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椿咲く庭、君を迎えに行く

作者: 国府宮清音

 庭のどこかで、小さく雪解けの音が響いていた。


 冬の冷たい風が髪を揺らし、私の黒髪に落ちた雪の粒は、触れるたびに溶けていく。白一色の世界に、庭の一角でざわりと動く緑と赤があった。

 それは、椿の花。つやつやとした緑の葉と、鮮烈な赤。

 寒さに負けず、あらゆる花が枯れ落ちるこの時期に咲くこの花が、私はとても好きだった。

 春になればきっと、この庭にも他の花が咲くのだろう。けれど、今は椿だけが庭の主役だ。

 私は庭の奥にある大きな岩の上に腰掛けて、息を吐く。白く広がった息が、すぐに風にさらわれていくのを眺めていた。


 雪解けでぬかるんだ庭を駆けてくる足音が聞こえてきた。そっちを見なくてもわかる。今日も来てくれた。約束と違うのは、時間くらい。

 息を切らせて駆け寄る足音が大きくなる。急いでくれたことが嬉しかった。けれど、そんなそぶりは見せずに。

「遅いわよ、アーシュ」

 口を尖らせ、そちらを振り返る。そこには、想像通りの、待ちわびた人がいた。自然に頬が緩む。

 頬を少し上気させ、無防備な笑顔を浮かべる少年は、アスゲイル・リュングヴィーク。アーシュは、遠縁の幼馴染だ。

 

 私よりひとつ年下なのに、彼の背丈は私より頭ふたつ分くらい大きく、すらりとしている。

 痩せているわけではない。この季節に半袖を着ていること、そしてそこから伸びる腕の凜々しさから見てもわかるように、細身だが、必要なところにきちんと筋肉がついている感じだ。

 しなやかな体つきって言うのかしら。いつか見かけた、見世物小屋の猛獣を思わせるような。本人に言わせれば、まるで足りないらしいが。

 少なくとも私の腕の倍はないと駄目だと言う。とんでもないことよね。お父様だってそこまで腕は太くない。


「ごめん。エリシア。ちょっと遅れちゃった」

 彼はいつものように両手を合わせて頭を下げる。何度目のやりとりかなんて、もう忘れちゃった。

「剣の修行もほどほどにね。無理は良くないわ」

 彼には剣の才能があるらしく、毎日のように熱心に剣を振っている。私との待ち合わせに遅れるほどに。

 普通の貴族の子どもたちがどれほど修行するのかはわからないけど、ちょっと頑張りすぎのように思う。

 そう。そうよね。やっぱり約束は守ってほしいもの。守れないほど打ち込むのは良くないわ。


「……強くならないといけないからね」

 そう言って真剣な顔をする彼は、少しだけ大人びて見えた。

 遠くを見つめる瞳は猫の目のような琥珀色で、いつもずるいと思う。だって、吸い込まれそうなほどに綺麗だから。

 それに比べて私の瞳は薄墨のような、黒にもなれない、まるで霧のような色。 けれども、その分、髪の毛は烏の羽のように真っ黒で、真夜中の色をしている。

 そう。椿の花がよく似合う、黒なのよ。

 

