第3話 その名はリンダ
「騙すなんて、とんでもない。私は交渉をしているだけです」
ヴァンプは大げさに両手を広げた。
「交渉? お前のそれは脅迫……じゃなくて、捏造による俺たちの連携を削ぐのが狙いだろう」
一歩間合いを詰めたアクセルに対して、ヴァンプは「まさか」と首を横に振った。
「交渉ですからアクセルさまにも実のあるお話です。今、ここで退いてくださるのなら『バラの棘』ナンバーワンの娼婦リンダが、今後のあなたの人生をサポートいたします――」そう言ってヴァンプは意味ありげな笑みを浮かべた。「――それは、もう、ありとあらゆるサポートを……」
「さっきも言ったが、俺はそんな店には行っていない。だからリンダなんて娼婦も知らない」
「町での滞在中の五日間、毎日リンダを指名していたじゃないですか」
「ね、捏造だ」
ホリーの向ける視線の温度が、さらに下がったのを感じた。
「ですが、背中にはムチでの『お仕置き』の痕だって、まだ残っているでしょう。あっ、『ご褒美』でしたか?」
「な、なにを言っているんだ、きみは」
アクセルの張り上げた声は裏返り、口の中はカラカラに乾ききり、脇の下を流れる汗は一筋どころではなくなっている。
ホリーの視線は、仲間に向ける性質のものではなくなっていた。顔を歪め、姿勢もアクセルから距離を取ろうとし、全身から嫌悪が漏れ出ている。例えるなら、吐瀉物に向けるそれであった。
「お前の戯言に付き合う必要はない」
空気を変えようとアクセルはひときわ大声を上げた。
「あんなに濃密な時間を過ごしたリンダを覚えていないのですか? 浅黒い肌に銀髪で胸の豊かな女性ですよ」
「クドい」
「本当にご存じありませんか?」
ヴァンプは意味ありげに姿見に視線を向け、アクセルもそれに釣られて姿見に視線が移った。
姿見の中には、庭園の東屋で読書を中断したプリシラが紅茶を楽しんでいた。小さなテーブルにはカップケーキが添えられている。
プリシラは姿見に映り込んでいない人物と会話をしているようだった。ときおり興味津々に瞳を大きくしたり、口元を押さえて笑うなど、会話に花が咲いているのが見て取れた。
プリシラがティーカップをソーサーに戻すと、紅茶を給仕するメイドが映り込んだ。どうやら会話はそのメイドとしていたらしい。その浅黒い肌に銀髪で胸の豊かなメイドと。
アクセルは全身から血の気が引くのを感じた。頭の中が真っ白になり、陸に打ち上げられた魚のように口をぱくぱくとするだけで、声を出すことも呼吸をすることもできなくなった。
姿見の中の二人の会話はさらに弾んでいる。
――何を話している? どこまで話している!?
瞬間的にさまざまな状況が脳裏を駆け巡った。
そんなアクセルの心中を読み取ったのか、ヴァンプが口を開いた。
「ご安心ください。アクセルさまとの記憶はすべて消してございます」
その瞬間、アクセルは大きく息を吐き出し、止まっていた呼吸が再開した。そして体中からいっせいに汗が吹き出してきた。それはリザードンの群れに囲まれたときや、寝込みをトロールに襲われたときとも違う類の汗だった。
「今のリンダにはメイドとしての新しい記憶を植え付けています」
ヴァンプの追加の説明に、アクセルはいくぶん平静を取り戻しつつあった。しかし説明の続きを聞いて、アクセルは膝から崩れ落ちそうになった。
「ですが私、記憶の操作はあまり得意ではないのです。何らかの拍子に記憶が戻ってしまうかもしれません。アクセルさまが協力してくださいましたら、私も頑張る所存です」
――この悪魔め!
アクセルは心の中で悪態をつきつつ、八方塞がりであることを知った。
アクセルの剣先は戦意と共に床に落ちた。
次回更新は11月5日(水)朝 予定




