#1 内覧
右手に足柄山地、富士山、遠くには伊豆大島。左手に古くから景勝地として親しまれる江ノ島、三浦半島を捉えられる片瀬鵠沼海岸。
海以外にも見所十分な海岸沿いから鵠沼地区方面へ十五分歩くと蔦で覆われた洋館が現れる。
人が住んでいる様子はなく、不気味にも思える洋館。立派な門構え、そして車寄せや広域な庭がある様子から貴人が住んでいたのであろうと噂されている。地元少年少女らは挙って「お化け屋敷」と呼び、地元限定の有名スポットと化している。
ところが平日の昼間。スーツ姿の男と老夫婦が閉ざされ続けてきた門を開くと、邸内へ足を踏み入れた。ペットの散歩中の淑女は思わず、歩を止め、錆びた門が開く様子をまじまじと凝視していた。何とも珍しき故である。どうも老夫婦が邸の主ということなのだろう。
維新後の湘南では、男爵松本良順軍医総監が海水浴は健康に利すると提唱し、「湘南」発祥の地である大磯町には海水浴場が開かれ、以降大磯は別荘地、高級住宅地として名高い地となった。
ここ鵠沼も大磯(大磯は狭義には「西湘」とされる)と並んで湘南有数の別荘地・高級住宅地として知られているのだ。別荘分譲地として財を為した者や高貴たる上流階級、政治家、高級将校らにひと際人気であった。
鵠沼の土地の経緯から老夫婦は上流階級の出身であるに違いなかった。
埃が舞い、やや黴臭さが蔓延する邸内だ。進み入る三人は口を片手で一旦覆う。外界とは離別された古臭さ漂う空気であった。
「城ヶ崎さん。やはりご立派な造りです。写真撮影させていただきます」
スーツ姿の男が老夫婦に呼び掛ける。
「そうですかな。ここ最近、見ての通り手入れは行き届いておらず、お見苦しい物ですが、構いません。どうぞ」
老主人の城ヶ崎政輝は応じる。スーツ姿の男即ち市の職員であった。まるで洋館は歴史的建造物とでも云いたいのか、職員は目を輝かせながらカメラのシャッターを切る。職員は栄華を誇った「華族」の往時を偲ばせる洋館に感動しきっている。
城ヶ崎政輝。齢は八十前半。旧男爵家の三つ子の末子の生まれである。この度、遅いやも知れぬ「終活」の一環として、別荘を市に譲ろうと検討していた。蔦を纏う洋館は旧華族の別邸であったのだ。
「関東大震災と東日本大震災の二度の震災で跡形もなく崩れるのではないのかと思いましたが、どうにかこうにか手を加えつつ何とか耐えている現状。関東大震災の頃は勿論私は生まれている訳ではないですが、多少なりとも損壊部があったようだと聴いております。云ってしまえば旧いので、私がまだ生きているうちに自らの手で処分を下したいと兼ねがね思っておりました。思い出はありますが、煮るなり焼くなり何なりとネ」
「いやいや、恐れ多いです」
職員は笑うが、城ヶ崎の言葉の端々にはどこか寂しさが感ぜられる。妻のユリアが旦那の横顔を見つめる。手つかずと云っても幼年期の屋敷を失くすのは本当は寂しいだろうに……。
ユリアは日本へ亡命し鎌倉に移り住んだ白系ロシヤ人の家系だ。若い頃は亡命ロシヤ人で「日本バレエの母」エリアナ・パヴロワが鎌倉市七里ガ浜に開いた日本初のバレエ教室にも通っていたことがある。
常々、市は旧男爵家の別邸を譲り受けたのち、現状の一般公開や史料館として再活用を検討したい、と城ヶ崎家に要請していた。城ヶ崎家は長男・輝永、長女・貴美子、そして次男の政輝の三兄弟による話し合いで三者が生きているうちに始末しようとの結論に至ったのであった。
各々、先が短い命を悟り―――。
「こうも閑静な住宅街に史料館とか人が集まるのはよくないでしょう。ご近所様にご迷惑かからないかしら? なにせ私たちも近所に住んでいるものでやや気がかりなのよね。藤沢市市内に歴史史料館や博物館の類は無いので、何回かこの洋館を活用したいとのご説明いただいたので私も理解しているけれどね」
城ヶ崎夫妻は今も猶、鵠沼に住んでいるという。
「えエ。全く奥さまの仰る通りです。地元住民の方々への配慮、懸念はされるべきです。我々、市と致しましても活用の路を複数計画しております。実は申し上げますと市内の別の地に移築して公開という計画もありまして……。この辺りは歴史的にも近代日本のエポックを彩る一つなのではないかと思います。東京の方では高橋是清邸も移築を重ね、公開されておりますから、それに乃木希典邸も保存されているみたいですし」
