第三話『奥方』
ブラギの家は村の外れ、ここ数年で増設された領域にあるという。エルザは彼の背中を追いながら、色を変える葉と白い幹に彩られた、表通りを歩いていた。時期が時期だからだろうか、舗装された道の脇には落ち葉がたくさん積まれていて、焼き芋のひとつでもしたくなってくる。
ぴりり。
ふと、大気中に僅かな『痺れ』が紛れ込んだ……そんな気がした。はて、静電気かなにかだろうかと首を傾げたエルザは、すぐ隣でブラギがしかめっ面になるのを見た。うげっとカエルの潰れたような呻き声まで上げている。何か問題でも起きたのだろうか。
「いかがなされた、シュルツ殿」
「い、いや、ちょっとな……」
ブラギは誤魔化すように、歯切れ悪く対応してきた。
あっ駄目だこれめちゃくちゃ怒ってるやつだ、などと口走るのが聞こえた気がするのだが……聞き間違いでなければ、何かを恐れているとみえる。それも相当。
あの圧倒的な一撃を見せたブラギが、こうまでして恐れる存在とは、一体なんだというのだろう。
まぁ、何となく、予想はつくのだが。そう、この表情も昔よく見た。祖父が祖母の、父が母の話をしているときに、時折見せる青ざめた顔。
父上はこう言っていた。男にとってそれは、愛しく、大切で、なににも代えがたい守るべき存在であると同時に、ともすれば一般生態系・攻勢生態系両者の頂点に立つ最強の怪物、『龍王』よりも強大な、最も恐るべき存在なのだ、と。
果たしてその想い出からくる推測は、寸分たがわず正解を射抜いていた。
視界前方。白い柵に囲まれた、小さな畑を持った家。どこかコンパクトで可愛らしい印象を受けるその玄関に、一人の女性が立っている。
宵闇のような黒い髪。長く豊かなその髪を、彼女は首元と腰辺りで一度ずつ縛っていた。町娘風の衣服に掛かった側頭部の髪が、清楚な見た目にほんの少しの色気を差している。
夜明けを思わす琥珀の瞳は、淡い輝きを秘めていた。
その周囲に、ぱちり、ぱちりと青白い燐光が瞬いていた。先の静電気めいた感覚はあれの影響だったようだ。過剰魔力光……魔力の豊富な人や動物の感情、それが高ぶった時に時たま発生する自然現象だ。人間種族では、どちらかというとヒューマンよりもエルフなどによく見られる。こんなところでそれが可能な人間に出会うとは思っていなかったので、少々吃驚。
と、女性の瞳がエルザの隣、蒼い顔をしたブラギを射すくめた。びくり、と彼の方が震える。歩くスピードが一気に減衰、カタツムリもかくやというほどの鈍足と化す。
「せ~~ん~~ぱ~~い~~」
「ひいっ!」
怒気混じりに自分を呼ぶ声に、ブラギの歩速が今度は加速。忙しい限りである。
門構えの前で、女性は両腰に手を当てながら待っていた。憤怒の形相……というわけではなく、呆れ混じりの微笑みを浮かべているのがやたらと恐ろしい。
「た、ただいま……」
「お帰りなさい。それで? その背中に背負った真っ赤な熊さんは一体どういうことなんですか? ほら、説明してください。できないなら何か私に言うことがありますよね」
「すみませんでしたーッ!!」
目の覚めるような綺麗なドゲザが決まった。
極東列島を本場とするこの最上級の謝罪方法は、頭のてっぺんとその下に沿えた指の先、そしてつま先までの揃え方がしっかりしていなければ、贖罪の気持ちを表すには不十分とされている。だがブラギのそれは完全無欠の完璧。これまで何十回と父が母に行うドゲザを見てきたエルザでも、「正直父上よりもうまいかもしれぬ」と思ってしまう程には綺麗な平伏であった。
はぁー、という長い溜息が零れ落ちる。
「先輩の学習能力の低さは今に始まったことではないので別としても、流石に同じ轍を踏み過ぎですよ、これは」
女性は地面に下ろされた熊の骸を一瞥。巨体からどのくらいの肉が取れるのか、魔獣食に詳しくないエルザには分からない。けれどもそれが、一日二日で食べ終えられる量ではないことだけは確かだ。きっとその量を正確に把握しているのだろう女性の目には、いっそ嘆きのようなものさえ垣間見えた気がする。
