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第一話『遭遇』

「く、くそぅ……自分とした、ことが……」


 あざ笑うようにざわめく森の声と、ちらちら踊る木漏れ日の中、エルザ・クィネレイドは心底からの悔しさを、我慢できずにぽろりとこぼす。

 視界がモノクロに明滅する。正しく五感が機能しない。今鏡で自分の姿を見れば、腐食鬼ゾンビかなにかと見まがうような、ひどい顔をしているに違いなかった。過去これほどまでに乙女の誇りとかけ離れた顔をしたことはない。それは厳しかった祖父から毎日のようにカタナの稽古を付けられていた幼少期においてもだし、夢を叶え、ギルド監査官として活動を始めてからもそうだ。

 それがまさかたった一度、未体験の不覚を取っただけで、これほど簡単にとれてしまう表情であったとは。


 不覚。そう、一生の不覚だ。

 だって知らなかったのだ。祖父も、父上も、冒険者の道を選んだ姉上も、自分にこんなことを教えてはくれなかった。ゼーロス山脈付近の地主の家系に生まれたエルザにとっては、一生無縁なことだと信じていたのだろう。うん、正直自分もそう信じていた。


 はっきり言おう。エルザは、この世の中の絶対法則というものを舐め腐っていた。ヒューマンならば逃れえない、構造上の問題を甘く見ていた。


 まさか、まさか――


「数日続く空腹が、こんなにつらいものだとは……!」


 ぐぎゅるるるるるぅぅぅぅうううぅぅぅぅ~~……。

 死ぬほど情けのない声と、同じかそれ以上に情けのない腹の音が秋の昼空に木霊する。


 テュールス大陸の四方を囲む大霊峰、その西の峰たる『ボレアス山脈』。かつて龍王の住まうダンジョンだったとされるその内部には、モンスターの発生件数が激減し、冒険者稼業が下火になり始めた現在も、変わらず巨大な迷宮が遺されている。

 現役のダンジョン、ならびにボレアス山脈のように「かつてダンジョン出会った場所」を調査するギルド監査官として、エルザは今、その麓を目指していた。監査官として本格的に一人で行動するのは、これが初めてのことだ。やる気も普段の三倍である。


 最寄りの街であるグリームニル町から、ボレアス山脈まで馬車は出ていない。聞けば徒歩でも一日二日かかるという。町にいない時間も多いのに、宿屋に長期滞在費用をかけるのも馬鹿らしい。それよりかは山麓の小さな村を拠点として寝泊まりし、時間をかけて監査活動を行ったほうが良いだろう。

 そう、考えたのだが……。


 道中を隔てる森林地帯……『ボレアス大樹海』が、想像していたよりもはるかに難関であったのだ。 

 

 緩慢な動作で、ぐるりと周りを見回してみる。すでにこの動きだけでも大分つらい。

 何分、視界一杯、とにもかくにも樹、樹、樹。それ以外のものがまるで見当たらないのだ。

 碧の瞳の内に入るのは、この辺りに特有の、白く細い幹にカエデに似た葉をつける落葉樹ばかりだ。特段面白い景色もないため、まずそれだけで気が滅入る。


 次に足下。入ったばかりのころはまだ舗装道があったのだが、しばらくするとなくなった。枯れ葉に覆われた腐葉土の道は非常に歩きづらく、それがまたストレスを蓄積させていく。これまでに入った迷宮の方が、もうちょっとマシな地面をしていた記憶がある。

 

 まったく、利便性もへったくれもありはしない。よほど人の往来がないと見える。

 実家のあるゼーロス山脈近郊では、もっと交通網が発達していて、馬車一つで街から街を渡り歩けた。それでいて決して都会とはいえない規模の地域である。

 ゆえにこそ、あれが『基礎水準』、この世界の平均なのだと思っていたのだが……平均があるならば、平均以下があるのもまた道理なわけだった。


 湖面の泡のように湧いては弾け、現れては消える、そんなどうでもいい思考もまた、変わらぬ現状に対する不満を蓄積させる。一向に終わりの見えない旅路……それはエルザの心を蝕み、なんとかもうちょっと楽にならないものかと、無駄な動きを心身に強いる。


 そして人間、体と頭を動かせば、エネルギーを消費する。エネルギーを消費すれば、当然一緒に減るものがある。

 そう、腹だ。


 前置きが長くはなったが。

 要するにこの女、空腹で最早一歩も動けぬのである。


 もう一度、その細い腹がぐぎゅるるるぅ~……と悲し気な声を漏らすころには、エルザは手ごろな岩に座り込んでしまっていた。バックパックに詰め込んだ荷物や、腰に帯刀した得物が重い。皮膚に食い込む帯が余計に疲労を蓄積させる。もっと楽な装備の仕方を学んでおくんだった。


