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苦手な方はご注意ください。

小説『義の焔』~大塩平八郎の乱

作者: 黒澤カール

江戸後期、大坂を襲った大飢饉と豪商の腐敗――

人々の命を救おうと、役人でありながら私財を投げ打った一人の男がいた。

名は大塩平八郎。

義を貫くために、権力と腐敗を焼き払う焔となった男の、哀しき叛乱の記録。

善と悪の狭間で揺れる正義とは何か?

民をもって天と為す――その信念を胸に、彼が灯した炎は誰のためのものだったのか。


第1章


薄曇りの空から、ちらちらと雪が落ちていた。

大塩平八郎――幼名を大塩格之助と言った少年は、貧しい蔵役人の家に生まれながらも、寺子屋の書をむさぼり読んだ。七つの頃には、近隣の大人たちが集まっても、この少年に古典の一節を教わるほどであった。

 「父上……これはどういう意味ですか」

 炉端に座る父・大塩三郎右衛門に、格之助は手習い帳を差し出した。

 そこには『民をもって天と為す』と大きく書いてある。孟子の言葉だ。

 父は薪をくべ、火箸を置き、にやりと笑った。

 「天とは、民衆のことだ――この世で一番大切なのは、権力でも官職でもない。人々の暮らしだ。そういう意味だ」

 格之助はじっと火を見つめ、ぽつりとつぶやいた。

 「ならば……人が苦しむ世は、天に逆らうことになりますか」

 父はしばし考え、黙って頷いた。

 やがて格之助は成長し、父の後を継いで役人の道を進んだ。

 才覚を買われ、大坂町奉行所に与力として仕えた。類い稀なる正義感と才筆に、人々は恐れと尊敬を抱いた。

 同僚の与力・白川清之助は、ある夜、残業の帳簿を前にして笑った。

 「大塩、おまえの目は怖いわ。人の腹の底まで覗いておるようだ」

 「清之助、そなたの腹には何が潜んでいる」

 「そりゃあ金と女さ――冗談だ。だがな、役所勤めで正義を通そうとするな。首が飛ぶぞ」

 平八郎――今はそう呼ばれていた――は筆を置いて言った。

 「正義を通すのが役人の務めだ。違うか」

 清之助は乾いた笑いを漏らしただけだった。

 天保七年――飢饉が西国を覆った。


大坂の米相場は沸き立つように騰がり、町は米を買い占める豪商と、餓死する民とに分かれていった。

奉行所の奥では、町年寄の豪商が役人に金を渡し、裏帳簿を回していた。

平八郎はその密談の声を、障子越しに聞いた。

帰り道、夜の大坂の街を歩く。

橋の下には痩せ衰えた母子が座り込み、かすかに呻き声を上げていた。

 「……旦那、米を……一握りで……よいのです……」

 平八郎は懐から銭を渡した。

 母親は震える手で何度も頭を下げた。

 その頭を見下ろしながら、平八郎は思った。

 この銭は、私のものではない。この女と子のものだ。

 だが……銭が尽きれば、それまでだ。

 宿に戻った平八郎の背に、灯火が滲んだ。

 机の上に、父が遺した孟子の一節が書かれた紙を置いた。

 『民をもって天と為す』

 義は、私一人の心にあるものではない――民の中にある。

 襟を正し、平八郎は決意を固めた。


第2章


 春を待つ風は冷たいのに、奉行所の奥座敷はぬるい空気に満ちていた。

 香の煙が紫に揺れ、太鼓腹の商人が白い頬を膨らませて笑っている。

 「おお大塩殿、まあ座りなされ。わしらも商いが無くては町が回りませぬでな――」

 「それにしては、随分と賑やかなご商売だ」

 平八郎の声は低いが、座敷に冷たい水をかけたように空気を凍らせた。

 「困窮する町人に米を売らず、買い占め、値を吊り上げる。

 その米で遊郭に女を囲い、役所に袖の下を流す……」

 商人の顔が引きつる。

 傍らで白川清之助が袖を引いた。

 「……大塩、ここは控えろ。奴らを敵に回しては、役目が果たせぬ」

 「義に背く役目なら、果たさぬ方がましだ。」

 その夜、平八郎は町奉行に直訴した。

 しかし老齢の奉行は目を伏せ、苦々しく吐き捨てた。

 「大塩――おまえの気持ちはわかる。しかし、この大坂の町は商人の銭で持っておる。

 彼らを締め上げれば町は回らぬ。……分かるな?」

 平八郎は座敷に頭を下げると、二度と奉行の前では笑わなかった。

 翌朝。

 自邸に戻ると、奉公人が慌てて飛び出した。

 「旦那様! 今朝もまた、貧民衆が門前に……」

 平八郎は黙って襟巻をほどき、蔵に入った。

 俸禄で貯えた米俵を一俵ずつ、門の外に並べさせる。