「約束しましたよね私たち。前回落としたストライクワイバーンのお肉とその前に斬ったボレアスボアのお肉が沢山残ってるから、しばらくは可食の魔獣が出る領域には行かない、行っても戦わない、って。この話するの、今月に入ってから三回目ですよ私。毎回の反省は全部嘘だったんですか?」
「こ、これは不可抗力……そう、不可抗力だ! 向こうから襲ってきたんだから、迎撃しなかったら怪我するだろっ!」
「先輩に限ってそんなことはないと思いますが」
「いや、俺がじゃなくてだな……」
ちらり、とこちらを伺うブラギ。夜明け色の瞳も合わせてこちらを見る。えっ急に視線が集まっても困るのでござるが。
「俺が熊を斬らなかったら、彼女が怪我するところだったんだよ。そしたらいつも以上に、体が勝手に動いちまって……」
「まったく……先輩は昔からそうやって、反射で人助けをするんですから……諸々の問題を全部押し付けられる私の身にもなってください」
「ごめん……」
「いいですよ、もう。あなたのそういうところが好きで結婚したんですから」
俯くブラギの姿にもう一度ため息をついて、女性は仕方ない人、という様に苦笑した。
もう、怒っているようには見えなかった。もしかしたらさっきの詰問も、ブラギに反省を促すためのポーズだったのかもしれない。
彼女は一歩進み出ると、エルザに向かってにこりと微笑んだ。
「初めまして。イズ・シュルツです。お名前を伺っても?」
「あ、ああ……自分はエルザ・クィネレイド。ギルド監査官をやっている。ご主人には、空腹で行き倒れていたところを救っていただいたのだが……もしや、あのサンドウィッチを作られた奥方というのは……」
「はい、私です」
淡くはにかむ様子が眩しい。
奥方、と呼んだ時に、彼女の表情が和らいだのを、祖父の剣撃で鍛え上げられたエルザの目は見逃さなかった。初々しい……ブラギと同年代か少し下に見えるので、自分よりも数歳年上のはずだ。にも拘わらず、何か愛らしい人形を見たときのような優しい気持ちになってくる。
「あれがなければこのエルザ、今頃空腹に命を奪われていた。あのサンドウィッチはご主人と並び、自分にとって命の恩人そのもの。おまけに自分がこれまで食べた野食の内で最も美味で……不覚にも涙があふれてきたほどだ。ここに御礼申し上げたい」
「いえいえ。偶然多めに作ったお昼が役に立ったなら、私としても嬉しいです」
謙虚なひとだ。人の命を救ったとあらば、もっと恩着せがましく来てもおかしくないところだと思うのだが……あの夫にしてこの妻あり、ということだろう。二人揃って好感が持てる。
その夫の方はと言えば、よっこいしょ、と声をあげながらクレッセントベアの骸を背負い直していた。
「ボレアス山脈の監査に来たらしいんだけど、この村、宿がねーだろ。だからウチに泊まってもらったらどうかと思って」
「ああ、それは名案ですね。森に行ってる間に先輩が変なことしてなかったかも聞けますし」
「うっ」
冷や汗を流し始めるブラギ。青ざめていく顔がひどく気の毒なので、助け船を出すことにする。
「ご安心召されよ奥方。ご主人とは出合い頭が少々衝撃的だった程度。その他はなんらおかしなことはされておらぬ」
「へぇ」
しまった、口が滑った、と気づけたのは、イズの相槌が異常に冷たい声だったからだ。熊をどこぞに運び出そうとしていたブラギが、ぴしり、と全身を硬直させる。
恩を仇で返してしまったと後悔するも、時すでに遅し。
「つまり出会い頭はおかしかった、ということですね。先輩、その話、あとで詳しく聞かせてもらえますか?」
「え゛っ」
それからイズは、ぐるり、とエルザの方を向いて。
「もらえますか?」
語尾だけを、もう一度繰り返した。笑っていた。目は全く笑っていなかった。さ、逆らえない……!
