引けない話
王子は再び現れた。今度は、男爵を名乗って。
男爵のはずが帽子で犬耳を隠し変装をした王子が登場したので、修道院はまたしても大騒ぎになった。
その夜、グレースは作業場を訪れた。夕食に現れなかったバートを探して食事をさせるよう、モリーナから指令が下されたのだ。ベンやバートは職人体質というのか、作業に集中すると寝食を忘れる困ったところがある。バートとぎくしゃくした状態は続いているが、モリーナの指令は誰にも断れない。
ところが、作業場は真っ暗だった。
「バート?いないの?」
ランプがついていないことに不在を疑いつつも、他に当てがないので一旦中に入ることにした。
グレースは、片手で器用にお盆を支えつつ、扉を開けた。
「……なんだ、驚かせないでよ」
返事もなかったが、夜目の効くグレースは、暗い隅の床に寝転んだバートの姿を見つけた。バートの方からは外の月明かりでグレースの姿が逆光なのだろうか、片手を目元に翳して目を細めている。何で来た、という微かな呟きを耳が拾った。
その声に、ただ気まずいというよりも、何か落ち込んでいるようだ、とグレースは思った。
努めて普段通りに、しゃべる。
「ご飯持ってきたの!何してたの?もうみんな、食べ終わっちゃったじゃない」
カタンとスープとパンの載ったお盆を机に置く。机といっても、作業台に食べ物を置くとベンとバートが怒るため、木箱をグレースが持ち込んで、それをバートが塗装したものだ。
「勿体ないから、ちゃんと食べてよ」
促せば、バートはしぶしぶといった様子で起き上がった。彼もひもじい生活を知っている。食事の時間を忘れることはあっても、目の前の食べ物を粗末にすることは、決してないのだ。
しかし。
グレースが作業台の上のランプを灯していると、いつもなら食べ始めるバートが、今日はこう言った。
「お前、もう行けよ」
「え?」
驚いて振り向くと、バートが立ち上がって、険しい顔をしていた。
「何で?」
「……こんな時間にこんな暗いところ、入ってくるなよ」
「なに言ってるの?いつものことでしょ?」
「だから。もう今までのつもりで近寄るなって言ってんだよ」
その言葉には明確な拒絶があった。今までケンカは数え切れないほどしてきたけれど、こんなことは一度もなかった。だって、修道院で暮らし続ける間柄では、本気で近寄らないなんて不可能だという暗黙の了解がある。グレースは頭にバケツを落とされたようにくらくらした。
「……もうって、なに?何でそんなこと言うの?」
「出てけよ」
「何でよ」
脳裏に、ピンクのツインテールがちらつく。
彼は答えの代わりに、扉を開けて追い払うように手を振る。グレースは一思いに泣きわめきたいような気持ちになって、その手を両手でぎゅっと握って抵抗した。すると、彼は本気で睨み付けてきた。
「ちょっとは考えろよ!王子に求婚されてる人間が、気軽に触るとか男と二人きりになるとか、外聞が悪いだろうがッ」
「はあ?!」
思いもかけない発言にびっくりしたが、ここで引いたら最後だという気がして、両手でさらにしがみつくようにした。するとうっとバートがうめいてよろめいたので、ごめんと思いつつも好機を逃さず扉を閉めた。
内側から扉にもたれるようにして仁王立ちしてしまえば、さすがにバートも追い出そうとするのを止めた。ただ、手が離れた隙に距離をとられてしまった。
その三歩ほどの距離が、途方もなく遠く思える。
「……で。王子がどうしたの?」
深呼吸をしてからそう聞くと、返事はすぐに帰ってきた。
「あの王子、お前のこと連れて行きたがったんだろ」
ああもう耳に入っていたのかじゃあこれはアイツのせいか、とグレースは脳内で王子を罵った。今日一日バートはずっと作業場に籠っていたから、王子の言動まで知らないと思っていた。
「そんなこと、言ってたわね」
「……なんでそんな他人事なんだよ?」
マクレガー嬢ではなく王子が原因らしいと知り、グレースの動悸は若干落ち着いたのだが、対するバートはいらいらと髪をかきむしった。
言葉選びを失敗したらしい。バートの考えを読むのは、いつも難しい。グレースは肩をすくめた。
「だって、どうせほんの思いつきでしょ?連れていくって、どこに行くのって話よね。王宮なんてあり得ないし」
このアリーナ国では、属性の多さは徳の高さでもあり、能力の高さでもあると考えられている。そのため当然、国の中心である王宮に集まる者たちほど属性が多く、そうして血統をつないできた中央貴族たちは属性へのこだわりが極めて強い。そんな中に、王子の行動とは言え突然、猫属性しか持たない修道院の小娘がのこのこついていったら、どうなるか。
「だから全部、本気にするまでもない戯れ言じゃない」
「でもお前、見た目に分かるのは猫耳だけだけど、目だって普通の猫の目超えて鑑定眼って言っていいレベルだろ。属性二つなら、修道院の外にも普通にいるぜ」
