起起承転結
「なんで起きたら隣で美少女が寝てるんだ!?」こんな陳腐なハプニングごときじゃ、この茂上六雄を幸福に、などできぬだろう。
六雄は人生の一番落ち目の時期にあるわけではない。ましてや、人生というものを諦めているわけでもない。一時的な鬱状態に陥っているわけでもないし、女に興味が皆無というわけでもない。ならば、朝起きたら裸に極めて近い着衣をした美少女が隣で寝ているという男の夢を叶えたとしても、なぜ六雄は幸福になり得ないのだろう。それは、聞くも涙、語るも涙…。というわけでなく、その背景には、どこにでもあるありふれた物語がある。というだけ。
茂上六雄は、なんと二十歳。絶賛、恋愛などには微塵も関心を寄せずして、ある研究に心血を注いでいるよう。その研究とは、人の新たなる進化の模索。未来、待っていれば訪れるであろうそれを、茂上は今あるものを駆使して探しているのだ。なんと健気であろうか、なんと健康であろうか、なんという向上心であろうか。まあしかし、現状何も見つけ出せてはいないのだが。
四年前に始まったその研究では、自らの手首の隆々浮き出た静脈にスズメバチの毒を注入してみたり。モニターの脱皮殻を飲み込んでみたり、毎日川へ繰り出し朝から晩まで泳ぎまわったり、と、そんな感じのことを研究と称して日々試行していたのだが。命がいくらあっても足りやしない。と誰もが思うだろう。実際、六雄はもう、死と友達といった感じであり。というか、死に近づけば近づくほどに進化にも近づく、という持論もあって、命知らずの大バカ者らしく、日々生活費以外のほとんどを保険と医者に貢いでいる始末だった。
渕々病院の加藤という医者は、六雄のことをこう語る。
「六雄ちゃんはまったくもってかわいらしいよ。研究と称してあれこれ無茶をして、いつも苦痛に顔を歪めながらこの病院に運ばれて来るんだけど、その時の彼の情けない姿ときたら。もう病みつきだったよ。最後は確か、一年と、半年前くらい、水をたらふく飲んで溺れ死にかけて救助された六雄ちゃんを診たんだけど。顔は青ざめて、意識は朦朧としていたんだ。でも脳にも、臓物にも特に異常はなかったから、様子を見るのも兼ねて、病院で安静に寝かせてたんだ。そしたら彼、その日の深夜頃に目を覚ましたみたいでね。その目を覚ましたタイミングでちょうど看護師の大山さんが六雄ちゃんの病室に入ったもんだから、六雄ちゃんは驚き慄いて、極短く高い声で絶叫した後、気絶しちゃったんだって。」
加藤が思い出し笑いを始めたため一間空く。
「面白いよね。とっても。いやあ、その時僕が診に行っていればなあ。」
同様の理由で、一間。
「また会いたくなってきちゃったな。寂しさを思い出しちゃったよ。六雄ちゃん、その日の朝には意識が回復して退院したんだけど、その見送りの時に決意を込めるように拳を心臓の位置に当てながら、僕にこう言ったんだ。”無意識的な漠然とした願望じゃダメなことがわかったよ、先生。進化に必要なのはやはり、意識的な生命力の発揮なんだ…。だから…。だからね。救急車に運ばれたとしても、しばらくの間はこの病院にはたどり着かないと思う。そういうことだから、じゃあね。加藤先生。渕々病院。” …。そんなことをね。急に別れを告げられたことには、もちろん寂しいと思たけど。やっぱりな、っていう感嘆の方が大きかった。六雄ちゃんはいつかこの小さな町を出て行くんだろうって、会う度に感じていたからね。看護師のみんなもそれを聞いた時には寂しそうにしていたのを覚えている。…あれから一年以上か…。元気にしてるかな。死にかけてるかな。まあ、どっちにしても、僕は彼の研究に期待しているから、その結果の報せを、待つだけだね」
加藤医師の語りでは、彼の六雄への愛を感じられたが、逆にそれ以外の情報は毛ほどしか得られなかったはず。六雄が一年と半年前に渕々を出て、新たな研究を開始したようだということはかろうじて分かったであろう。それでは、六雄は今どこにいて、何をしているのか。
「僕、茂上六雄は、コンビニでアルバイトをしながらただ生きています。今は江尾に月二万四千円の1LKを借りていて、そこはおそらく事故物件です。おそらく、というか、もう確実に。…だから、コンビニは夜勤で、週七日で働いています。お昼だとほとんど怖くないので。はは…。」
六雄はため息を吐いて項垂れる。