「り、了解した……」
「やめろー!!」
背筋の凍るような恐怖。それはきっと、このことを言うのだ。
父の言葉が再び脳裏に反響する。妻というのは男にとって、なによりも愛しく大切なものだが、ときに龍王よりも恐れるべき存在である、と。
悲鳴を上げるブラギを後目に、エルザはそんなことを思ったのだった。
***
結局のところ、森の中での言動を聞かれた程度で、恐ろしいことはなにもなかった。じとっとした瞳で見られるたびに竦み上がるブラギが可哀想だったが、正直蹴られたのは痛かったので自業自得とさせていただく。ついぞ何が理由だったのかは分からなかったが……イズもそこを追求する様子はなかった。むしろその話題を避けているようにさえ見えたので、もしかしたらなにか、二人だけの事情があるのかもしれない。
もとより、彼らの厚意で厄介になっている身。深く追求するのはマナー違反というものだろう。あらくれものの多い冒険者、その規律をも司るギルドの一員として、こういうところはしっかりしていきたい。すでに大分しっかりできていない気配がするのは勤めて無視していただきたい。
「はい、どうぞ。召し上がれ」
「おぉお……!」
テーブルにごとりと置かれた真っ白な皿。その上に盛り付けられていたのは、カリカリに揚げたベーコンと、ベージュの皮にアイボリーホワイトの肉を持った芋……ジャガイモを、チーズで絡めた料理だった。ポテトガレット――ブラギが絶品だと評していた、イズ夫人の得意料理である。
「頂き申す」
「熱いので気を付けてくださいね」
警告はほとんど耳に入らなかった。鼻腔をくすぐる香ばしい匂いがエルザの思考中枢を麻痺させ、食事の事以外の一切を脳から叩き出していたからだ。
「うまっ……」
またジャガイモの食感が新鮮だ。柔らかくほくほくした感触の中に、僅かにシャキッとした硬さがある。引き立つ味は山芋や里芋とは少し違った甘さ。今までに味わったことのないものだ。
これはブラギが自慢したくなるのも分かる。無限に食べていられそうな気がしてきた。
当のブラギと言えば、恨みがましい視線でポテトガレットを凝視していた。その目前にガレットはない。代わりに大ぶりの肉が挟まれた、昼食のそれとよく似たサンドウィッチが置かれている。
「ぐう……うらやま……」
「先輩の晩御飯はこっち。エルザさんを蹴飛ばした罰に連続同メニューの三日目です。抜きにされないだけ良かったと思って反省してください」
「てりやきドラゴンサンドか……。俺ワイバーン肉そろそろ飽きて来たんだけど……」
「自業自得ですよ。先輩がワイバーンを追い払うにとどめたらこんなことにはなっていないわけですから。そんなに嫌なら自分で料理をしてください。毎回毒抜き処理するの大変なんですからね」
亜竜種には、尾の先や火焔袋などに毒を持つものもいる。ストライクワイバーンは血液に強力な毒を含むことで有名な個体だ。熱することで簡単に分解できるため、それ自体は手間のかかる作業ではあるまいが……一頭分ともなれば回数は膨大。当然相当な労力を要するだろう。
そんなものを落としてしまうブラギの実力に驚くと同時に、流石のエルザも呆れが出てくる。奥方にそこまで迷惑をかけることもあるまいに。
とはいえ。
「まぁ俺が自分で料理するより、イズが作ったものの方が何倍も美味いからなぁ……多少の飽きを無視してでもこっちの方が食べたいよ、俺は」
「っ……! ち、調子のいいことを言わない! ほら、さっさと食べてください。冷めちゃいますよ」
「へーい。いただきます」
二人の夫婦関係は、極めて良好に見える。
言葉の端々に、互いへの愛情が滲んでいるように思えた。イズの容赦のない物言いや、ブラギのともすれば失礼ともとられかねない言動は、相手との間に遠慮や垣根が一切ないことの証明だろう。
その仲睦まじい様子は、夕食後にも見ることができた。
片付けを終え、薪ストーブを囲んで談笑していると、青年はこくり、こくりと船をこぎ始めた。時間的には、成人男性の就寝時間にはまだ早い気がする。疲れが出たのか、それとも元々そういう習慣なのか……子供の様にあどけない寝顔を見せながら、彼はソファにごてりと寝転がってしまった。
「先輩、こんなところで寝ないでください。風邪をひきますよ」
「んぅ~……」
イズが注意を飛ばすものの、返ってくるのは妙に幼い呻き声だけ。
間の抜けた夫の様子に、妻は苦笑を浮かべる。
「もう、仕方のないひとなんですから……」
どこからか取り出してきた毛布をブラギにかけるイズ。その手つきには、まるで宝石を触るような優しさと慈しみを感じられた。エルザはそこに、幼い自分をあやしてくれた、母の姿を幻視した。今はまだ、この二人には子供はいないようだが……きっと、良い両親になることだろう。
「ごめんなさい、エルザさん。お見苦しいところをお見せしちゃって……」
「いや、問題ない。こちらこそ、豪勢な夕食を用意していただいて申し訳ない」
「乗ってしまった私も私ですけど……先輩の申し出、断っても良かったんですよ? もうちょっとちゃんとしたおもてなしができるお家もあったはずですし」