それはバートの言うとおりだった。
今のグレースがもつ属性は猫属性一つだが、その猫の目は、鑑定士のレベルまで鍛え上げられている。一般の鑑定士がかけている眼鏡をかけていないため、他所の人間はグレースに鑑定眼があることに気付かないが、全面に押し出せば本当は修道院の外でも迫害されないで生きることが出来る。
「それに、王子と結婚とかすれば、属性の数なんてあっちがなんとかするだろ」
「結婚?なんでいきなり結婚するのよ」
「だって、あいつ……まあ、いい」
バートは気持ちを落ち着けるように、一つ深呼吸した。あんまり深くて長いから、身体中の何をそんなに吐き出そうとしているのか、と心配になる。
バートの目は、暗い。ランプもつけたし、もう王子絡みの誤解は溶いたのに、とグレースは思う。思いながら、祈るような気持ちでバートの言葉を待った。
バートは、今度は浅く息を吸って、それから、何度か唇を開いては閉じて。
「ここは、好き好んで住む場所じゃない。お前だって、追い出されたからきたんだろ。……今が、もとの世界に戻る、チャンスだ」
グレースは、目をぱちくりした。
ああそういうことか、と随分いろいろなことが腑に落ちた。
「言ってなかったっけ。私ね、自分から出てきたの」
そうなんだ、とは言ってもらえなかった。意味が分からないという目をされたので、懸命に説明する。
「怪我で属性が一つしかなくなって、目が覚めた日の夜、私の部屋には、毒をあおる準備がしてあった。でも、私は全然絶望なんてしてなかったから。勝手に決めるなって、すごく腹が立って、家を出てきたの」
「……悪い」
毒の下りではっとしたように目を見開いたバートが、ぼそりと詫びた。反応が返ったことにほっとして思わず笑ってしまえば、今度はぎろりと睨まれる。
「ごめんなさい。でも、本当にその点は何も思っていないの。目が覚めたときに、もう生まれ変わったものだと思ってる。自分の姿がすごくしっくり来たし、この私を受け入れられない家族なんてこっちから願い下げだと思ったんだもの」
それで、換金できそうな小物を持って家を出た。途中で乳母が気付いて泣きながら手伝ってくれた。ノースダッドに修道院があると、教えてくれたのも、乳母だった。もっと劣悪なところだったら、病み上がりの元貴族の子どもなど、金目のものだけ取り上げられ邪険にされて死んでいたかもしれない。だからあの熊耳の乳母のことは今でも懐かしく思い出すが、実家に未練はない。ちなみになんとなく、あの乳母は、モリーナの血縁者なのではないかと思っている。尋ねたことはないが、どことなく顔立ちが似ているのだ。
「そうね、『もとの世界』っていうのがあの人たちのところなら、絶対戻りたくない」
そうか、と小さく返ってきた声に、もう一押しのつもりで付け足す。
「もしも修道院の外って話なら、外だの中だの言わなくていいくらいここをいいところにしたいって、ずっと思ってる」
そうして作業台に目をやれば、バートもその意図に気づいたようだった。皆で一緒に作り上げてきたこの暮らしが、グレースの望みなのだと。
バートがもぞもぞと片手で口元を隠した。これは照れているときや少しうれしいときの彼の癖だ。
それを見てグレースはほっとする。どうやら、バートはグレースがここに残りたがっていることを、歓迎してくれているらしい。
しかし、照れ隠しのつもりなのか、ここにいて良いという言葉の代わりに、バートはまだおかしなことを言い出した。
「……えーと。そうじゃなくても……ほら、あの王子は属性も多くて、美形だろ」
これにはちょっとがっかりする。『お前が王子と行かなくて嬉しいぜ』なんて言われるとは夢見ていないけれど、もう少し何かないのかと思う。
「そう?」
「ばか!そうに決まってるだろ」
「えー。それならバートのほうが全体的にきりっとしてて絶対いいし」
がっかりついでに気が抜けていたのもあって、深く考えずにそんなことを言っていた。妙な沈黙に目を戻せば、バートは目を真ん丸にして口まで開けていた。
途端に失言したと気付いて焦る。バートは、グレースなんかに異性として好かれても困るかもしれないのに。
「ご、ごめん!変なこと、言って……、わ、忘れて?!」
「いや……その、冗談だって分かってるから」
「っ」
違う。困られたくはないけれどそうではない、忘れてほしいのは本当だけど、でも、冗談なんかではない。グレースの思いとは裏腹に、バートは苦い笑いかたのまま、続けた。
「でも、お前、そういう冗談は、たちが悪いよ」
ばしん、と手が動いていた。
「何で冗談なのよ!?バートのばーか!」
子どもかという暴言付きのワケのわからない暴力で、バートの苦笑を無理やり崩して。そのまま走り去って、見張りの塔にかけ上って息を落ち着けて、ようやく、グレースは、自分が仲直りのチャンスを棒に振ったことに気付いたのだった。




