マーブル
絵筆にのった絵の具を、画用紙に叩きつけた。
それを混ざり合わせて、ぐちゃぐちゃにして、さらに混ぜ合わせた。
ベチャリと音を立て、歪んだ線が画用紙を覆いつくした時、私は自分の愚かさを思い知った。
心が壊れそうだ、そう思ったのは、そう気付いたのは、つい最近だった。
平穏で不安定な日々の積み重ねが、いつの間にか私の負担になっていた。
こんな日常がいつまで続くのだろう。
何も無い、何も起こらないささやかで慎ましい生活、めまぐるしく変わる時間、変化と安定が混ざり合った複雑な日々を、呪わしく思うのは、間違っているのだろうか。
この絵は、私の心そのものだ。
「市川さん」
放課後、私はだるい体を机に横たえたまま、クラスの人たちがいなくなるのを待っていた。特に理由は無いけれど、なんとなくそうしていた。
なのに、一人だけ帰らない。
私の名を呼ぶ声に、仕方なく机に突っ伏した顔をあげると、クラス委員の女の子――名前は忘れた――が立っていた。
「……なに」
抑揚の無い声でわざと返事をする。彼女の顔が一瞬歪んだのを私は見逃さない。
「研修旅行の部屋割り、あなただけ希望を出してないんだってね。先生に聞いて来いって言われたんだけど」
高校の入学式が終わって、すぐのことだった。
何のためだか知らないけれど、研修旅行なんてものがあるみたいで、クラスで適当にグループに分かれ、旅館の部屋割りを決めることになった。
四人ずつに分かれた部屋をABCDEのアルファベットに割り振り、自分の希望のアルファベットを紙に書いて提出するなんて、わけのわからない方法で、それは行われた。
私はどの部屋になろうがかまわなかったから、提出しなかったのだ。
いつの間にか、皆、すぐに友達を作る。友達同士で示し合わせ、希望のアルファベットを紙に書く。
そうした輪の中に入れなかった私が、アルファベットを書いて提出したところで、お邪魔虫になるだけだ。
「どの部屋でもいいって、先生に言っておいて」
「……市川さんて、どうしてそうなの」
彼女の目線は冷たい。自分と全く違う生き物を認めたくないと、そう訴えてくるかのよう。
「あんた、なに」
「なに、ってなによ」
喧嘩腰の口調でつっかかられると、面倒くさいという気持ちがもたげてくる。
私に関わるな、私に近寄るな、私に話しかけるな。
射殺すくらいの勢いを、目で訴えてやっても、彼女は動じなかった。
逆に、私よりも鋭い視線で、睨み返してくる。
「クールを装ってんの? かっこわるいんだけど」
しかも、平気でひどいことを口にする。
「なんでそんなこと言われないといけないの。あんたには関係ないじゃん」
「うざいんだよ。そういう、斜に構えた態度のヤツって」
クラス委員っていうのは、いわゆる『いい子』がなるもんだと思っていた。なのに、この子はどうだ。ヤンキーみたいな口調で、そういう奴らよりもずっとガンが効いてる。真面目ぶった黒髪も嘘くさく見えてきた。
何というのだろう、こういう女を。羊の皮をかぶった狼? ――ちょっと違うか。
なんだかおかしくて、ぷっと吹き出したら、彼女は不服そうに舌打ちをしてくる。
「なに、笑ってんの」
「ごめん。面白いなと思って」
――私は。
変化を恐れていた。
変わることで、日常の色が違う色に染められる日々が、怖かった。
けれど、どこかで何かが変わることを望んでいた。
矛盾するこの気持ちは、マーブル模様のように混ざり合って混在して、私は私の色を見失っていた。
変化は常に訪れる。
小学校から中学へ。中学から高校へ。過ぎ去る時間は、私の気持ちを置き去りにして、次々に歩みを止めず、翻弄される。
そして、惑う。
めまぐるしく動く、この苦しい時間が、変化を止めない日常が、変わらぬ日々が、重荷となって肩にのしかかって、崩れるように倒れたのは、私の、心。
どうして。
誰にでも訪れるものに、ビビる私は、どれほどの弱さを抱えているのだろう。
いや、そんなには弱くないはずだ。
弱くはない。――強くもないけれど。
「じゃあ、先生に市川さんの希望を伝えておくけど」
手にしたカバンを放り投げるように抱えて、彼女はハア、とため息をついた。
「一応、私の希望の部屋と同じになるように、言っておくわ」
「はあ?」
なんでそうなるの? そう聞く前に、彼女はニィッといやらしい笑顔を私に向けた。
「あんたみたいなヤツ、大嫌いだから。根性を叩き直してやる」
またもや、はあ? と思いっきり声をあげたのに、彼女はニヤニヤと笑うだけ。
「あんたの絵、好きなんだよね」
絵なんて、どこで――そう問いかけそうになって、口をつぐんだ。
選択授業の美術で、私は絵の具を叩きつけ混ざり合わせただけの、絵とは言えない絵を提出した。
そういえば、彼女も美術を選択していたのだ。
「心の叫び、ってやつ? 面白いよね」
なぜ面白がられなければいけないのか。
そう思ったけれど、言わなかった。
あの絵は、心の叫びだった。
置いていかれるこの思いをぶつけたら、あんなものしか描けなかった。
先生は「やる気がないなら、今からでもいいから他の授業に変えろ」と怒っていたけれど。
違うんだ。どう表現したらいいかもわからないから、あんな風にしか表せなかったのだ。
「じゃあ、また明日」
教室から出て行く彼女を見送りながら、不思議と気持ちが安らいでいった。
変わらないものなどない。
留まり続けるものなどない。
そして、歩みを止めなければ、いつかは追いつく。
変わらない日々も、変わりゆく日々も。
変化も安定も。
くり返しくり返し、巡り巡り。
マーブル模様に混ざり合う。
それも、もしかしたら、面白いものなのかもしれない。
明日。
彼女は、私に、何か仕掛けてくるんだろうか。
何もしてこないだろうか。
なんとなく、楽しみが出来たのを、私は少し喜んでいた。
久々に短編が書きたくて、本当に久々に書きました。
なんだかよくわからない話になりましたが、憂鬱になりやすい五月を迎える前に、ちょこっと考え方を変えられる、そんな物語になっていたらと思います。
ご意見、ご感想いただけると嬉しいです。