「たとえ触れ合った時間が短くとも、慣れ親しんだ方のもとで夜を明かすのは、楽しく、安心するものだ。以前祖父がそう言っていたし、自分も同じように思う」
「そうですか? ……そう言ってくれると嬉しいです。先輩も喜びます」
浮かべた微笑みは心底嬉しそう。まるで二人分の喜びを一挙に味わっているかのようだ。本当にこの夫妻は、なんというか、『心を通わせている』というか……文字通り、繋がっているような気さえしてくる。
二人の事を、もっと知りたい。エルザはその衝動のままに、ずっと気になっていたことを問うてみた。
「ぶしつけな疑問で申し訳ないのだが、何故ご主人のこと『先輩』と? 同じ学院に通っていた、とか?」
「いいえ。私も先輩も、学院に通ったことはありません。出会ったばかりのころは、まだ『大狂騒時代』の只中で……そんな余裕はありませんでしたから」
少し思考が、冷えたような気がする。考えてみれば当然だ。ブラギとイズの外見年齢から察するに、二人が本当なら学生生活を送っていたであろう時期は大狂騒時代の真っただ中だ。大陸全土に攻勢生物が溢れ、世界そのものが疑似的なダンジョンと化した時代……そんな世界で、子供たちが真っ当に学校に通う日々など送れるはずもない。
少しだけ、今の質問を後悔する。
しかしイズの方は、別段気を悪くした様子はなかった。あまり気にしていない部分なのかもしれない。彼女は恥ずかし気に笑いながら、言葉を続けた。
「でも昔の癖、という意味では似たようなものかもしれませんね。中々抜けないんです……十年近く使っている呼び方なので」
「十年……」
「結婚してから今年で五年になるので、そろそろ、別の呼び方にも慣れていきたいところなんですけど」
エルザはこのイズ・シュルツという女性に、いたく感嘆してしまった。
先程も思ったことだが、恐らく彼女は自分とそう年齢が離れてはいまい。五年前ともなれば、殆どエルザと同じ年だったはずだ。今の自分に誰かと愛を育み、所帯を持って、二人で毎日を過ごしていくことができるかと言われると……。憧れがないわけではないが、なんとも難しいもののように見える。個人的にはもっと、各地のダンジョンを飛び回る生活を続けたい。
「不満はないのか?」
「ありますよ、それはもうたくさん。だって先輩、あんなのじゃないですか」
「……ああ」
失礼ながら納得してしまった。
出会いが最悪だったのもあるが、ブラギ・シュルツという男はなんというか……誠実さとちゃらんぽらんさが驚くべき黄金比率で調和した妙な人物なのだ。信頼できるような、できないような、不思議な雰囲気。人間として極端に信用できる代わりに、細かい約束は全て破って来そうなおかしな予感があった。隣を歩いているだけで、彼が引き寄せるもめごとに巻き込まれてしまいそうな気さえしてくる。
たった半日付き合っただけのエルザでさえこう思うのだ。十年間一緒に過ごしているイズとなれば、一体どれだけの苦労をしてきたのだろうか。
「呑気で、自分勝手で、すぐ面倒事に首を突っ込むくせに危機感が無くて……おまけに配慮が足りなくて、口を開けば失礼なことばかり。遠慮もないし、大体自分の都合で他人を振り回しては、何の悪気もないような顔で笑いながら誤魔化してくる……ひどいひとですよね。せっかく考えたメニューに飽きただなんて。元はといえば先輩がストライクワイバーンなんて落としてくるから……知ってますか? ボレアス山脈のワイバーンは、他の地域の個体よりも足腰が発達していて、肉の量が多いんです。食べきるのにも一苦労ですよ」
「それは……大変だな」
ポテトガレットやサンドウィッチは心底美味だった。それはつまり、彼女が料理にたくさんの手間暇をかけている、ということだ。その手間の一つ一つに高いクオリティを要求されるとなれば、きっとそれは剣術の訓練と同じか、それ以上に労力のいることだろう。
だけれども。
「でも、嫌だと思ったことは、ありません」
年若い奥方は、言葉の一つ一つを大切に、噛みしめるように、そう紡いだ。
沢山疲れるけれども、それでもいいのだと、そう言った。
「おかしいですよね。私、このひとのそんなところが好きなんです。そんな先輩だから、一生一緒にいたいな、と思えたんです。普通、夫婦の軋轢になりそうな話題なのに……こんなふうに先輩に振り回される生活が、毎日が、楽しいんです。一年、五年、十年……何年経っても、飽きないんです」
……自分でも、『ちょろい』女だな、とは思いますけど。
イズはそんな風に呟きながら、困ったような笑みを浮かべる。
ああ、その顔は――容易にはできない顔だ。
心の奥、揺るぎようのない場所から溢れるもの。それが形をとったらきっと、あんな表情になるのだろう。
もう一度エルザは、この女性に対して深い感嘆の念を懐いた。
「愛しておられるのだな、ご主人のことを」
「え?」
不意を打たれたのだろうか。イズはぱちくり、と目を瞬かせる。
それから、綻ぶように、
「……はい。とても」
面と向かっては恥ずかしくて、中々言えないんですけどね。
そう呟きながら、また恥ずかし気にはにかむ彼女は、とても幸せそうで。
ああ、やはりこの夫婦の世話になってよかった、と、エルザは心を安らげるのだった。