第12話 『美しい人生 (前編)』
背後とは取るものであって、取られるものではない。
何故なら取った時点で勝敗が決してしまうからだ。
まして、こちらから進んで明け渡すものなどでは、到底あり得ない。
翌日、マリーヌ嬢を背後に置いて、私は緊張の最中にいた。首元には散髪用のケープが巻かれ、膝下に向けて広がっている。霧吹きが髪を湿す冷ややかさに前後して、手に持った髪を櫛で梳かす独特の感覚が訪れる。
「痛くありませんか。サー」
「……う、うむ」
なんとか返答したが、未だ緊張は解けていない。
脳裏には、もう幾度目にもなる後悔の念が押し寄せていた。
そもそも、アーノルドの口車に易々と乗ってしまったのがいけなかった。しかしあの場面、ああも自信満々に断言されてしまっては、こちらから拒否する姿勢を取ることなどできようはずもない。
「理容師の役は、マリーヌ様にしていただきとうございます。できますかな?」
「はい!!」
ただでさえ燃えるマリーヌ嬢のやる気に、アーノルドが盛大に薪をくべた。私の拒否権もまたその炎で燃え尽きる。
散髪などメイドの役目だろうという正論も咽喉元までせり上がっていたが、言えば言った側が野暮となるだろう。
私は白けた眼で私を見る2人の視線に恐怖してしまったのである……。
そして今日、マリーヌ嬢は宣言通り、私の髪を切ろうとしている。
「今日はどのような髪型に……あれ、少し緊張なされていますか?」
「あ、ああ。まあな」
曖昧な返答で濁すも、先程から首筋の辺りが寒いったらない。武才こそ未知数だが、マリーヌ嬢ほどの傑物を背中に負うのは冷や汗ものなのだ。
そんな穏やかでない心中などいざ知らず、マリーヌ嬢は比較的呑気な返事を返してきた。
「おかしな髪型になるか心配されているのですね。そのご心配には及びません。こう見えて髪を切った経験はありますので」
ハッキリ言って、マリーヌ嬢のハサミ捌きに心配など毛ほども差し挟んでいなかったのだが、この降って湧いた誤解には素直に乗じておこう。
「ときに、どのような機会があったのだ?」
「妹の髪を切ったのです。聖女の式典の際に、どうしても今の髪型が嫌だと言われてしまって……遠い昔のお話ですけれど」
最後の言葉には実感がこもる。マリーヌ嬢の妹君はご郷里で今も、立派に聖女の務めを果たされているのだろう。この件を無事に乗り越えさえすれば、一刻も早く帰してあげたいものだ。
「それはまた、さぞや気に入ったことだろう」
「もちろんです。妹のわがまま通りに切りましたので」
発言の意図と受け取り方がやや違ったが、言わずにおくとしよう。
「お話を戻しますが、どのような髪型がお望みでしょうか?」
「いや、どのようなと言われてもな……」
白状すれば、困っている。そもそも髪を切りたいというのはアーノルドの希望であって、私の望むところではない。現状の長ったらしいボサ髪でも不自由などしていないのだ。
逡巡していると、困っているのを見てとったマリーヌ嬢がすかさずフォローに回ってくれる。
「でしたら学生時代、王都の理髪店でご注文されたのと同様の条件をお教えください。その通りに切らせていただきます」
「あ、いや……それはできぬのだ」
背後でマリーヌ嬢が手を止める気配がする。
「何故でしょうか?」
「その……大変言いにくいのだが、理髪店を利用したことがないのだ。学生の身空であった頃には、自分で髪を整えていた」
物は言いようだな、と自分で言っておきながら思う。
武人のサガとでも言うべきか、人に背後に立たれるのが好きではない。ましてそれが赤の他人ともなれば、警戒の念で気疲れを起こしてしまう。生来の不精垂れもさることながら、理髪店を倦厭した理由がそこにある。
「しかし、当時も見栄えはよろしかったように思いますが……」
「私の髪の特質でな。勝手に広がるから適当に切ってもそんなに変わらないのだ」
銀の髪色が母上からの遺伝なら、こちらは父上からの遺伝だ。
髪の1本1本が太く癖があり、いわゆる剛毛という区分に属する。
アーノルドが聞けば怒り出すかもしれないが、当時はハサミではなく、ナイフを使って伸びた分を目分量で剪定していた。
「適当でいい、マリーヌ嬢。昔から髪型にこだわりはない」
「そうおっしゃられましても、これから貴賓を迎えられるのですから……」
それを言い出すなら、そもそもあなたこそが貴賓なのだ。
口を出かかったそんな物言いを、どうにか腹に収める。