 「銭はいらぬ。ただ命を繋げ」

 門の外で押し寄せる群衆に、白川清之助がぼそりとつぶやいた。

 「おまえの倉は、もう空だろう。どうするつもりだ、大塩」

 平八郎は静かに笑った。

 「この命が、まだ残っておる」


 夜更け。

 平八郎の屋敷の座敷に、燈火が揺れていた。

 畳の上に座すのは、かつての教え子である若侍たち。

 刀を脇に、肩を寄せ合い声を潜める。

 「先生……もう、堪忍ならんとです。あの腐れ商人どもと役人どもを……」

 「声を潜めろ。」

 平八郎は燈火の下に、白紙を広げた。

 「おまえたちの血を流すなら、ただの暴徒と変わらぬ。

 人を殺して義を通すのか――我々の義とは何だ」

 誰も答えられなかった。


 冷え切った火鉢に、炭がひとつ落ちた。

 平八郎は黙って、その赤を見つめた。

 「……義は声ではない。行いだ。

 誰かがやらねばならぬなら、俺がやる。」


 翌日、平八郎の屋敷にあった蔵はすべて開かれた。

 紙に墨で書かれた札が門に張り出された。

 『大塩蔵開放、貧民の者これを取るべし』

 白川清之助は遠目に、その張り紙を見てつぶやいた。

 「大塩……おまえは義に殉じる気か……」


第3章


 冬の終わり、大坂の夜風はひどく冷たかった。

 平八郎の屋敷の奥座敷には、灯を隠した紙障子の向こうで、五つ六つの人影が膝を寄せていた。

 「先生、もう黙ってはおれませぬ。蔵を開いても民は救いきれぬ。悪党どもはますます肥え太り、飢えた子らは街で息絶える。どうか……どうかお声を……」

 若い町人崩れが震えた声で言った。

 平八郎は黙って、その顔を見た。

 頬はこけ、唇は青い。それでも眼だけは赤く燃えている。

 「悪を討てば、この世は正しくなると思うか。」

 「先生……!」

 「殺せば義なのか。火を放てば正義なのか。」

 平八郎の声は静かだったが、室の空気を切り裂くようだった。

 黙り込む若者たちの肩に、白川清之助が手を置いた。

 「……大塩、もう選べまい。そなたが選ばずとも、こいつらはやるさ。ならば、せめてそなたの手で――義の旗の下に――」

 燈火の中で、平八郎は深く目を閉じた。

 耳の奥で、父の声が蘇った。

 ――民をもって天と為す。

その夜、平八郎はすべてを決めた。

 家中の者を座敷に集め、妻・満寿にも頭を下げた。

 「……満寿。ここにおれば、おまえも子もただでは済まぬ。逃げろ。」

 しかし、満寿は眉を下げて笑った。

 「どこへ逃げましょう。大塩の女として生まれ、大塩の子を抱えて。

 私は逃げませぬ。何があろうと、あなたと共にここにおります。」

 平八郎は目を伏せた。

 座敷の隅では、小さな息子・格之助が、父を見つめていた。

 その翌日から、町の闇に密かな声が走った。

 「大塩先生が立つぞ――」

 「役人どもの尻を蹴飛ばすぞ――」

 「義賊か、叛乱か――いや、義だ――!」

 若者が集まった。浪人が集まった。

 貧しい町医者、潰れた米屋のせがれ、流れの博徒――。

 誰もが、正義を信じたいと胸の奥で熱を抱いていた。

 三月。ある夜、平八郎は竹筆で密書をしたためた。

 『悪を討つに火をもってす。米蔵を焼き払い、民を解き放つ。義を志す者、我と共に来たれ――大塩平八郎』

 その紙片は、町の暗がりを滑るように広まった。

白川清之助は暗い裏路地で、平八郎に問うた。

 「止めるつもりだった。だが止まらぬのだな、大塩。」

 平八郎はうっすらと笑った。

 「止まる道はあったさ。だが、それを選ぶほど我は賢くない。」

 「おまえは馬鹿だ。」

 「承知しておる。」

 二人は風の中に立ち尽くした。

 夜空には雲が重く、星のひとつも見えなかった。

その夜更け、平八郎の蔵の奥に、油樽が並べられた。

 火を、光を、義の焔を。

 この世の腐れを焼き尽くす、その日のために。


第4章


三月二十五日、曇天の朝。

 大坂の町はまだ冬の冷えを残していたが、空気の奥にひそやかな火薬の匂いがあった。

日の出前、平八郎は屋敷の奥庭に立った。

 白川清之助と十数人の同志が、黒羽織の裾を揺らし集まっている。

 「皆、よく集まってくれた。」

 平八郎の声は、驚くほど静かだった。

 「これは乱ではない。賊でもない。この火は、腐った米蔵を焼く火だ。民が奪われた命を取り戻す火だ。」

 幼い頃、父に聞かされた孟子の言葉が胸をよぎる。

 ――民をもって天と為す。