 そして何より……昨朝の空腹。やはりあれに負けたのが失敗であった。あそこで弁当の中身をもう少し残しておけば、今こうして味わっている死にそうな気分を、少しは軽減できたものを――今更ながらに後悔の念が湧いて来るが、どう考えてももう遅い。多めに弁当を購入しなかったその時点で、エルザの命運は決していたのだ。


 天を仰ぐ。秋の空が随分遠い。

 ああ、自分はここで野垂れ死ぬのだ、と、少々悲観的に過ぎる諦観が、心の中を支配する。

 さらに都合の悪いことに、エルザ・クィネレイド18歳、この女、大層思い込みの激しい娘であった。要するに一度こうだと思ったことは、たとえマイナスの感情であろうと、それが己の命に関わろうと、よほどのことがない限りずっと胸の内にくすぶらせてしまうのである。それはもう、お鍋でぐつぐつ薬かお粥を煮込むがごとく。


(無念……父上、先立つ不孝をお許し下され……)


 よく考えればもう少し足掻きようがあるだろうに、エルザはすっかり死の覚悟を決めてしまった。そのまま、自らの自然に還るのをせめて楽に待とうと、岩の上に寝そべろうとする。

 ああ、願う事なら、もっと色々なダンジョンを監査したかった……。

 そう、心の中で呟きながら。

 彼女が、目を閉じようとした、その時。


「どわぁぁあああああっ!?」


 大気をびりりと引き裂くような、男の悲鳴が森いっぱいに響き渡った。祖父から受けた訓練のたまものか、エルザの耳は、その声の内に含まれる感情を正確に読み取った。これは……混乱、瞠目、驚愕。それから己の不覚に対する、僅かばかりの自己嫌悪だろうか。

 続いてがさがさがさっ! という荒々しい音と、樹海の奥、丁度彼女の背後の方から、凄まじい速度で()()が接近、いや『飛翔』してくる気配。


 直後、エルザの背、そのぴったり中央に、とてつもなく重い衝撃がひとつ着弾した。どうやら誰かに蹴り飛ばされたらしい、と気づいたのは、岩の上から、軽い体を勢いよく吹っ飛ばされた後だった。


「いぎゃ――――ッ!?!?」


 あまりのインパクトに、乙女らしからぬ絶叫を上げてしまう。

 枯れ葉の山を飛ばしながら、少女はそれなりに綺麗なつくりをした顔を、ごつんと大地に激突させる。そのままずざー、とスライディング。一メートルほど移動したあたりで停止すると、顔についた泥を払いのけながら体勢を立て直す。


「な、ななな何をするかこの不届き者!」


 浮かべる表情に宿るのは、羞恥の心と憤怒の形相。それとあまりにも唐突すぎる襲撃に対する驚愕だ。何せつい先ほどまで人の気配すらなかった森の奥から、突然キックが飛んできたのだ。流石に焦るし、その混乱でなにやらおかしな口調にもなる。


「す、すまん、まさか人がいるとは思わなかったんだ!」


 返ってきたのは焦ったような男の声。顔を上げれば、わたわた両手を振りながら謝る、青年の姿が目に入った。

 ボレアス地方では珍しくない、黒い髪と黒い瞳。顔立ちは温和だが、言い訳がましげな表情が妙に癪に障る。長身痩躯、というのだろうか。よく引き締まった体を、質素な上下に包んでいる。肩に担いだ伐採用の斧と、薪にすると思しき白木と合わせて、どこにでもいる木こり、と言った風貌だ。


 だが、よく考えてほしい。

 ここはボレアス大樹海――いつ終わるとも知れぬ大森林は、ギルド監査官としてある程度訓練を受けているエルザをして(空腹と判断ミスという大きすぎる失態を抜きにしても)苦戦させる、西方の難所なのだ。しかも現在地は森の奥まったところである。そんな場所に木こりが一人、のこのこやってくるだろうか。

 

 ありていに言って、胡散臭い。そもそも何で森の奥からジャンプキックなんざかましてきたのだ、この男は。


 ともかく抗議だ抗議。それから身元の確認。回答のいかんやによっては抜刀も考えなければならない。

 できるだけ威圧感のある声を出さなければ。エルザと男の間には頭一つと半分くらいの身長差がある。金糸のような長髪が、「人形みたい」と揶揄されがちな彼女は、ともすれば子供と舐められかねない。


 ところが。

 すう、と息を吸ったその瞬間。ふっ、と、エルザの全身から力が抜けた。入れられなくなった、といったほうが正しいかもしれない。腕や足を踏ん張ろうとしても、込める力が霧散してしまうというか……「すかしてしまう」のである。

