74頁目「逃れられぬオブチキン」
「ゔっ!? おえぇぇっ!!!」
時は飛んで三月、春の訪れの季節。雪を溶かす息吹と同時にソレも訪れた。
激しい嘔吐感に襲われもう三回もトイレに駆け込んだ。胃の中身は空っぽだと言うのに、少し水を飲んだだけでも気持ち悪くなってしまう。
「マルエル、大丈夫めか……?」
「大丈夫に見えます……?」
「死にかけに見えるめ……」
「流石にそこまでではない」
妊娠検査薬なんてこの世には存在しない。だから妊娠したかどうかは何かしらの症状が現れてから初めて分かる事になる。
オレもフルカニャルリもほぼ同時につわりがやってきた。だがフルカニャルリの方はあまりつまりの症状はなく、時々吐き気を催したり匂いに敏感になる程度で済んでいる。
かたやオレは、つわりが始まってからというものもう何日間も激しい吐き気に襲われており、脱水症状で口の中はカラッカラで体重もかなり減少していた。
「生理はオレの方が軽かったのになんでつわりはオレの方が重いんだよ……ゔぉえっ!」
「マルエル!」
「声でかいんじゃ響くわ……」
「ご、ごめん」
こんなに体がガタガタになるくらい重い症状に襲われるとは思ってなかったからちょっとした事でもイライラしてしまう。
ヒグンはトイレで嘔吐くオレに駆け寄り、背中をさすってくれた。
「マルエル、ご飯は作ってあるけど、食べれそう?」
「ごめん。ゲロ還元率100パーすぎる、無理……」
「発言だけは余裕ありそうめね」
「空元気じゃ」
「そっか……少しでも食べれそうになったらすぐ言ってね。フルカニャルリは? 昨日はめまいが酷くなかったっけ。今日の体調は?」
「うーん……ちょっと眠いくらいであり」
「暖炉の前のソファーに毛布敷いといたから。部屋よりも暖炉前の方が暖かいよね。メチョチョが来たら付き添ってもらって、そこで横になっててね」
「め、まだそこまでしてもらうような時期じゃないめよ? ぼくは元気だし」
「フルカニャルリ」
「……わかった。心配かけてごめんなさい」
「フルカニャ! 暖炉に」「うるさいって声ぇ!」
「ひうっ!? ご、ごめんなさいまま……」
やべっ、つい怒鳴っちゃった。はあ……自己嫌悪だ。ホルモンバランスが終わってる感じがする、全然自分の感情を制御出来ない。フワッと頭が熱くなってすぐに辛く当たってしまう。
「はぁ……ごめんメチョチョ」
もうそこにメチョチョはいないのに独り言のように謝る。同じ境遇であろうフルカニャルリ以外の三人に強く当たってばかりだ。自分が少し辛い目にあったくらいでこんなに自己中になってしまうなんて、不甲斐なさすぎて涙が出てくる。
「はぁ……っ」
「マ、マルエル?」
「もうやだぁ……」
ズビズビ鼻水が出てきて涙も出てくる。もう嫌だ、しんどい。もう一ヶ月くらいこのザマだ、腹も少し出てきたのに全然愛おしく思え……いや、流石にそんなことは無いけど、でも辛さが圧倒的に勝ってる。
辛い、しんどい。家中が人の匂いと食べ物の充満していて臭いし溜まったもんじゃない。オレの居た現代のように優れた消臭剤がないから余計に地獄だ。イライラする。
「ごめんね、ヒグン……ゔっ! うぅぅ……っ」
「あ、謝ることなんかないだろ。僕の方こそ、あまり力になれてなくてごめん」
「なってるだろぉ……っ。みんなオレの為に色々してくれてるのにっ、全然オッ、おぇ……うぁぁっ! オレの体が、ポンコツなせいでっ……ごめんなさい……オレがっ……!」
申し訳なさに耐えかねて謝罪の言葉を口にする。そうしている間もずーっと気持ち悪さは喉奥に控えていて、油断するとすぐえずいてしまう。
優しさに唾を吐くような事ばかりしているから謝りたい。ちゃんと皆に個別に頭を下げたい。けれどこんな状態じゃ、皆とロクに顔を合わせることすら出来ていなかった。
こんなに重いものなのか? つわりって。男だった頃に人を孕ませた事無いから知らなかった、こんなの素直に言えば生き地獄じゃないか。インフルエンザにかかった時の方がまだ良心的な苦しみだったぞ……。
「ヒグン、もらってきたよ」
「! ありがとうファウナ!」
「うん」
? ファウナがどこかに買い物に行っていたらしい、おつかいかな? まだまだ寒さは残るのによくもまあ外なんて出歩けるな。雪解けの時期は一番道が滑りやすくなってるだろうに。
「マルエル、これを飲んでくれ」