「なら安心だわ。公的機関だけあって考えているのね」
ユリアは胸を撫でおろす。再度、隣に立つ政輝の横顔を見る。夫の表情には「寂しさ」を垣間見れないが、どうなのだろうか。
「お二階も拝見したいのですが、よろしいでしょうか?」
「そうですね。まア一階は見ての通りで、台所や食堂と、今我々が居るのはリビングかな。それに浴室、応接室、それに化粧室だなんて珍しい部屋も作ってね、あとは洋式トイレくらいか。二階に行きましょう」
階段は一歩一歩軋む。脆さを足音で確認できる。家は人が住まわなくなると、ダメになる。空気の入れ替えはなく、朽ちていく一方である。
「階段は危ないかもしれないネ」
二階に上がると、政輝は後頭部を掻き、苦笑いを浮かべる。階段には底抜けしそうな怖さがあった。
「確かに軋むというか、階段の木材がやや脆弱やもしれません」
と職員は云うと、メモを書き記し始めた。今回の内覧が初めてということなので、次回以降の注意事項として特徴や気になる点を活かす為であった。
「一番奥の部屋が父の書斎だったかな。男爵と云っても、お公家さんや領主階級の出ではないので、いわゆる生粋の貴族じゃない、成り上がり華族みたいなんです。祖父はよく分からないのですが、どうも商いで立身出世していたようで、父は一応は軍人で、陸軍大佐の身だったんだよ。軍事の本ばかり読んでいたのかもしれないし、思いの外、文豪の本も読んでいたのかもしれない。私なんかあの頃洟垂れ小僧で、よく廊下をドタドタと走り回っていたら「コラ、コラ」と云われたものだなア」
一一、思い出に耽るので政輝の説明は長ったるいくらいであった。寝室がどうの、客室がどうの、ここの部屋には映写装置が設置されていて家族や友人らで映画を愉しんだ、だのと幼少期という僅かな短き家族団欒の思い出を政輝は脳内の片っ端から引っ張り出していた。
職員も面倒くさいような素振りを一つも見せないどころかユリアと共に笑って話に応じてくれている。
猶のこと政輝の話に余計拍車がかかってしまう。洋館は電気が通っていない為、部屋に灯りが入ってこないと内覧は強制終了しなくてはならない。思い出にいつまでも悠長に浸れるほど時間は無制限ではないのだ。
「おっと、もうこんな時間だ。暗くなってしまう前に撤収、撤収。私の無駄話ばかりで失礼いたしました」
政輝は腕時計に目を遣る。時計は夕刻を示していた。
(自分の話が内覧を阻害してしまったのではないか……これはイカンなあ)
政輝はやや後悔の念を募らせる。
洋館を出た三人が門前に到ると、ユリアは「ごめんなさい。主人が無駄話ばかりで進まなかったでしょうに」と職員に詫びた。
「いえいえ。とてもご主人が懐かしむ話ばかりで大変、有意義でしたよ。邸内拝見につきましては、元々複数回に分けてとのことでしたからお気になさらないでください。又、今後ともよろしくお願いいたします。次回は担当課の者を複数名で訪問させていただきます。また日程調整等含めましてご連絡差し上げます」
「いやア悪かった、悪かった。私がつい話をしてしまってネ。では今後とも宜しく頼みます」
別れの言葉を交わすと、市の職員は駅の方面へ歩き始め、政輝は無言でスタスタと國道百三十四号線方面へ歩み始めた。
「ちょっと貴方。どこへ行くのよ」
ユリアは置き去りににされたような気分で、政輝を引き留める。
歩を止めた政輝はユリアの方へ振り返る。
「あゝ海だよ。今日は天気もよかったし、綺麗な夕日でも見ようかなと」
と云う政輝は、右手の人差し指を伸ばし海の方向を示す。
「ふうん。貴方、本当に海が好きね。ヤレヤレ」
目をつむり、ワザとらしく両手を顔付近の高さまで上げたユリアは顔を横に振る。昔から海、特に湘南の海が好きという政輝に呆れた様子を見せた。
すると政輝はユリアに近づくなり、腕を組み始めた。
「私にとってはいつものことだよ。海岸は散歩コースなのだから。最近ママも引きこもりがちなんだから散歩に付き合ってくれやしない。そんなことしないでさ。日が暮れてしまうよ。さア行くぞ」
思わず「えっ、ちょっと! 何するの。恥ずかしいわよ」とユリアは小声をあげる。
(そうそう、この感じ。あの日も確か鵠沼海岸だったかしら……)
半世紀以上前の初デートの頃を思い出すかのように胸は高鳴り、ユリアは頬を紅潮させていた。