 当然、その姿勢は勢いよく崩れる。金髪の新人監査官は、つい先ほどまでと同じように、顔から勢いよく地面に倒れ込んだ。


 そのまま、男と女の間を沈黙が支配すること、十秒余り。


「お、おい……大丈夫か?」

「全然大丈夫ではない……」

「マジかよ。予想外に強く蹴っ飛ばしちまったな。どこだ? どこを怪我した? 神聖魔術はあんまり得意じゃないけど、応急処置くらいなら……」


 今一級の冒険者でないと使えない、最上級の回復魔術の名前が聞こえた気がしたが、正直それについて深く考えている余裕はない。

 

 結局エルザの喉から漏れたのは、強烈な蹴りに対する抗議の言葉でも、正体の知れない男に対する詰問でもなんでもなく。


「お腹、空い、た……」

「……」


 情けのない呻き声であった。


 もう一度、二人の間に沈黙が座る。

 その空隙を裂くように、ぐぎゅるるるるぅぅぅぅ~……と、三度目となる間抜けな腹の音が通り過ぎて行った。 



 ***

 

 

「はむっ、ぐむっ、んっ……」

「こらこら、あんまり急いで食べると喉詰まらせるぞー。サンドウィッチは逃げたりしないからもうちょっと落ち着いて食えって」


 からからと苦笑する青年から水筒を受け取ると、勢いよく中身を傾ける。味の濃い麦茶が喉の渇きを一瞬にして潤してくれた。

 また新鮮な野菜と、豚肉を挟んでいるとおぼしきサンドウィッチがこれまた美味い。すぐさま空腹を癒し、それでいて程よい腹持ちの良さもある。最高だ。


 一通り食事を終えたエルザは、先程の岩の上にぴしりと正座。そのまま上半身を傾けて、昼食を分け与えてくれた青年へと、ほとんど土下座に近い姿勢で礼を言う。


「かたじけない……貴公は命の恩人だ……」

「良いってことよ。蹴っ飛ばしちまった分の詫びだ」


 先ほどまで『胡散臭い』『癪に障る』などと感じていた自分を殴りたくなる。ほがらかに笑う青年の姿が、神か仏の姿にさえ見えてきた。


「礼なら俺じゃなくて嫁さんに言ってくれ。いつもより余分に弁当持たせてきたときはなにかと思ったけど、この展開を予想してたのかもしれないな」

「良い奥方をお持ちなのだな……こんなに美味い野食の経験、これまでにないのでござる……」


 目じりに涙が溜まってくる。なんというか、『家庭の味』といった面持ちだ。ホームシックにも似た、しかしもっとずっと温かい感情が、胸の奥からぼんやりと広がっていく。


「はっ、しまった。つい生まれの訛りが……」

「ははは、素が出ちまうほど美味かったってか。自分のことじゃないのに嬉しいな」


 少し恥ずかし気に浮かべられた、はにかみ笑顔がえらく眩しい。故郷の祖父や父が、妻の話をするときに見せるそれとよく似ていた。余程大切に想っているとみえる。

 やはり自分の第一印象は間違っていた。この男性は、信頼に値する人物だ。


「名乗りが遅れた。自分はエルザ・クィネレイド監査官だ。ダンジョン監査の任を受けて、ボレアス山脈を目指している。貴公は?」

「おっと、近々来るっていうギルド監査官はあんたのことだったのか。こりゃ随分と失礼をば……」

「ん?」


 再び頭を下げる青年の言葉にひっかかりを覚える。ギルド監査官が数日のうちに到着することを知っている……と、いうことは。


「ひょっとして、この先の村にお住まいの方なのか」

「ああ。別に出身ってわけじゃないんだけど、今はあそこで生活させてもらってる」


 ふむ、と脳裏にメモを開く。辺境の村ともなれば、部外者を排斥する傾向が強い、と聞いたことがある。閉鎖的なコミュニティは変革を嫌う。エルザの生まれたゼーロス地方も、山脈近郊の村々は気難しいところが多かった。移住者なんてもってのほか、村人が外に出るのを嫌がる場所さえあったほどだ。


 そういう意味では、ボレアス山麓の村は外来の者に非常に寛容といえる。恐らくは山脈に出向く冒険者たちが、ゼーロスよりも多いのだろう。来訪者に慣れている、というわけだ。

 

 拠点とさせてもらうにあたって、余計ないざこざがなさそうなのは好都合。よしよし、と内心でガッツポーズをしてしまう。


「わり、挨拶の途中だったな。俺はブラギ。ブラギ・シュルツだ。よろしく、エルザ」

「こちらこそよろしく頼む、シュルツ殿」


 差し出された手を握る。見た目よりもごつごつした手だ。なんというか、同郷の農夫たちを思い出させる優しい手。

 一瞬その感触の中に、祖父のような『剣士』の手を見たような気がしたが、その直感は「しかしまた随分と『よくある名前』の御仁ひとにござるな……」という心の声に遮られ、形になる前に溶けて消えた。


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