 アーシュが、無言で私の髪に椿の花を飾った。

 慣れた手つきで髪に飾られる椿に、置いていかれそうな気持ちになる。彼を引き止めたくて、咄嗟に思いついたことを口にした。

「……私、この庭を花でいっぱいにしたいな」

「花でいっぱいに?」

「ええ。椿だけじゃなくて、薔薇も、スミレも。春にはチューリップも。夏にはラベンダーだって……」

 この庭は、どこか寂しい。今は冬ということもあるけれど、春になったとしても、そこまで賑やかにはならないだろう。

 なぜなら、庭師が辞めてしまったから。

 手入れをする者がいなければ、地中で春を待つ花も上手く咲けないだろう。私には、そんな技術はない。


 だからこそ、私はこの状況をどうにかしたかった。

「この寂しい庭を、花でいっぱいにしたいのよ」

 花でいっぱいになれば、お父様も、お母様も再び笑顔を取り戻してくれるはずだ。

 去って行った人もまた、帰ってくるはず。


「そうだね……」

 アーシュは優しく、暖かな目で私を見つめている。

 澄んだ琥珀の瞳に見つめられると、心がどこか落ち着かなくなるけれど、それと同時にほんわかする。

 いつもピリピリしているお父様よりよっぽど、安心できる場所だった。

「約束するよ。エリシア」

「え?」

「僕が、この庭を花で埋め尽くすよ」

 期待で胸が溢れる。

 彼なら、やってくれるかもしれない。

 満面の笑顔でなされたその宣言は、ある意味、私を縛る要因となってしまった。



◇◇◇



 春の風が、穏やかに吹くようになった。

 雪解け水が乾き、土の匂いがあたりに満ちると、椿の花は最後の花びらを落とし、次の季節の準備を始める。

 私は庭の奥にある大きな岩の上に座り、まだ少し冷たい風に黒髪を揺らしながら、彼が来るのを待っている。

 気がつくと、ここにいる。

 自然と、足が向くのだろう。

 ここにいればアーシュが来てくれるのではないか。そんな淡い期待を抱いて、毎日のように訪れていた。


 最近は、アーシュが来てくれることもめっきり減ってしまった。

 彼のお父さんが来なくなったからだ。最後に来たのはいつだったろう。

 確か、うちの門を出る前に一度振り返り、うちを見上げたあと、肩をすくめていたような。

 あまり、良い話し合いができなかったのだろうか。


 父親の事業があまりうまくいっていないと、メイドが噂をしていた。

 貴族というのは大変なのだ。貴族というだけで多額のお金を使わなければならない。

 身の回りの品、住む家、家具。食べるものや使うもの、飾るものすべて、高いものを買わなければいけないし、頻繁に買い換えなければいけないらしい。

 お金を持つ者がお金を使うことで、経済が回るのだとか。そんなことを家庭教師の先生がおっしゃってた。

 具体的にいくら使っているのかはわからないけれど、うちは大変なのだろうと思う。

 なぜなら私の家は、伯爵家だから。貴族の序列でも上の方に位置する家柄だから、やはり多額の出費を強いられるのだろう。


 多額のお金を使うということは、事業が上手くいってくれないと困るわけで。

 新しい服や装飾品が届かなくなったのは、そういうことなのだろう。

 だから、比較的うまくやっているアーシュのお父さんと相談していたみたいだ。

 アーシュの家は子爵家だから、お金の使い方もうちよりは少なくて済むのだろうか。


 けれど、そこにも頼れなくなったみたいだし、本当に、どうなるのだろう。

「アーシュ……」

 アーシュのお父さんが来なくなったから、彼も来なくなった。

 その程度の仲だったのかとも思った。けれど、父親が行くなと言えば逆らえない。父親の言うことは、貴族の家では絶対なのだ。それは恐らく、どの家でも同じだろう。

 でも、一瞬だけでも顔が見たいと思うのは自由だろう。

 もし会えたなら、運命を信じてしまうに違いない。


「そろそろ二年くらいかな……もう本当にわからない」

 椿の枝に触れながら、呟く。

 結局、この椿だけだった。どの花も蕾はつけるけれど、椿以外の花は咲いてくれない。

 花は、世話をすればする分だけ綺麗に咲いてくれると庭師に聞いたことがあるけれど、その庭師がいなくなってしまったのだからそりゃあ、咲いてくれない。

 この綺麗な紅椿もいつか咲かなくなるのだろうか。

 外国では生命の象徴とも言われているらしいこの椿も、いつか枯れてしまうのだろうか。

 そうなると私も枯れてしまうかもしれない。

 私が枯れる前に、来て。

「アーシュ……」

 もう涙も出なくなってしまった。悲しくないのかなぁ。悲しいはずなのに。


 遠くで鳥が飛び立ち、庭の土を踏む音が聞こえてきた。

 振り返る。そこに、想像通りの、待ちわびた人がいた。

「アーシュ……!」

 背がまた伸びた。白かった肌は少し日焼けし、どこか彫りが深くなったように見える。以前は人の良さが前面に出ていた顔だったが、雪の中をかきわけてきたような厳しさが宿っていた。