「ならば父上の希望を。君主たるもの、舐められぬために髪が長い方が良いらしいと生前は良く言っていた」
「でしたら、長さはそのままに整える方向で進めさせてもらいますね」
それだと学生の頃とあまり変わらないな、などとは言わない。
この気まずい状況をとっとと終わらせるため、私は口を噤む選択を選んだ。
後ろ毛が、手でふわりと持ち上げられる感覚がする。やがてショリショリという髪の切れる耳に聴こえ始めた。マリーヌ嬢が真剣な眼差しで落とすべき髪を吟味し、繊細な手つきで描いたイメージをなぞる様が容易に想像できる。
「…………」
私はただ黙して待つ。
髪が切り終えられるその瞬間を。
しかし……長い。
人に髪を切ってもらった経験がないとは言わない。だがこれは少々長過ぎるのではないか。私自身が自らの髪を剪定する際は、長くても数分で蹴りがついたというのに。
「その……マリーヌ嬢、ひとつ伺いたいのだが」
「なんでしょう?」
「散髪とは、かように時間が掛かってしまうものなのだろうか?」
この場の空気に耐えかねてつい言ってしまった。あのマリーヌ嬢をして、長めの沈黙が返ってくる。
ひょっとして私はおかしなことを訊いてしまったのだろうか?
「マリーヌ嬢、どうなのだ?」
「ええと、そうですね。私の経験から話させてもらっても?」
「う……うむ、頼む」
おずおずと了承すると、マリーヌ嬢は器用にも、髪を切る手を止めずに話し始めてくれた。
「就学前で私がまだヴィクスドール領にいた頃、両親は私の髪型にとても気を遣ってくれていました。領内でも腕利きの理容師を何人も雇い入れ、定期的に私の髪を切ることに従事させてくれていたのです」
まるで一大事業のような物言いだ。しかしそのくらい気を遣う必要があったのだろう。なにせ婚約者は王太子のロイであったのだから。
「それで時間はどのくらいであったのだ」
「そうですね……短くても丸1日はかかったでしょうか」
「1日!?」
思わず頭を揺らし、私は周囲の状況を検分する。現在位置である中庭から即座に太陽の位置を確認し、髪を切り始めてからの時間経過を概算する。
「まだ……せいぜい20分しか経っていないではないか!?」
愕然とした。頭に岩がぶつかるような衝撃を受ける。
背後に立つマリーヌ嬢はしかし、平然として――。
「長丁場になると思われていなかったのですね。それは申し訳ありませんでした。執事たるもの、最初に一言申し上げておくべきだったでしょうか」
「い、いやあなたは公爵令嬢であって決して執事などでは……」
危うく失言しかけたところを、コホンと咳払いを挟んで止める。
この方向に話を曲げれば雪崩のような反論を受ける。そして私の舌鋒では絶対にマリーヌ嬢に敵うことはない。そんな予感がした。
「しかし一般的ではないのだろう。マリーヌ嬢が特別であって……」
「いいえ、そのようなことはございません。貴族令嬢として生まれたならば、誰しもが似たような経験をしてきているはずです」
これまた驚愕に値する事実だが、脳裏に浮かぶ文言がある。
髪は女の命――かつて母上の口から聞いたその言葉の重みを、今になって痛感する思いだ。
「なるほど、それで……」
「いかがされましたでしょうか」
「いや、学生時代には髪型を変えたばかりの令嬢が、やたらとこちらを見てくるような心地がしていたものでな」
「きっとレオン様に気づいて欲しかったんでしょうね」
そうなのかもしれない。だとすれば可哀想なことをした。淑女が髪型を変えるためにこれほどの労を支払っていたと知っていたなら、口に出して褒めそやすくらいのことはすべきだったろうに……。
「……学ぶことは多いな」
「はい?」
「いや、こちらの話だ。構わず続けてくれ」
昼の陽気と静寂の中に、ハサミが髪を切る音だけが間断なく続く。
しかして、気まずい心地も続く。執務中、私たちは同じ部屋にいる。しかし両者ともその視線は常に机へと注がれている。雑談に興じるなどといったこともなく、己の仕事に全集中を傾けているのだ。
だが、今はそのような状況ではない。手を動かす必要のあるマリーヌ嬢とは違い、私はただじっとしているだけだ。無言のままでは苦痛であるし、またマリーヌ嬢に背後を取られている事実が緊張を誘ってくる。
ふと、この作業をセッティングした者の面貌が心に浮かんだ。
アーノルドがなんの意図もなくこのような機会を設けるわけがない。迎賓のために散髪が責務などといった理由は、ハナから信じていなかった。
私が今、このような時間を持たなければならない理由とは?