 「義の焔を掲げよ――我らが焼くのは悪だけだ。」

 午の刻が迫るころ。

 豪商の米蔵に火が放たれた。

 バチバチと音を立てて、乾いた米俵に火が走る。

 蔵の瓦が割れ、赤い舌が夜空に吠えた。

 「大塩だ――大塩先生が立ったぞ――!」

 町の暗がりに声が飛び交う。

 眠っていた町人たちが戸を開け、火の粉を背に逃げ惑う。

 火はあっという間に隣の蔵に燃え移り、豪商の屋敷の格子戸を飲み込んだ。

 「武士の分際で! 暴徒め――討て、討てえ!」

 商人に雇われた浪人が太刀を抜き、火の前で叫ぶ。

 しかし平八郎の側の若者たちも、竹槍を握って押し返した。

白川清之助は刀を振り払いながら、平八郎に叫んだ。

 「火が広がりすぎる! これでは町が――!」

 平八郎は血のついた袖を握りしめ、火の海を見つめた。

 「これが、焔だ。」

 唇がわずかに震えた。義の焔は、すでに誰の手にも収まらない。

蔵の奥で、火薬樽が破裂した。

 轟音とともに火柱が天を刺す。炎の赤が、曇天を夜のように塗りつぶす。

 町の裏路地を走る母子、泣き叫ぶ老婆、遠くで太鼓を叩く町役人の声。

 ――この火は、正義か、ただの暴か。

 平八郎の耳に、父の声が遠く響いた。

 ――義を為す者は、民をもって天と為す。

 「先生……!」

 血まみれの若者が、平八郎の袖を掴んだ。

 「先生! 官軍が来ます――このままでは――!」

 遠くから銃声が聞こえた。

 官軍――幕府の鎮圧隊が大坂に突入したのだ。

 火の粉の中で、平八郎は白川清之助と背を合わせた。

 「大塩……終わりだな。」

 「……いや。」

 平八郎はゆっくりと刀を鞘に収めた。

 「義は終わらぬ。俺の焔が消えても、民の胸に残る。」

 火の粉が雪のように降りしきった。

 そのとき、裏手に駆け込んだ従者が顔を伏せて言った。

 「旦那様……奥様と坊ちゃまが……」

 血の気が引く声だった。

 平八郎は何も言わず、炎の中を走った。

 屋敷の奥座敷には、満寿と格之助がいた。

 白壁には赤い光が揺れていた。

 「……父上。」

 幼い声が、小さく笑った。

 「火が……きれいだね。」

 満寿は息子の頭を抱き、平八郎を見つめた。

 「あなた……もう……」

 平八郎は妻の手を握り、ひとつ深く息を吐いた。

 「共に――終わろう。」

 障子の外では、悪を焼いたはずの火が、街を飲み尽くしていた。


第5章


白壁が崩れ落ち、火の粉が舞った。

 奥座敷の障子越しに見えたのは、かつて町人が往来を行き交い、子らの笑い声が響いていた大坂の町ではなかった。

 赤い海がすべてを包んでいた。

 平八郎は座敷に座す妻と子を前に、白刃を膝に置いた。

 息子の格之助は、母の腕の中でまだ何も知らないまま、小さな手で父の指を握った。

 「父上……あったかい……」

 平八郎はその小さな手を包むと、目を伏せて笑った。

 「格之助……父は、間違ったかもしれぬ。だが、間違わずに生きる術を知らなんだ。」

 満寿は何も言わなかった。ただ微かに首を振り、夫の肩に額を寄せた。

 障子の外で、火の粉の中に足音が近づいていた。

 官軍の追手が、屋敷の奥まで迫っている。

 白川清之助の声が微かに響いた。

 「……大塩……もう……っ……」

 銃声が一発、土間を駆け抜けた。

 平八郎は刀を握った。

 義の焔は、すでに外の町を焼き尽くし、天へと昇ろうとしていた。

 「――父上は、義を信じた。

 この手は、民の手であった……」

 刀をひと振り、灯の揺らぐ畳に突き立てた。

 その夜、大坂の空に赤い炎が踊り、煙は空を裂いて海へ流れた。

 平八郎の屋敷が崩れ落ちたとき、すべての声は風に吸われて消えた。

 その翌日――。

 焦土と化した町の片隅に、老いた僧が膝をついて、黒く焦げた門の前に手を合わせた。

 「大塩殿……義は果たされたのか……」

 返事は無い。

 しかし、焼け跡の奥でひそやかに、ひとりの少年が父の名を呼んだという。

 その声は、炭の奥に埋もれた灯のように、小さくも確かに残っていた。

 春が来て、焦土に草が芽吹いた。

 町人はまた畑を耕し、子どもが笑い、米蔵は新しい梁を組んだ。

 だが、赤く燃えたあの夜を語る者は、密かにこうつぶやく。

 ――大塩平八郎の焔は、我らの胸に残る。



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