 色々苦労したのだろうか。そんな中、来てくれたことが嬉しくて、言葉が出ない。視界がじわりと歪んでゆく。


 彼はきょろきょろと周囲を見渡し、そして私を見た。

「遅いわよ、アーシュ……」

「ごめん、エリシア。ちょっと遅れちゃった」

「ちょっとじゃないでしょ」

「もう少し早く来たかったんだけどね、勉強やら剣術やらで家から出られなかったんだ」

 照れくさいのか私から目を逸らし、岩を撫でながら呟く。

 悲しみと寂しさ。そんな感情が込められた言葉とともに、涙がぽとり、ぽとりと岩に落ちた。


「……泣いているの? どうしたの?」

 側に寄り添っても、彼は泣き止もうとしない。涙が流れるまま、ただ声を押し殺して泣いていた。

「アーシュ?」

「学園に、入るんだ」

 俯いたまま。

 ……ああ、もうそんな時期なのか。


 王立の、貴族のための学園。

 学問を学び、貴族として将来、国と家を担うために必要なものを学ぶ場所だ。

 貴族の子弟は誰もが、というわけではないが、十六から三年間、必要な知識と技術を学ぶ。

 と、いうことは、私はもう十八になるのだろうか? それにしてはあまり成長していないようだけど。手や足、体全体を見てもそんな風には見えない。

 食事も質が落ちているし、そういう所が影響しているのかもしれない。こればかりはどうしようもないわよね。


「また来るよ」

 いつしか、彼は泣き止んでいた。

 でも、寂しそうな顔は、そのままだった。泣いていないだけだった。

 悲しみを湛えた笑顔に何も言えず、私はただ、見送るだけだった。


 それからというもの、アーシュは数日に一度は私に会いに来てくれるようになった。

 それまでは家で勉強と剣術の修行に追われ、外に出る暇もなかったらしいが、今はそれなりに余暇があるらしい。

 朝からお昼過ぎまで学校があり、それ以降は自由。それまでの生活とは全く違うことに彼は戸惑いながらもここに来ることができると喜んでくれた。

 私だって、嬉しい。

 ずっと会いたかったのだから。

 これからは、頻繁に会えるようになる。


「そう言えば、剣術の方はどう? 勉強ばかりでなまってない?」

 学園でどんなことを学んでいるか、私は具体的には知らない。私は学園には入れなかったから。

 お金がないから、節約だとか。

 学園は、希望しない者は入学せずとも構わないから。学費は無償ではないので、費用をかけたくないのだろう。

 ……でも、何も知らない状態でいいのだろうか。

 貴族の娘であれば、いずれはどこかへ嫁がなければならないのに、私にはお作法もろくに身についておらず、ダンスも踊れない。

 家庭教師の先生もいなくなったし、誰も、何も教えてくれない。本当にいいのだろうか。


「……剣術の試合で優勝したんだ。先生にも褒められた」

「すごいじゃない。頑張ってたものね。」

 私は手を叩いて喜んだ。最近は私自身のことで楽しく思うことがないから、彼が成功を積み重ねていくのが自分のことのように嬉しい。

 少し、遠くに感じる。

 だって、私は貴族令嬢としての教育をほとんど受けていないのだから。

 幼い日の淡い思いを、叶えるかどうかのラインにすら立てていないのだから。


「世界は広かった。剣の才能があると言われていたけど、もっと強い人がいっぱいいたんだ」

「そうなのね。でも、アーシュならきっとその中でもやっていけるわ。」

「負けられなかった。だって僕は、強くならなきゃいけないから」

「無理はしないで」

「せめて、約束だけでも果たしたいんだ」

 置いてきてしまった何かを探すように周囲を見渡しながら、彼は言う。

 もう見つからないとわかっているのに、でもどこかに落ちていないか、そんな必死な目だった。

 庭の話かな。そんなに悲壮感を漂わせなくても。


「僕は、伯爵にならなきゃいけない」

「えっ?」

 庭じゃないの?と逆に拍子抜けしてしまった。そんな約束したっけと首を捻るけど思い出せない。

 彼の髪がふわりと揺れる。陽の光を受けて、薄茶色の髪の毛が赤銅に光っていた。

 手を伸ばそうとして、留まる。なんだか、気軽に触れてはいけないような気がした。

 やはり、遠い。

 いつも少し距離を置いて話す彼の姿は、どこか悲しそうで、でも思いやりに満ちていた。

 季節が変わり、椿が咲いて、散っても、彼は庭へ戻ってきてくれたのだ。

 