「なんて惨めな、生活なんだろう。この一年、碌に研究に取り組めていない。それどころか、もういいや、なんて思い始めていたんです。この動画を今見ているあなたも、こんな僕に研究は無理だって、思ってしまうでしょうね。こんなほうほうと乱れた髪に、ニキビやら湿疹やらで赤くなったおでこ。髭は黒く太いのが生えているが揃っていないし、やけに高い鼻の頭は逆剥け、鋭い目尻が特徴の目の下には、シャドーかと思えるほどにくっきりクマがついてる。こんな見た目のやつにって思いますよね。…極めつけはこれですよ。この漆黒に変わった左手指。これは凍傷の名残で、世界で一番高いと名高いこの江尾山に、全裸で挑んだ結果です。全裸で挑みましたが故、実際のところこの指らだけじゃなく、身体の脂肪の多かった部位や心臓から遠いところなども所々真っ黒に変容して、足の指なんかは十本中三本は取れて、腰回りが軋むせいで寝るのにも一苦労だったりします。力が筋肉にうまく入らなかったりもして…。…はあ…。なんてことを…。」
六雄は顔を両手にうずめる。黒く変容した左手指が震えている。
「まあ、これでも軽傷で済んだ。というのがこの町の医者の見解でして、その顔にあざけ笑いすら浮かべず、淡々と仕事をこなすばかりでした。どうせなら笑って欲しかった、というのが、僕の正直な意思です。やはり、医者はあの加藤先生に限りますね。彼なら、かつてないほど死にかけていたあの時の僕を見ても、まず笑ったに違いないでしょう。…こんなことを言って、この動画が広まってしまったら、彼が誹謗中傷を受けてしまいますかね。まあ、それはそれでいいでしょう。とにかく、その江尾山凍傷事件から、およそ一年。僕は回復しました。後遺症は、こんな感じで残ってはいますが。進化すること、これができれば問題ないでしょう」
六雄はヒートテックの上から、薄いジャージを羽織った。その背後には、窓とその奥にベランダ。派手な色の下着と靴下、黒いダウンが干してある。入道雲が高く、陽炎に熱気を感じる背景だ。
「現在の僕は、内省というものに時間を費やしています。少し前まで、今まで当たり前にできていたことが困難になったせいで、とてつもなく心が疲弊してしまって、ネガティブシンキングに脳髄が支配されていました。その名残は、先の僕の発言からも感じられるでしょう。しかし昨日、いつも通り働いていたところ、ある一人の女性が、僕に話かけてきたんです。陰鬱な表情を浮かべて、うじうじと商品を棚に置いていた僕に。それは同い年くらいの若い女性で、正直に言うと、美しかったです。」
六雄はなぜかカメラ目線になり、目をぎらつかせた。
「一目ぼれだとか、嗜虐心を突発的に揺さぶられたとか、そんな理由じゃなく、彼女はあの江尾山凍傷事件を知っていたんです。その事件の当事者である僕に気づいて、何を思ったのか話かけてきたのです。その事件当時はこの町でも話題になったらしいし、僕のこの指は異様なので、今までに僕の正体に気づいた人も少なくありませんでした。でも、はっきり話かけてきた人というのは、この女性が初めてでした。子供と老人を除いて。」
六雄は右手の指でこめかみをぽりぽり掻く。左の眉の端がピクピクと痙攣した。ミンミンゼミが騒がしい。
「その女性は、始め丁寧に、私はあなたを嘲りにきたんじゃないですよ。といった物腰低い態度で、”こんばんは。もしかして、茂上六雄…さんですか?”と話しかけてきた。その後僕がまあ…というように冷たく返事をしてしまったので、彼女も僕に話しかけたのを後悔したような雰囲気を一瞬醸し出した気がしましたが、すぐに彼女は、”たまたま見かけて。…私茂上さんのあの騒動で、とても元気をいただいたので、…お礼を言いたくて…”と言ったんです。皆さんもお思いでしょう、ええ、僕ももちろん。そんなわけあるか、と。その時、いや今でも思います。そして、僕はそれがそのまま口に出てしまったんです。すると、”ほんとなんです。私もこの町に住んでいますし、いつか会えたら、お礼を言おうとずっと思ってたんです”と。僕はその時、彼女の表情を見て、あまり闊達そうな人ではないと感じました。だからこそ、彼女は僕に話しかけることに相当の勇気を振り絞ったのだということも分かりました。僕は顔だけでなく体も彼女に向けて、その勇気に応えるべく、次にこう言いました。”それはありがとう。それでは、どうぞ” 彼女はまたも後悔を醸し出したように一瞬硬直した後、気を取り直して気を振り絞るように体を震わせた後、”私は、私は…第一志望の大学にも落ちて、両親の期待にも、先生の期待にも応えられず、おじいちゃんも死んじゃって、他にも、色々上手くいかなくて…。私はこの人生で、一番落ち目の時期にいて…。死のうとも考えました。それが、一年と二か月前です。でもそんな時に、あなたの、茂上さんの言葉を聞いて、私は勇気をもう一度、いや、もう何度でも、振り絞ることができるようになったんんです。茂上さんは、凍傷で死にかけながらも、救急隊や医者の方達に、”俺はまだやれる、邪魔をするな。俺は進化する。俺は忘れないように己の胸と、故郷のみんなに誓ったあの目標を達成するまでは、死ねない” ということを言い続けたのでしょう。それは、私にはできないことで…。そんなことでって、思うかもしれないですけど、私は確かに、あなたのおかげで、今幸せです”」
