75.暗がりが広まり始めた草原のその向こう。 赤黒い炎が蠢めいていた。その先には……
政治や経済の中枢を抱えたメガロポリス。
ヒトとカネが虚実ないまぜにして飛び交い渦巻く、名実ともに世界の都とされるクワード。
巨大な鐘楼を中心に尖塔が建ち並ぶ荘厳な街並み。
巡礼の目的地としての宗教的色彩が濃く、世界の聖地として認識されているハニード。
これら二大都市までではないものの、「レガートの聖灯」を守る地は、いずれもそのエリアを代表するような大都市となっていた。それも、俺たちが向かっているイラードの村を除いてはの話だが。
「イラードはここ数百年、邪炎との戦いがなかったんだ」
ロッドから俺に話かけてくるとは珍しい。
監視者たる彼からの発言に、何か企みがあるのかと逆に勘繰ってしまう。
「争いがなかったから、人間はこの村の重要性を忘れて寂れてしまったんだよ」
ロッドが続ける。
のど元過ぎれば何とやら、か。
いや、邪炎による災厄をイラードが経験していないことを考えると「のど元」すら過ぎていないことになる。
人々が危機感を失ってしまったのは当然なのかも知れない。
いまからおよそ70年前。
世界に冠たるクワードは大規模な邪炎の襲撃を受け、壊滅状態に陥っていた。
建物や橋梁などはことごとく破壊され、人類は甚大な被害をこうむった。
政治機能は混乱の末に麻痺し、当然の帰結として経済活動は破綻し停止状態となった。
「その危機を救ったのが、俺さまなんだけどな」
これは、アシスの決まり文句。
クワードの聖灯をめぐる邪炎との壮絶な闘い--そしてその闘いは、まさに彼をして英雄と呼ぶにふさわしい内容であったのだが--を子供たちに語るアシスの姿。
新月の夜、邪炎の猛攻。
窮地に陥る政府軍。
颯爽と現れた水の大魔道士。
決死の攻防も苦しき戦い。
起死回生、強大な水魔法の一撃。
砕け散った邪炎の黒き欲望。
主人公自身の声で紡がれる、もはや伝説ともいえる英雄譚。
子供たちの純心無垢な眼差しは、羨望の色をますます濃くしアシスに注がれる。
アシスは決まって照れ隠しの苦笑いを浮かべる。
その姿をいつもロッドは微笑ましく見守っていた。
破壊された都は半世紀を経て、奇跡ともいえるスピードで再び秩序と栄華を取り戻した。
そして同時に、邪炎に対する危機感を人類共通の認識として共有したはずだったのだが……
一向に衰えを知らない西日が全身にべっとりとまとわり付く。
もはや陽炎のように成り果てた記憶の断片を、ぼんやりと心に浮かべながらアシスは歩き続けていた。
いつの間にか夕の刻を超え、宵闇が迫っていた。
そして、うたかたの思い出すら心の海の底に悉く沈殿する頃になって、ようやく目的の地イラードを視界に捉えることができた。
「やっと、やっと着いたか……」
俺が安堵の言葉を発するのと、ほぼ同時だった。
「アシス、何だか嫌なニオイがする」
いつもより低く抑えられたロッドの声から、ただならぬ危機が伝わってくる。
「このニオイは……間違いない、邪炎だ!」
その警告を聞き終えないうちに、俺は走り出していた。
暗がりが広まり始めた草原のその向こう。
赤黒い炎が蠢めいているのが遠目にもくっきりと見える。
「邪炎の前だっ、アシス!」
走りながら、俺は必死に目を凝らす。
おぞましく吹き上がる炎に追われ、長い髪の女が草原を逃げ惑っていた。
何度か転びながらも、懸命に邪炎の脅威から逃れようとしている。
「間に合うかっ?」
いや、間に合わせるっ! 祈るような気持ちで地面を蹴り付け、草々を踏み越えてゆく。
全力で走りながらも俺は背中に手を伸ばした。
そして彼を、ロッドをこの手に取り、邪炎へと向けた。