 アーシュとの距離感は縮まらないまま、時間だけが流れた。

 以前は気軽に体に触れ、冗談を言い合っていたのに、どうにも近付きがたい。

 腕や背中に触れようとすると、どうも照れくさかったり、恥ずかしくなったりして、手が止まる。

 これが一体何なのか、私にはわからなかったし、教えてくれたであろうメイドもいないので知る術がなかった。

 まさか彼に直接訊くわけにもいかない。


「剣ではね、誰もが認めてくれるんだけど。このまま行けば志望通り軍人になれそうだ」

 と頬を掻く彼はとても微笑ましかった。

 ただ、勉強面では、剣術ほどとはいかないらしい。

 普通に考えればそうだろう。公爵家や侯爵家などは、学園に入る前から多額のお金をかけて英才教育を施しているみたいだから、土台が違う。

 中には、同じ子爵家や男爵家でも公爵家にお仕えしているところは、そこの教育を受けられるため、同格だと思っていたらスタートダッシュで差をつけられている、といった話も聞く。

 よくわからないけれど、学園に入学した途端、もう政治家のような競争が始まっているのだと思った。


「まあ、僕は軍人として生きていくから、あまり関係ないかな」

 苦笑いしながら、彼は花を全て落としてしまった椿を見つめる。夏でも葉っぱは青々としていて、いつでも元気で羨ましい。

「でも、軍人さんも出世したらそういうの、あるんじゃない?」

「とにかく、剣では誰にも負けないよう、ただそれだけを考えて頑張るよ」

「そうね。剣で一番をとったら、手柄も立てやすくなるものね。」

「勉強は……まあ十番くらいをうろちょろしていればいいだろう。」

 何人いるかわからないけれど、十番前後なら充分優秀ではないだろうか。誰かに自慢したいなって思った。


 本当に頑張っているんだなと思う。

 もしかするとこのお庭を花いっぱいに埋め尽くすなんて言葉、忘れているかもしれないのが残念だけれど、彼は必死で今を頑張っているのだから、邪魔をしてはいけないと思う。

 もし、覚えていたら片手間にでもしてくれると嬉しい、くらいのささやかな願いに留めておくべきだろう。

 だって、負担に思われたくない。

 

 模擬試合で負傷し、しばらく姿を見せなかった時でも、私は彼の無事を喜ぶにとどめておいた。

 だって私は、誇れるところなんて何もない。

 貴族として、女として、人として。一体何を誇って彼の前に立てると言うのだろう?

 そんな私は、ただ静かに、彼の優しさに縋るしかないのだ。


 

◇◇◇



 雪の降る夜は、ひときわ彼を思い出す。

 庭には、冬椿がひそやかに赤を灯していた。真っ白な雪の上にも、いくつかの紅を添えている。

 花びら一枚ごとではなく、そのまま落ちる椿の花は、“首が落ちる”と言われ、あまり軍人には好まれていないと聞いた。

 アーシュも、あるいは考えを改めたのかもしれないけれど、少なくともこの庭にいる間は、椿を愛でてくれていたものだ。


 一枝の椿を岩の上に置き、優しく微笑む。

 椿の季節が始まると、彼はいつもそうしてくれた。

 そして、最後の一輪が残ると、それをまた岩の上に置く。

 それは、まるで儀式のようだった。不思議だった。

 どうせなら、昔のように私の髪に飾ってくれれば良いのに――。

 彼も、私に触れるのを躊躇っているのだろうか。まるで私がそうであるように。


 お互いが触れられなくなって、三年が過ぎた。

 それはすなわち、彼が学園を卒業したということだ。

 軍隊の制服を身に纏った彼は、少し大人びて見えた。

「今日から行ってくるよ」

 望み通り軍に入隊しただけでなく、いきなり十人隊長という役職をもらったらしい。

 どれだけ偉いのか私にはわからないけれど、学園を卒業してすぐ十人とはいえ隊長に抜擢されるのは、滅多にないことだと教えてくれた。

 それだけ、アーシュがすごくて、軍からも評価されたのだと理解し、嬉しさのあまり、はしたなくも雪の上を飛び跳ねてしまった。


 だけど、彼は注意もせず、優しく見守ってくれるだけだった。

 それが物足りなく、どうすれば良いのかわからずもやもやとした気持ちになった。

 