「? ……薬を飲ませんのはあんま良くないぞ」
「薬じゃないよ、栄養素の結晶だよ。僕だって色々調べたんだ、食べ物を食べられない時は」
「長い。あっ、…………ごめ」「ごめん。とにかくこれを飲めば栄養を補給出来るからさ」
ヒグンが銀の入れ物からコロコロと金平糖のようなものを出した。それを受け取り、持ってきてくれた飲水で何とか喉に流し込む。
「ふぅっ、ふぅ、ふぅ……ふぅ……んっ……ありがとう。ごめんね、二人とも」
「んーん。マルエルはわるいことしてないでしょ。あやまらないで」
ファウナが優しい声音でオレにそう言う。なんかその優しさが染みてまた涙が出てきた、脱水症状起こしてるから体内の水は温存したいのに……。
「今日はお風呂入る? 体洗うよ」
それはヒグンからの提案だった。
前まではただのセクハラ目的の言葉なんだと分かって、怒りながら拒絶していた。
が、今のヒグンはそういうふざけた感じの事を家の中でしなくなった。二人同時に妊婦を抱え込んだからそんな事する余裕がなくなったのだろう。
オレもフルカニャルリも、落下したらダメという事で新たにヒグンが落下しないよう手すりが付いたベッドを二つ買ってくれた。常にオレとフルカニャルリの体調を気にしていて、睡眠時間も削っているらしかった。
男として出来る事を全部しようという気概を感じた。フルカニャルリは「過保護であり。動物的には不自然め」と言っていていたが、そこで初めて意見の衝突が起きていた。
ヒグンはちゃんとオレとフルカニャルリの事を大切に思っているんだと伝わった。
だから安心して身を任せられる。のだが、体力の低下によって全然風呂に入る気が起きない。もう風呂に入らず三日目、臭いだろうなとは思っているものの体がしんどくてそれどころじゃなかった。
……。
いや、でも入った方がいいよな、さすがに。ゲロゲロしまくってるし。
「………………入る」
「! わ、わかった!」
立ち上がろうとしたらヒグンが体を支えてくれた。でも今のオレは不潔だ、離れてほしくて押し退けようとしたが全然ビクともしなかった。それに、ヒグンも全然そんなの気にしないような様子だった。
「……うっ、ううぅぅっ!」
「こ、今度はどうしたの? 痛い所でもある?」
「ううぅぅっ」
優しさで胸が痛いと言いたかったが、鳴き声に潰されてヒグンに伝える事は出来なかった。
*
「湯加減どう?」
「気持ちいい」
「よかった」
マルエルの体を洗ってやって、あまり温度が高いお湯は妊婦さんの体に良くないと聞いたので、普段よりも低めの温度に調節したお湯を張った。
「……ごめんね」
「うん?」
「面倒かけてごめんなさい。オレ、本当ダメダメだよね」
「そんな事ないよ」
「……」
マルエルの表情は暗い。お腹の膨らみが分かるようになる前から、彼女はこんな感じだ。
色々聞きこみ調査をしたら、マルエルの症状はつわりの中でも特に辛いものだったらしい。
フルカニャルリが言うには、マルエルの体内に存在する活性化の魔力が、胎児には良い影響を与えているもののマルエル本人にとっては変化が性急すぎて対応しきれていないのも重症化の一因を担っていると言っていた。
著しく体調を崩すようになってから日を増す事にマルエルの性格はキツくなっていき、それを本人も自覚して自己嫌悪で悲しみ泣く日々。目に見えて痩せているし、元気が無いし、とにかく今のマルエルの姿は痛々しくて仕方がなかった。
彼女を見ていると、何だかこちらまで悲しくなって泣いてしまいそうになる。マルエルはきっとそれを見て余計に悲しい思いをする、だから耐えているが。
これ以上彼女がやつれる姿は見たくない。……早く元気になってほしい。
「……早く産まれるといいな」
「そうだね」
「名前、何にしようか」
「あはは、まだ早いんじゃないかな」
「……こんなクソしんどいつわりを寄越してきたんだ、バイキンマンとかにしてやろうかな」
「どことなく嫌な感じがする名前だな……却下で」
僕がそう言うと、久しぶりに彼女はあははって笑った。
「ねえ、お腹触ってもいい?」
「まだそういうやり取りする段階じゃねぇんだが」
「ダメ?」
「いいけど」
マルエルに許可を得たので、お湯の中から彼女のお腹に触れる。確かな膨らみ、その下に生命があるのは分かるが、まだ胎動は感じない。小さな命だ。