その答えに思い至ったとき、私はガタっと椅子から腰を浮かした。
「あの、どうかなさいましたか? 痛いところでも?」
顔を寄せ、心配そうにマリーヌ嬢が問うてくるものの、それどころではない。私は、私の犯していた重過失で胸が一杯になっている。
「いや、そういうわけでは……」
「でしたら、髪を切る作業に戻らせていただけないでしょうか」
「その必要はない」
「はい?」
「あ、いや……」
思わず振り返ってマリーヌ嬢の表情を読む。小首を傾げて私を見つめるその顔は、まったく心当たりがないといった風だ。
「手を休めれば、その分だけ作業も遅れてしまいます。仮に日が暮れれば明日も同じ作業をしなければなりません」
「わ、わかっている。だがその……そう、ここいらで少し休憩にしないか!?」
脳がクロックした状態で繰り出したにしては、それなりの言い分であるように聞こえた。しかしマリーヌ嬢は眉を曲げてわずかに難色を示す。
「ですが、まだ1時間ほどしか作業しておりません」
「し、心配しているのだ……そのつまり、あなたの身が……!!」
ひょっとしたら羞恥の念で顔が紅潮しているかもしれない。マリーヌ嬢もまた私の異変を見てとったらしく、真剣な表情を浮かべ始める。
もうどうにでもなってしまえ、という捨て鉢な思いが私の口を動かした。
「覚えておいでだろうか。あなたはかつて、私に傷つけられた」
「傷、ですか?」
「そうだ……ベーヘンの街から帰り着いたあなたに、怪我をさせた」
直に口にすると、当時の後悔が波のように胸に押し寄せてくる。
なんたることだ。こんな大事なことをずっと引き伸ばしていた。
「……その、大変申し訳なかった。今のお加減はいかがだろうか。ハサミを自在に操るところを見るに、大事はないとお見受けするが」
罪悪感から眼を伏せてすべて言いきり、顔を上げると、あのマリーヌ嬢が眼を丸くして驚いた顔をしている。
「なにをおっしゃっているのですか。サー……あれは私が悪かったのです」
「違うのだ。話を聞く耳を持たなかった私の方だ」
「ひょっとして、ずっと気に病まれていらっしゃったのですか?」
正面きって問われると誤魔化したくもなるが、そんな不義理をかませるような状況ではない。深く頷く。
「1年も前のことです。傷など、とっくに癒えております」
「後遺症ということもある」
「それも平気です。この通り、なんともありません」
腕を持ち上げ、片方ずつ回す。児戯染みた所作だったものの、それで安心を買えてしまうのだから、私という男もまた安いものだ。
「しかし苦痛の記憶は残るものだ……現にあなたは、顔を顰めていた」
申し訳なさが胸の内に広がる。私はそれを直に眼にしている。
マリーヌ嬢もまた己の過去に、思いを馳せている風だった。
「たしかに痛みを感じなかったわけではありません。しかしあの顔は、苦痛により引き起こされたものではないのです」
一息にそう断じる。嘘を吐いている様子ではなかった。私のことを慰めようとしているわけではない……。
「では、何故あのような顔を」
「それはレオン様ご自身でおっしゃいました。ご心配を、お掛けしてしまったからです」
マリーヌ嬢の揺るがぬ瞳が、憂いの光を放って見えた。
「私はあのとき、駆け寄ってこられたレオン様のお顔を拝見しました。そのお顔はとても悲しそうで、おつらそうで、胸を痛められていた。ですからわかったのです。すべては私のわがままが招いてしまったことなのだと」
ですから――と、沈んだ表情のまま息を吸う。
「あの痛みは正当な罰でした。何故なら私は、私がとても大切に思っている御方のことを、とても深く悲しませてしまったのですから」
「とても、大切な……?」
譫言のように繰り返し、踏み込みかけた。
風が舞い、庭の下草を柔らかくそよがせる。
突っ込んで訊ねようとした矢先、空に鳥の鳴き声が響き渡った。危うく踏み留まる。理解したのだ。続きを聞く勇気を未だ持っていないことに。
その代わりとでもいった風に、私の口から別の打ち明け話が始まる。
「……昔からこうなのだ。頭に血が昇ると、我を忘れる」
ふはあっと、自嘲的な溜息が口から落ちる。
「そのせいで幾度も問題を起こしてきた。今になって思う。父上の危惧は正しかったと。当時は不当な言いつけだと怒っていたが、正しいのはやはり父上だった」
