VS 足し算の世界
「ようこそいらっしゃいました。私はノースタッド修道院のグレースと申します」
深々と頭を下げた娘は、良いと言うまで顔を上げない。その頭上に、ぴんとたった大きな三角の耳。目立った属性はそれだけなので、言葉や礼儀がしっかりしているとはいえ隠遁者というわけではない。
「出迎えご苦労。顔を上げて構わない。さっそく中を見せてもらいたい」
使者として赴いたのは、ノリス子爵。北の辺境伯の親戚筋の40がらみの役人だ。二人の娘に何とか良縁をと駆け回っていたところ、王の側近が修道院への使者を探していると聞いたのだ。少しでも良い伝手を得る機会と、立候補したものの、気は進まなかった。
彼は取り立てて差別意識が強い方ではないつもりだったが、それでも修道院というと、不衛生でうらぶれた、退廃的なイメージがあったからだ。
ところが、どうしたことだろう。
建物は古びてはいるもののよく修繕され、先ほどから廊下にはゴミ一つない。代わりに何かの資材らしきものが行き止まりに積んであったり、梁に薬草がかけてあったりはするのだが。
そして、目の前を歩く案内役の娘は、よくとかされた銀髪に清潔なワンピースを着ている。
やはり目に見える特性は、銀髪の間から生えた三角の耳だけだが、それはなんの耳だろう、猫に似ているがたいそう大きい。ふっくらとした頬と血色のいい唇は健康そうで、栄養状態の良さがうかがえる。ノリス子爵は、自身の親指の先ほどの小さなブタ耳を神経質にひくつかせた。
「避難者の治療はこちらの聖堂で行っております」
案内された部屋は、聖堂というには簡素な作りだった。ただ、広めの……ノリス子爵の感覚で言えば、自室と寝室の壁を取り払った程度の広さの空間に、今は所狭しと寝具が並んで傷病者が寝転んでいる。それらは比較的新しく清潔そうで、子爵の護衛騎士たちに、軍の病院を思わせた。怪我人以外に居合わせた数人が、一行の登場に気づいて立ち上がり、深々と頭を下げている。その手元には、新しい包帯や薬らしきものが置かれている。
「これらの寝具や医薬品はどこから手に入れたのかね?」
ヤコンで事件があったのは、1週間前のこと。しかし困窮した修道院がこれだけのものを用立てるのは難しいはずだと、ノリス子爵は訝しんだのだ。
案内役の娘はすらすらと答えた。
「寝具は布類のみ急きょ買い求めました。中身はただの干し草ですので、私どもの蓄えでも何とかなりました。薬はほとんど、院内の農園で育てているものです。とはいえ怪我人の数が数ですから、かなりの量が必要ですので、そろそろ買うしかないのですが」
ノリス子爵の眉が上がる。
「ほう。お前たちには、蓄えを作るほどの余裕があるのか?そもそも何で稼いでいる……まさかと思うが、後ろ暗いことではあるまいな?」
娘の耳がぴんと立った。大きな耳が自分に向かって直立しているのを見ると、ノリス子爵は妙な緊張感を感じた。質問をしたのは自分なのに、何故か呼吸のタイミングから一挙手一投足まで聞き取られているように思えてくる。
「恐れながら申し上げます。私どもがもしも後ろ暗いことに手を出していたならば、この度避難者を受け入れはしなかったでしょう」
娘の声はあくまでも淡々としていた。そのため、子爵は少し気を取り直して、言いつのった。
「確かにな。しかし、善行が悪行を隠すための偽りであることも多いであろう」
そのとき、娘の瞳が一瞬光った気がして、ノリス子爵はぎょっと瞬きをした。しかし改めて凝視してみれば、それはなんの変哲もない灰色をしていた。彼女は表情を変えずに、小さく一つ息を吸って吐くと、こう続けた。
「失礼いたしました。子爵様のお考えが私ども下々の者に理解できるはずもございませんでした。それでは、先ほどのご質問については、私どもの仕事場をご覧になって、子爵様方がご判断下さいませ」
そんなわけで、子爵は聖堂を後にした。もともとこの視察の目的は、被害の確認よりもこのノースタッド修道院の内情調査なのだ。
先ほど資材が置かれていた突き当たり近くの部屋に案内される。
「こちらでは、院内で使う細かな道具の他に、市場に卸す装身具などの加工を行っております」
中には小柄な老人が一人と、目つきの悪い短髪の青年が一人。今は二人とも立ち上がって頭を下げているが、羽はおろか耳もしっぽも生えていない。
「顔を上げてよい」
「バート。ノリス子爵様に、今作っているものをお見せして」
目つきの悪い青年の方が、ちらりと娘を見て、作業台に手を伸ばした。そして手にしたものを無言で娘に突きつける。その粗野な動きや彼らの体を覆う汚れたエプロンも、子爵を呆れさせる。
それに、普通の職人は己の獣の耳や目を駆使して素材の性質をつかんだり、魔法で研磨したりする。多くの属性を使いこなす必要がある。
それがどうだ、魔法が扱える印も他の属性もないの彼らの作る装身具など、見る価値もないに違いない。そう思いつつも、娘が丁寧な手つきで差し出すので、一応ちらりと目をやった。
「……ほう」
薔薇の模様に彫り込まれた赤い石だ。ペンダントトップのようで、上部に穴が開いている。しかし、と子爵は眉を寄せた。
「彼らに魔力は無いようだが、どうやって加工したというのだ」
「手です。手先の感覚で彫るのです。石はラグラス産の2等級魔石です。こちらでは磨きと彫刻を行っています」
ラグラスは魔石の一大産地だ。子爵の眉間のしわはますます深くなる。
「そんなはずはない。あそこの石は高いぞ。それに、2等級魔石ならば加工の段階で橙にまで色落ちするだろう」
「等級落ちがおきるのは魔力で加工する場合の話です。また、私たちは出来るだけ仕入れ値を抑えるため、直接買い付けに参ります」
「馬鹿な。ノースタッドからラグラスまでどれだけ離れていると思っている」
「院内にとても速く飛べる者がおりますので」
「何を言う。そんなに力のある者なら、こんなところで暮らすはずがなかろう!」
子爵の『こんなところ』との発言に、バートと呼ばれた青年と老人の目つきが鋭くなる。しかし、娘は全く動じずにっこりと笑った。
「それでは次にその者をお目にかけましょう」