「胸、また大きくなったね」
「腹触ってんのに胸の感想かよ」
「目に付いたもので」
「基本胸しか見てないじゃん。妊婦なんだし、そりゃでかくもなるよ」
「母乳は出るの?」
「お前……まだ出した事は無いよ。出ないんじゃない」
「搾ってもいい?」
「手加減無しに殴っちゃうけど」
「やめときますね」
脅かされたので両手を上げて無力を示し、風呂から上がってマルエルの体を拭いて服を着替えさせた。
「風呂入ったら眠くなった。どうせまたすぐに気持ち悪くなるし、私もう寝るわ」
「それなら僕も寝よっかな」
「まだ昼ですけど」
「一緒に居たいんだよ」
「……っ。う、嬉しいけど、フルカニャルリと居てやれよ。アイツも妊婦なんだぞ?」
「メチョチョとファウナがいるよ。それに、寂しくなったら溜め込まず素直に僕に言いに来るだろ。そうでなくても、寝静まったら向こうにも話に行くさ」
そう説明すると、マルエルは僕に体をひしっと付けて腕を自身の顔の側面に押し付けた。
「……一緒に寝るなら、起きる時も一緒に居てくれないと嫌だ。起きた時悲しくなる」
「そうなの?」
「……キモい?」
「キモくないよ。それだけ好きって事だろ? 嬉しいよ」
部屋に着いたので扉を開け、新しく買ったベッドにマルエルを寝かせる。隣にある、以前までマルエルが使っていたベッドには僕が入り、こちら側に近付いて寝転がっているマルエルに身をくっつけた。
「いいねえ。部屋の中もそうだけど、このベッドめちゃくちゃマルエルの匂いがするよ」
「嗅がないでもらっていいですか」
「いやあいい匂いだ、甘い匂い。エロいな」
「深呼吸辞めてもらっていいですか」
肺の中にパンパンになるまで匂いを堪能していたらマルエルに睨まれた。大人しく横になる。
「……みんなこうなんかな」
小さな声でマルエルが呟く。
「自分の体を刺したり、自殺したりもするけど、その時よりもずっとしんどい……メンタル終わって、すぐ怒ってすぐ泣いて、これじゃクソだるい女じゃんオレ」
「そんな事ないよ。マルエルは頑張ってるよ」
「頑張ってないから弱音吐いて当たり散らしてんだろ……フルカニャはすごいよ。お前も、アイツの方がいいだろ」
「どうして?」
「ノリ軽いし、楽しい事もエロい事も全力で楽しんでるし、愛嬌あるし、愛情表現が実直だし。手もかからないし。良い女じゃん。オレ真逆じゃん、地雷じゃん」
「ナイーブだなぁ」
「だってそうなんだもん」
「マルエルだっていい女だよ」
「どこが」
「僕らの中で一番しっかりしていて、メチョチョやファウナの世話を率先してやってくれるし困ったらすぐに手を貸してくれるし。皆のフォローが出来るように空いた時間に色んな勉強をしたり、依頼の下見とかもしてくれ」「もういいよ! もういいです!」
毛布の下から手を出してマルエルが僕の口を軽く叩いてきた。
マルエルは人差し指の腹で僕の頬を触る。指で摘まれて伸ばされる。
「なんへふか」
「変な顔」
「笑いながら言ってね。真顔で言われるとブス扱いされてるみたいだ」
「私面食いだから、ブスだったら顔触んないよ」
「嬉しいけどあんまり良くない発言だな」
顔から手を離して、彼女は僕の胴体に手を回し身を寄せてきた。ピッタリくっついてきて毛布から体が出ていたので、ちゃんとマルエルの体が毛布に被るように直す。
「妊娠中って、嗅覚が過敏になってるんじゃなかったっけ。大丈夫?」
「……今は大丈夫」
「風呂入った後だから大丈夫なのかな」
「多分。……自分勝手なお願いしてもいい?」
「うん」
「今は大丈夫だけど、普段は少しキツイから。……もし良ければなんだけど、しばらく肉食と酒飲むの控えてくれたら、体臭抑えられていいかも……分かんないけど」
「! そこまで気が回ってなかった、ごめんよ!」
「いい、こっちが癇癪起こしてるだけだし」
マルエルは体を洗って体臭が抑えられたであろう僕の体を少し強く抱きしめると、そのまま大人しくなった。
「……ヒグン」
「うん?」
「…………ゲボ吐いたらごめん」
「んー……まあ、仕方ないよね」
眠りに落ちる前、マルエルは僕に不穏な事を言った。まあ、今までの彼女を見ていたら不意に吐き気を催して嘔吐してもおかしくは無いしな。そこはそれ、仕方がない事だろう。
……ゲロ袋、なんてここには無いか。ゴミ箱の位置だけ把握して、僕も目を閉じた。