 はしたない、と言われれば満足したのだろうか。

 ありがとう、と抱きしめてもらえれば満足したのだろうか。

 私の心は寂しさで満たされたけれど、笑うべきだと思った。

「……頑張って、アーシュ。たくさん学んで、たくさん強くなって……そして無事に帰ってきて」

 結局、私は最後まで訊くことができず、一枝の椿を抱きしめたまま、彼の新たな門出を見送った。


 軍に入ってからの彼は、それまでと打って変わって、会いに来てくれる頻度が極端に減った。

 一週間に一度あれば良い方で、時には、数ヶ月に一度という時もあった。

 任務であちらこちらに飛び回り、今月は北の砦に行ったかと思えば次の月は南の平地。雪山やら凍った川やら聞くだけでも大変そうだった。

 それでも、彼にとっては望んだことであり、会う度に日焼けした肌を自慢げに見せてくれた。

 本当は、笑った方が良かったのだろうけど、私は笑えなかった。


 日焼けした肌。それは、いつか人を殺すための訓練の副産物だと。そう、思えてしまったのだ。

 訓練での苦労話を、時に笑顔で、時に苦々しく語る彼を見ると、本当に充実しているのだと思う。

 思えば思うほど、遠く感じる。

 私は、その場にしゃがみ込み、雪を触る。しかし、私の手には何の感覚もない。

 私は、いつしかおかしくなってしまっていた。

 だからせめて、アーシュとともにあることで、私が私であると信じさせてほしかった。

 これ以上離れてしまうと、私はどうにかなりそうだった。

 なのに、時代は私に優しくない。


「戦に出ることになったよ」

 椿を一枝、どこから持ってきたのか。いつものように岩の上に置いて、彼は告げた。

 少し、興奮しているのだろうか。やっと戦功が挙げられると彼は笑顔を私に向ける。私の顔を見て何も思わないのだろうか?

「隣国との間に、国境争いが起きたんだ」

 そんなこと、どうでも良い。私は、あなたに、私から離れてほしくないのに!


「……いつかたくさん戦功を挙げ、伯爵になったら」

 彼は岩に腰掛け、椿を眺めながら言う。そう言えば伯爵になりたいと言っていた。何のためかはわからないけれど。

「この庭一面を、花でいっぱいにするよ」

「……っ!」

 そんな……覚えていた。覚えていてくれたのだ。

 彼は、忘れてはいなかったのだ。

 ぶわりと、一気に涙が溢れそうになった。


 でも、どうしてだろう。泣きながら、ふと思う。子爵のままではいけないのだろうか。

 訊きたかったけれど、彼の決意表明に水を差すのではないかと思って言えなかった。

 もしかして、同格になって私を……?

 いや。アーシュの父親が許してくれるはずがない。

 でもだとしたらどうして?