六雄は後ろを向いて、涙を拭っている。三分ほどで落ち着き、振り返る。
「僕は、」
声が掠れて裏返ったため、古いエンジンのように喉を鳴らした。
「僕は正直、彼女が悪戯のために話しかけてきたんじゃないかって疑ってたんです。でも、彼女の、最終的に叫ぶように伝えてくれた想いの乗った言葉が、僕の心にガツンと衝撃を喰らわしてしまったんです。その衝撃は始め、喜びか、あるいは小さい充足のようなものでしたが、それはすぐに使命感に変化していきました。僕がそんな感じで感動しているせいで、その場には沈黙が広がるばかりだったと思います。その沈黙で、アッと思い出したように、彼女は、”ありがとうございました”と言ってくれましたけど。僕は放心しっぱなしで。不思議そうに僕の呆けた面を眺めていた彼女も、だんだんと心配になったようで、近づいてきて、大丈夫ですかと僕の肩に触れました。彼女の触れた部分は、水に触れるだけでも痛みがキシキシと這う所だったおかげで、僕は正気に戻りました。ハッとなって、すぐそこにいるはずの彼女がぼんやりとしか見えないことから自分が涙を流したことに気づいて、目を擦った先で、彼女の濡れている睫毛を見て、彼女も涙を流したことが分かりました。美しい瞳でした。こう話していると、己の使命だけでなく、彼女の美しさまでもが思い起こされますね。」
六雄は同意を求めるように、カメラに向かって頷いた。
「そのまま見つめ合って、照れくさくなって離れて、改めて挨拶をして別れました。これで僕と、名も知らぬ彼女とのロマンスは終わりましたが、僕の中には彼女と育んだこの使命感があります。彼女が僕に感謝を伝えたことで、僕のあの頃の情熱は返り咲きました。まだ、少々ネガティブの残穢が滞留していますが、吹っ切って見せます。僕は己に誓い、渕々病院のみんなに宣言し、見知らぬ救助隊に夢を叫んだ。昨日の彼女との一件があって、今それを噛み締めながら話していると、凍傷で狂った熱感知器官が呼び起こされたようになってきまして、なんだか熱いんです」
六雄はヒートテックを脱ぎ放って、露出した肩にジャージを被せた。
「うん…うん…。よし。湧いてきた。情熱。」
左の眉尻が痙攣している。ニヤリと笑っている。
「この動画を撮り始めたのも、逃げ場を無くすためでした。色々考えたって、つまらない日常が続くだけですし、僕なんかに感謝を伝えたいなんて言ってくれる人もいたわけで、それも僕の研究の結果ですから。やっとですよ、あの事件から、約一年。僕は身も心もボロボロになった。でも、それを望んでいた己を忘れていました。かつてないほどに自然を感じましたよ。ははっ…。忘れては、いけないものでした。自分だけは死なないと本気で思っていました。まあ死んではいないですが。…本当に俺は死ぬんだ、と思ったら怖くなってしまって、その恐怖に対して打つ手も無くて。そんなことをぐるぐると考え尽くして、彼女に……。」
六雄は上を向いて、椅子に深く反り返った。痛みを感じている素振りはない。
「そうか、一人じゃ駄目だったんだ。進化するには、俺一人じゃ……。」
上体を屈め腿に肘を置いて頬杖を突き、深く思考を巡らせているせいか目が左右に行ったり来たりしている。そして顔を上げてアッと口を開くと、忽ちニヤリと微笑を浮かべた。
「進化の定義が、また増えるかもしれません。これはディスカバリーですよ。早速検証したいところですが、まず協力者を探さねばなりません。この動画、主に自分で見返すために撮り始めましたが、これを動画投稿サイトにアップロードします。協力者探しのための飛び道具です。ええ、はい。ということで、協力者を、募集します。私の研究、人の進化の模索を手伝ってくれる人を。女性限定です。いや、まあ、男性でも。どちらでも大丈夫です。この動画にコメント、では、危険ですね。概要欄に、僕のSNSアカウントを載せておきますので、そちらまで。」
六雄は一息ついたように、長い息を吐いた。そして左手をぎゅっと結んで拳を作り、それを心臓の辺りに添えた。
「今日。2025年 7月 20日 13時。新しく、始めます。そして、進化します。いつか必ず。これを見ているみんな、俺はここにいるよ」
動画は終了。彼の未来は、煌めいている。