マリーヌ嬢が首を傾げて私を見ている。
ああ、独白のような物言いでは伝わるまい。
「差支えなければ、どのようなものか知りとうございます。サー」
「大したことではない。決闘禁止令だ。そのために学友の大半とも距離を置いていた」
そもそも『氷の伯爵』は、私が望んで得たポジションではない。
感情の制御が効かぬ未熟者が、他の者と問題を起こさぬために講じた措置の結果として、そう呼ばれるようになっただけだ。
「同世代の子息と関わりを持つ機会がなければ、問題を起こすこともない……もっとも、私は最後の最後で台無しにしてしまったのだが」
自虐すると、脳裏にマリーヌ嬢を攫った際の思い出が甦る。義憤に駆られて前に出た。それだけならば良かった。しかし会場にはアーノルドが眼を光らせており、私は先んじて暴力の行使を封じられていた。
結果として、アウロアの安い挑発に乗るかたちで、言われるがままマリーヌ嬢を抱え上げて攫ってしまったのだ。
マリーヌ嬢は、私の暴走に巻き込まれただけだ。彼女は被害者なのだ。
だから――。
「今さらになってしまうが、謝罪させて欲しい。コルランに赴けばあなたに相応しい仕事があるなどというのは、口からの出任せだった。本当は、あなたをあの場から連れ立つ理由があればなんでも良かったのだ」
済まない、と口に出して頭を下げる。
無理もないことだが、マリーヌ嬢は困惑されたご様子だ。
「結果として、あなたの才を利用するかたちとなってしまった。この償いは――」
謝罪の途中、マリーヌ嬢が首を振った。私の言葉もまた連動して途中で止まってしまう。
何故なら、対面する人物が笑顔を浮かべていたからだ。
「どうかその先をおっしゃらないでください。私にはわかっておりました。レオン様は、先生のおっしゃる通りの御方だったと」
寝耳に水の一声に咄嗟に首を傾げてしまう。
マリーヌ嬢は諭すように続きを語る。
「たしかに、少し怒りっぽいところはあるかもしれません。けれどレオン様が本気でお怒りになるのは、他の誰かのためにだけではありませんか」
自信満々で断じられても、当人としては自覚がない。
そもそも怒りっぽいなどというのは悪癖だ。
なのにどうして、マリーヌ嬢はこんなに嬉しそうにしているのか?
「アーノルドは、私のことをどのように」
「弱き者のために本気で怒ることのできる、熱き血潮の持ち主であると」
「あ、熱き血潮だと!?」
アーノルドのやつめ、なんという人物評をこの万能の令嬢に植え付けてしまったのだ……!!
「きっと3年前の私のことも、そのように見ておられたのではないですか。壇上でひとり、誰かの救いを求めていると」
指摘を受けて、改めて気づくこともある。
たしかに怒りが先にあった。不当な婚約破棄で立場を失いかけている令嬢を放っておけなかった。けれどそれは、いつしかマリーヌ嬢当人への深い同情の心へと変わっていたのだ。
だから私は、あんなことをしたのか――。
気づきを得た私に、マリーヌ嬢はこっくりと頷いた。
「必要なのは、レオン様からの謝罪のお言葉などではありません。本当に必要なのは、ずっと私が伝えていなかったこと。あの場から救い出してくださったあなた様への、心からの感謝の気持ちの方なのです」
そして呆気に取られる私へと、マリーヌ嬢は深々と一礼した。
「レオン・コルラン様、私ことマリーヌ・ヴィクスドールのことを助けていただき、どうもありがとうございました」
足先から宙に浮く心地がした。全身の血流が一気に顔へと集中して、頬を赤く染めていく感覚がある。
わかっている。浮かれているのだ。だがこんな私など見せられるものか。特にマリーヌ嬢にだけはどうあっても見せてはならぬ。だから私は背を向けた。不躾にも感謝の心に背を向けるだけの、体の良い言い訳だけは手元にあったのだから。
「は……話が長くなってしまったな。このままでは明日の執務にも支障をきたそう。申し訳ないが、手早く髪を切ってもらえないだろうか」
私は既に反対側を向いている。気づかれてはいないはずだ。真っ赤な顔をしていることも、発した声が震えてしまったことも。いや、どうか気づかないでいて欲しい……。
そんな願いが天に通じたのかどうなのか、私の背にはらしくもなく少しはしゃいだ風なマリーヌ嬢の声が掛かったきりであった。
「かしこまりました。サー!!」