 しんしんと降り積もる雪は彼を白く染めてゆく。

「……どうか無事で」

 彼の背中へと投げかけた声は、はかなく雪に吸い込まれる。

 ならばせめて。

 冬椿に込めた祈りが彼を守ってくれるようにと、願った。



 冬が終わり、春も終わろうとする日に、彼は帰ってきた。

 庭の椿は、全てが鮮やかな緑で覆われていた。風は暖かく、気持ちの良い昼下がりだった。

「エリシア」

 その声を聞いた瞬間、私は振り返った。

 そこには旅装のままで、剣を背負った彼が立っていた。それは、私の知らない軍服姿だったけれど、間違えるはずがない。毎日無事を祈っていたアーシュなのだ。


「アーシュ……!」

 声が震えた。泣きそうだったけれど、笑うべきだと思った。

「帰ってきたよ」

 その言葉だけで、私の胸はいっぱいになった。

「おかえりなさい……!」

 私は駆け寄りたかった。でも足が動かなかった。動けなくなってしまった私の前で、彼はゆっくりと微笑んだ。


「ひとつ、戦功を挙げたよ。一歩、近付いた」

「……ずっと待っていたの。毎日、ここで……」

 涙が溢れそうになり、私は手で口を覆った。

 言葉が途切れ、涙が頬を伝った。風が吹き、若葉の香りがした。


 彼は岩に座り、「見て」と懐から花を取り出した。こんな季節なのに。少し小ぶりの紅い椿だった。

「戦場で咲いていたんだ。雪の中でも、雨の中でも、散らずに咲いていた花だよ」

「っ……あり、ありがっ……」

 岩の上に花を置き、彼は柔らかく、落ち着いた笑みで話してくれる。その胸に飛び込めたらどんなにか幸せだろうと思った。

 でも、どうしても躊躇してしまう。

 私は、彼には相応しくない。そうとしか思えなかったのだ。


 その日から彼はたびたび庭に戻ってきて、私に話しかけてくれた。戦のこと、領地のこと、王都のこと、そして椿の庭の話を。

 私はただ静かに彼の声を聞き続けた。声を聞くたび嬉しくて、涙が溢れそうになった。

 私は彼に笑いかけ、彼は私に微笑み返す。それだけで十分だった。


 アーシュの話でしか解らないけれど、国境争いは、こちらが有利に進んでいるらしい。

 彼は各地の戦場を転々として戦功を挙げ、そのたびに報奨金や休暇をもらい、順調に出世を遂げていった。

「十人隊長から、百人隊長になったよ」

「金貨を多く頂いた。これで交渉もスムーズにいく」

 彼の活躍はめざましく、元々評価されていた剣の腕だけに留まらず、槍の腕もまた卓越していると知られるようになったらしい。

 これによって手柄はさらに増え、報奨金も次々と入ってくるようになったのだと。


「百人隊長のまとめ役になったよ。給与も増えた。」

 良く解らない言葉だけど、戦術眼っていうの? を褒められたらしい。多くの兵を指揮するようにと言われ、光栄なことだとは思うけれど、前線に出られなくなったのは残念だ、と。

 まさにスピード出世ではないだろうか。それほどに、アーシュは優れているのだ。嬉しい反面……やはり複雑だった。

 でも、止められない。止めてはいけない。私には、そんな権利なんてそもそもないのだから。

 じゃあ、この気持ちはどうすればいいのだろう。どうしようもなく引かれてしまうのだ。彼らに。


「領地を広げたんだ。砦をひとつ落とした」

 喜ぶべきことなのに、胸が苦しくなる。

 いつものように穏やかに笑う顔も、血と鉄の匂いを纏っているのだと。

 誰を討ち取ったか、どこの城を陥落させたか――。

 嬉しそうな彼の話を同じ気持ちで頷き、もっと続きをせがむべきなのに、聞きたくない私がいる。


 もう、駄目なのかもしれない。

 ぽつ、ぽつと雨が、岩を濡らす。椿の葉が、雨を弾く。

 私は、私は。


 その夜、雨はひどい風雨となって、この王都を襲った。

 まるで台風のような横殴りの雨に、私は、かつての記憶を呼び起こされた。


 あれは、十年以上前の話だ。

 初めて体験する豪雨に、私はひとり、布団の中で怯えていた。

 窓や壁を激しく叩きつける雨音や、魔物の叫び声のような暴風の音。時折光っては轟音を響かせる雷。

 全てが恐ろしかった。

 誰も来てくれない。私専属で夜番をするメイドはもうこの家にいない。

 ギシギシときしむ屋敷。修理も補修もできないぼろぼろの家は、今にも崩れ落ちるのではないかと気が気でならなかった。

 そのうち、雨が家の中に入ってくるのではないかと思った。


 お父様かお母様が来てくれれば良いのに。

 いや。

 アーシュ。アーシュが来てくれたら良いんだ。アーシュなら、ずっとそばにいてくれる。きっと、朝までずっと私の手を握って、安心させてくれる。

 アーシュ。アーシュ。

 どうして来てくれないの?

 どうして助けてくれないの?


 そんな時、ギィィと立て付けの悪い扉が開く。アーシュなの?

 私は、布団から顔を出して、扉の方を見る。

 あれは、お父様……?

 随分と力のない、仮面のような顔だった。

 怖くなり、布団を被り直す。

 雨音に混じって、足音が近付いていた。

 怖いなんてものじゃなかった。恐怖だった。全身が震えだし、止まらない。

 やがて足音はベッドの前で止まる。

 ばさりと布団が剥ぎ取られて――。

 そこからの記憶は、ない。



◇◇◇



 気がつくと、私はいつもの岩に座っていた。

 昨日の雨はどこへやら。見上げると、どこまでも青空が広がっていた。

 足元だけがぬかるんで、びしゃり、びしゃりと一歩踏みしめるたびに水音が上がる。

 足音がした。今日もアーシュが来てくれた。

 

