プロローグ
プロローグ/エピローグは3000文字前後、それ以外は一話毎5000文字程度を予定しています。
霜のおりる未明。まだ太陽はどこにも姿を見せていない、この時間。
顔を上げれはうっすらとした雲の向こう、金剛石のように青白い月が、小さく光を放っている。いまだ夜天と言っていい、この時間の空に煌くその姿、まるで我が子を見守る母のごとし。淡い輝きで大地を撫で、冷たい闇に僅かな温かさを与えてくれる。
当然、その慈愛は誰にでも分け隔てなく与えられる。言葉を話さぬ草木にも、もう寝静まった人間たちにも、まだまだこれから、獲物を探して狩りを始める、そんな獣や鳥たちにも。誰一人、逃すことなく、ダイヤモンドの月は照らし、包み、温めていく――。
その暖に惹かれるように。
招かれざる客が、姿を見せた。
汚らしく泡立つ緑の肌。あばただらけのそれは見るからに不浄で、生きとし生ける全ての生き物にとって害悪であることがよく分かる。
だらりと垂れ下がった細長い手と、猫背気味の矮躯が宵闇に揺れる。僅かに月影の中に躍り出る姿はいかにも不気味で、まさに『悪鬼』の言葉が相応しい。
携えた山賊刀の刃はぼろぼろに欠け、ところどころが潰れてさえいた。明らかに切断力は失われている。それは最早刀剣ではなく、力任せに相手を嬲る、鈍器の一種とみるべきだ。
ジュウと音を上げるよだれを垂らし、夜道を進むその来訪者は、数いる妖精種の攻勢亜種の中でも、特に数が多く、そして厄介であるもの……『ゴブリン』である。
六年前に終結した『大狂騒時代』にはテュールス大陸のありとあらゆる場所で見られたこの略奪者も、今や闇夜に紛れて獲物を探す、堕落しきった盗人だ。かつては人間を捉えていたギラギラと光る黄色い瞳を動かしながら、ゴブリンはきょろきょろあたりを見渡した。
ああ、ああ、腹が減って仕方がない。ボレアス山脈の麓には、あと一、二か月もすれば冬が来る。森の中にはもう殆ど獲物はいない。動物や魔獣たちの冬眠費用にあてられたのだ。
普段は奴らからその食糧を奪って生きていくこともできるのだが……今年に限っては、腹が減り過ぎてそれが難しくなっている。
オマケに運の悪い話で、ついこの間森にやってきた『アイツ』に、彼の普段の狩場は丸ごと奪われてしまったのだ。略奪に頼らない食事の確保も、極度に難しくなってしまった。
ゴブリンの身体は小さいわりに、少しの動きにたくさんのエネルギーを消費する。当然、たくさんのものを食べないと、日々の生命維持をやりくりできないわけで。
だから今夜は、人里に下りてみた。
ゴブリンがヒューマンを襲うのは、一般的なイメージでは珍しくない。先の狂騒時代にはよく見られた光景であるし、むしろ日常的であるとも言えた。
しかし現代のゴブリンにとって、それは『非日常』だ。魔物は数を減らし、群れで生活するのが基本だったゴブリンも、今や一匹で過ごす日がほとんどだ。小さな体で、ヒューマンの集落を攻めるのは難しい。
だから今回の下山も、よい収穫は得られない……その可能性のほうが高かった。麓の村には、五つ前の冬、まだ狂騒時代が終わったばかりのころに一度だけ下りたことがある。そのときは予想外に固い警備と高い柵に阻まれ、畑に立ち入ることさえできなかった。あれは昼のことであったため、夜の今ならもう少し、侵入難易度は下がるかもしれないが……。
結論から言うと。
天は、大地を照らす月の光は、どうやら彼に味方をしたと見える。
かつては高い柵の内に全ての家が入り切っていた村。
その端、柵の内から外れたところに、一つ、新しい家が建っていたのだ。どうやら内部に暮らすヒューマンの数が増えたため、家が入りきらなくなってしまったらしい。
おまけにこの家、柵が小さい。ゴブリンの跳躍力で簡単に入り込めてしまう。
白い仕切りの中には住居が一軒と、それから少し広めの畑があった。どうやら、イモの類が植わっているらしい。
ゴブリンはシミターを置くと、土の中にずぼりと手を突っ込んでみる。すぐに、信じられない程大ぶりのイモをその手に掴んだ。これは凄い! 森の中で取れるどんな果物よりも大きいかもしれない!
「オォ……」
ずるりと引き抜いた手には、彼の手よりも一回り以上大きな、ごつごつとしたイモが握られていた。見たことのないイモだ。少なくとも、これまでゴブリンが渡り歩いた場所には自生していなかった。ヒューマンが持ち込んだ作物に違いない。そして得てしてそういう食べ物は、栄養価こそ偏りがちだが、美味い。
「イタダキ、マ……!」
これでようやく、久方ぶりの食事にありつける。ゴブリンは意気揚々と口を開けて、そのうちへとイモを放りこみ――
――直後、銀の光が、奔った。
次の瞬間、どちゃり、という嫌な音と共に、頭部を横薙ぎに一閃されたゴブリンの身体が崩れ落ちる。驚くほど綺麗な切断面。この場に剣術の達人がいたなら、どんな剣神の御業だと腰を抜かしたに違いない。
大きなイモが、力を喪った手から零れ、地面に落ちて転がった。
ぱたた、と遅れて、ゴブリンの血もまた、土の上に落ちる。それはジュゥ……と焦げるような音を立てたかと思うと、すぐに浄化され、消えてしまった。
数秒後。
暗がりの中から、一人の、人間の男が姿を現した。先端にゴブリンの血が付着した鍬を、まるで薙刀のように振り切っている。どうやら、先程の一撃の放ち手にして、この畑の持ち主らしい。
雑に刈られた黒い髪、黒玉のような黒い瞳。その顔立ちは、輪郭のわりにどこか幼げに思える。引き締まった、という表現の似合う体躯はよく鍛え上げられているが、イモ農園の持ち主にしては随分と、そう……どちらかといえば『剣士』の肉付きに、似ているような。
男は暫くの間、鍬を振り切った姿のまま残身していた。
直後、まるで今意識を取り戻した、とでもいうかのように、彼はびくりと肩を震わせる。
そのまま足下にわだかまったゴブリンの骸を見ると、げ、と小さく呻き声。
「やっべ、まーた手癖が出ちまった」
わざわざ斬らずとも、ただ追い返せばよかっただけだろうに。全くこういうとき、自分の身体に染みついた旧時代の癖は困る……彼は己の体質を、そんな言葉で罵倒する。
あーあ、どーすっかなコレ……面倒くさげにそんなことを口走りながら、青年は黒髪を掻きむしる。
月明りが、淡い雲間に隠れようとしていた。
男の姿が、闇に隠れる。
まるで『今』という時間が、彼から逃げていくかのように。