脆く儚く見えて、きっとずっと強いものだ。少なくともこのときの私はそう信じていた。それが母上の無上の願いであるならば、絶対に叶えようと心に決めていたのだ。


 私は知らなかった。大切な人が突然いなくなることも、絶対に守ると誓った約束が果たせなくなってしまうことも――。


 それは母上がその身を懸けて教えてくださったことだったのに、私はずっと失念してしまっていた。そして同じ過ちを繰り返してしまった。人生の見本となるべき唯一の御人の、その最期を見送ることすら叶わなかったのだ。


 人は、いつだって後になってから気づく。私もそうだ。手遅れになってしまってから後悔する。どうしてあのとき、ああしなかったのかと。


 顔くらい、見に帰れば良かった。友だちができたよって、手紙くらい送れば良かった。だけどすべては遅きに失した。過去が封じられた箱は金剛石よりも固い。その中にしかいなくなってしまった人たちへ、想いを伝えることは2度と叶わないのだ。



「……できました。サー」


 気づくと、夕暮れが迫っている。傾いた太陽は赤い光を送り、私の背中側へと長い影を作っているようだった。


「マリーヌ嬢」


 背後を振り返り、かつての母上と同じことをしてくれた女性に声を掛ける。


「あなたも、アーノルドも私の美点を見てくれている。それには深い感謝の念がある。しかし私は、今のままでいてはいけないと思うのだ。私の怒りが誰かのためのものであったとしても、その怒りは他者を巻き込んでしまう。小さな火種を、大きく拡散させてしまう。父上はきっと、そんな事態を恐れていらっしゃった」


 語りながら、思う。父上の命じた決闘禁止令は私自身の暴力を封じるためのものではなかった。それを行使した結果として、他の人物に迷惑を掛けてしまう事態をこそ、回避するためのものだったのだ。


「恥を忍んでお願いする……辺境伯領を治める君主として、どうかあなたの知恵をお貸しいただけないだろうか」


 このような慇懃な言い方をしなくとも、マリーヌ嬢は断るまい。そう理解してはいた。


 しかしこれは、私なりのけじめだ。マリーヌ嬢が今こうして、他ならぬ私の故郷に身を置いているのは、元をただせば私自身が招いた事態なのだから。


 眼を伏せて、上げると、マリーヌ嬢が笑んでいるのが見える。慈愛に満ちたその瞳を、見たことがある。そしてその所作は、彼女が師として仰ぐアーノルドのそれを彷彿とさせた。


 マリーヌ嬢は、シュッと火の点く速度で人差し指を立ててこう言った。


「でしたら、私に妙案がございます。サー」

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