プロローグ2
温かい。柔らかい。いい匂い。
まるでお母さまのグルーミングのようだ。
まさかお母さまが戻ってきたのか!
そう思い、意識が覚醒する。
するとそこは、わたしの知らない場所だった。
…………わかっていた。お母さまが戻ってこないことくらい、わかっていたんだ。
意識を切り替えよう。どうやらわたしはまだ生きているようだし、まずは現状の確認だ。
まず四方を壁に囲まれている。上にも壁があり、完全な密閉空間だ。
──いや、一面の壁には一部穴が開いているな。
透明な何かがはまっていて、外に出ることは叶わなそうだが。
上の壁には何かが吊るされており、それが光を発している。眩しくはない。暖かい光だ。
そしてわたしが寝ている場所、これはおかしい。
こんなふわふわした物体はわたしは知らない。
産まれて間もないくせに何を、と思うかもしれないが、このふわふわした物体がおかしいのはわかる。
まるで雲の上に乗っているみたいだ。雲など見たことはないが。
だがまぁ………………気持ちがいいのでよしとしよう。
そして今まで敢えて触れずにいたが──
わたしを抱えて眠る生き物、なんだこいつは?
まず毛が生えていない。頭部と思しき部分には不必要なほどに長い毛が生えているが、他の部位はつるつるだ。こんなんでどのように体温調節をするのか。
そう思い視線を下げると、ああなるほどと納得した。この生き物は胴体に、何やら不思議な繊維を束ねたようなものをまとっていたのだ。
わたしが今寝ている、このふわふわに似ている気がする。きっとよく似た素材を集めて作ったのだろう。
ともあれ、この繊維で体温調節をするので、毛は不要なのだろう。得心がいった。
だがしかし、見れば見るほど不思議な生き物だ。
関節の位置や鼻の形、筋肉の付き方など、挙げれば切りがないが、おおよそ森で生きていけるような姿ではない。
もしやこの閉ざされた空間にのみ生息する固有種なのだろうか?
考察を続けていたわたしだが、不意に凄まじく不可解なことに気付いた。
この空間やこの生き物などとは比べるべくもない、とてつもなく不可解なことだ。
なぜわたしは、この状況を警戒していないのだろう。
わたしは狼だ。
本能的に警戒心の強い生き物だ。
にも関わらず、この謎の空間で謎の生き物に抱えられ、わたしは安心感すら抱いてしまっている。
本来であれば、この生き物を起こさぬように脱出し、出口を探すべきだ。出口がないのであれば壁を背に構え、この生き物が起きるまで眠らずに警戒を続けるべきだ。
いかに産まれたてでも、わたしは狼、それくらいはできる。
だがわたしはそうしようとしない。
何故だ?
わからない。何もわからない。
この生き物がなんなのかもわからないし、この安心感の出所もわからないが、どうせ放っておけば死ぬだけだった命だ。
この不思議な状況に、しばし身をゆだねてみよう。
それからしばらくして、目の前の生き物に変化があった。
むにゃむにゃと口元を動かしたと思ったら、ゆっくりとまぶたを開けたのだ。
少しキョロキョロとして、やがてその目がわたしを捉えた。
わたしもその目を見つめ返し、意識があることを訴える。
するとこの生き物は、にぱぁと大きく口角を上げ、労るように、慈しむように、強くわたしを抱きしめた。
後から知ったのだが、これは"笑顔"と言うもので、彼女たち"人間"が、嬉しかったり楽しかったり、それを相手に伝えようとしたりするときにする表情らしい。
道理でこの時、僅かに残っていた警戒心が根こそぎ消し飛んだわけだ。
目の前の生き物が何か声を発する。
「よかったぁ! 目が覚めたんだね! お腹空いてるでしょ。すぐにご飯持ってくるからね!」
なんと言っているのかはわからないが、わたしを想ってくれていることは伝わってきた。
──凄く、温かい気持ちになった。
温かい生き物はわたしに「ちょっと待っててね」と言い残し、穴が開いている方とは逆の壁に向かっていった。
その壁の、少し色が違う部分をパタンと開けると「お父さあん、お母さあん、シルヴィ! ワンちゃんが起きたあ!」と大声で叫びながら走っていった。
なるほど、あの関節であのように動くのかなどと場違いなことを考えながら、温かい匂いが一番強い部分に顔をつっこむ。
…………ああ、落ち着く。
こういうのを至福の一時と言うのだろう。
色の違う壁はまだ開いていたが、出ようとする発想すらしなかった。
きっとあの方がわたしを森から拾ってきて、ここに連れてきてくださったのだろう。
そう考えればこの安心感にも納得がいく。
あのまま森にいたら確実に命を落としていた。
ならばあの方はわたしの命を救ってくださった方となる。
このご恩は、一生忘れません。
なのでせめて、あなたのお役に立つことを許してくださいませんか?