 庭の一角、いつもの岩の前に立った彼は、私に笑いかける。

「やあ、エリシア。今日も寒いね」

「そうなの? よく解らないわ」

 昨日の雨ですっかり雪は溶けてしまい、せっかくの椿もほとんど落ちてしまった。

 この庭にあるのは、泥水だけだ。


「やっと、手が届いたよ」

「何に?」

「伯爵だ。戦功が認められ、この春に叙爵されたんだ。」

「……おめでとう。よかったわね。」

 不思議と、何も思わなかった。嬉しいはずなのに。

「これでやっと、この屋敷を買い取ることができるよ」

「え……?」

「子爵家の財産では広い屋敷をふたつも持つ余裕はないけれど、伯爵であれば、領地が増えた今なら、それも可能になる。」

「それは一体……」

 意味がわからない。私たち家族が住んでいる家を、アーシュが、買い取る? それじゃあ 私たちはどこへ行けば良いの?

「この屋敷に僕が住む。そして、腕の良い庭師を呼んで、花いっぱいにするんだ。」

「っ!」

「やっと、やっと約束が果たせる……待たせてしまったけれど、天国の君も、喜んでくれるだろうか」


 瞬間、周りの景色が一変した。

 岩と、その周囲の椿を残して。すべてが変わってしまった。

 庭を取り囲んでいた壁はぼろぼろに崩れ落ち、辺りは草が腰辺りまで生い茂って荒れ放題。屋敷を見れば、レンガは所々崩れ落ち、窓ガラスは割れていた。

「これは……」

「僕がこの家の権利を得なければ、庭をいじることなんてできはしないから……」

 両親を説得するのに時間はかかってしまったけど、と彼は続けた。反対はあったけれど、リュングヴィーク家を伯爵に押し上げたのは、彼自身なのだ。だから、文句は言わせなかった。


「ああ……」

 そうか。そうだったのね。だから。

「ちょっと……ではないな。だいぶ遅れてしまったけれど」

 彼は、泣き笑いながら、椿の一枝を岩に捧げる。

「エリシア。ありがとう。君がいたから、僕はここまで頑張れた。本当に、大好きだったよ」


 

◆◆◆


 

 春の風が庭を吹き抜け、赤い椿の花がひとつ、またひとつと落ちていく。

 暖かい陽射しの中、アスゲイルの娘が庭を駆け回っていた。

 ふわりと赤銅色の髪が揺れて、瞳が空の青を映している。


「パパ、見て! お姉ちゃんと椿で遊んだんだ!」

 娘が両手いっぱいに椿の花弁を集めて笑った。

「お姉ちゃん?」

 アスゲイルは何かの予感を覚え、一歩、二歩と娘に近づいた。

「うん! 黒い髪で、きれいなお姉ちゃん。椿の花を髪に飾り、一緒におままごとしたんだ!」

 笑顔で言う娘の後ろには、春の風に乗って揺れる椿の花弁が、ひとひら、またひとひらと落ちていく。


 アスゲイルは少し目を見開き、それから優しく微笑んだ。

「そうか……ありがとう」

 娘の頭を撫でる手が、わずかに震える。

 それは戦場で負った古傷の痛みか、それとも過去を思い出す痛みなのか。

 だが、その笑顔は、慈しみに満ちていた。




 ――私は、そこにいる。

 娘が拾った椿の花を髪に飾り、一緒に笑った。

 小さな手を繋ぎ、花弁で小さな冠を作った。

 その笑顔が、あの日の私の笑顔と重なっていた。

 春の風が吹く。

 椿の赤が風に乗り、遠くへと運ばれていく。


 私は、ここにいる。

 たぶんずっと、ここにいる。

 娘が笑い声を上げると、その声が庭中に響き、赤い花の中で跳ね返る。

 アスゲイルが空を見上げていた。そこじゃないわ。相変わらずね。


「エリシア……」

 その名を呼ぶ声は、小さくても確かに私の耳に届いた。

 私は笑顔で頷く。

 それは風になり、椿の花の香りになって彼の頬を撫でる。


「ありがとう」

 声にはならなくても、風が想いを伝えてくれる。

 椿の赤が、私の想いを運んでくれるのだ。

 春の庭で娘が笑う。

 アスゲイルが笑う。

 私の愛した人が、私が守りたかった人が、笑っている。

 それだけで、十分だった。

 風が庭を吹き抜け、赤い花弁が空へ舞い上がる。

 春の終わり、椿の花の下で――。

 私たちは、こうして再び出会ったのだ。

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