66.「フルーツパンチとフルーツパンチでございます」。視線は静かに解け、柔らかな笑顔に変わった。
俺の言葉を聞いて、浜崎さんの動きが一瞬止まった。瞳孔が開ききったのかと思えるくらいに、焦点があっていない両の眼。頭の中で形にならない答えを必死に探している。ミステリアスですらある表情から、そんな心の情景が手に取るように伝わってきた。
しばしの沈黙が訪れる。
言葉を投げ掛けた直後から俺の胸の内には激しい後悔という負の圧力が押し寄せていた。いつもは喧しい白いヤツも黒いヤツも一様に黙り込んでいる。これはダメな流れなのか? 俺の眼も徐々に虚ろになってゆく。
だが、そんな心配も杞憂に終わった。
「ま、と、み、ね……」
浜崎さんは、一音一音を区切るようにして口ずさむ。
化粧っけのない柔らかそうな両頬が、みるみる赤く染まってゆく。
「そう、きっと、きっと仲良しだよ」
俺に向かってではなく、二人を照らすチューリップ型の電灯に対して述べられた台詞ではあったが、その言葉は、間違いなく真っ直ぐに俺の心の中心を射抜いていた。
斜め上を向いていた浜崎さんの視線が俺に戻ってくる。必死に平静を保って、そして先ほどの言葉を受け入れるように、優しく彼女の瞳を迎え入れる。
しばしの沈黙が訪れる。
胸が高鳴る。「どくんっ。」などとよく書き表されるが、そんな表現が決して誇張ではないことを俺はまざまざと実感していた。とはいえ、次にどのような言葉を発すればよいかと逡巡していると、まさにこのタイミングを計っていたかのようにマスターが近づいてきた。
「フルーツパンチとフルーツパンチでございます」
同じ注文なのに、わざわざ繰り返して丁寧に伝えてくれたマスターに、思わず二人して微笑してしまう。マスターは少し怪訝な顔をしたが、慣れっこのようで、そのまま大き目のコースターを並べ、その上にフルーツパンチをそそと置いて、カウンターへと引き上げてしまった。
テーブルには透き通ったブルーの器。カラフルな果物が載せられたフルーツパンチが二つ仲良く並んでいる。シロップに半分身を沈めたサクランボの柔肌に、きめの細かい泡がついては消えてゆく。
そんな小さな色彩の遊園地を見つめる若い男と女。
鳥島正樹と浜崎美咲。
「まさき」と「みさき」
一字違いの名前を持つ二人の距離は、今夜、限りなく近づいたようだ。
泳ぐパイナップルを18-12ステンレスのフォークで追いかけながら、浜崎さんに問いかけた。昨日、村中先輩と二人で席を外してましたよね。聞いていいのかどうか分からないんですけど、どうしても気になって。ああ、あれね。お昼休みに村中さんに呼び出されたのは、鳥島君がミスして元気がないので、今日の宴会の後に時間を作るからフォローしてやってくれという「依頼」を受けていたのよ。
なんですと。二人して職場から消えたのは、このシチュエーションを作るためだったとは。あの村中先輩が……万年関西弁怒り大噴出男のナイスなフォローに素直に感謝を捧げた。
浜崎さんとの静かではあるが満ち足りた会話の合間に、ふと、俺のスマホがいまだにテーブルに置きっ放しとなっていたことに気づいた。先程のフルーツパンチの検索画面から、ホーム画面に戻して再びポケットにしまおうとした時だった。
「あっ」
浜崎さんが小さく驚きの声をあげた。
「その花って、会社の前の花壇に咲いている花よね」
俺の手に収まるショッキングピンクのスマホの画面には、登録されたばかりのノボロギクの姿があった。
「この花、知ってるんですか」
と俺が聞くのと同時に、浜崎さんがスマホを取り出して、俺に画像を示した。スマホはシンプル真っ白な筺体で、ちらりと見えた待ち受け画面のアイコンも5つくらいで、とてもすっきりしたものだった。俺の目の前に現れた画面には、ちょっとピンぼけしていたが、確かに慎ましやかな黄色い花弁が映されていた。
これを、きっと運命というのだろう。
都会の片隅に、寒風に震えて咲く小さな黄色い花。誰も見向きもしないと思っていた、その地味で可憐な姿への思いを、知らぬ間に彼女と共有していたなんて。
驚きとともにスマホから離れた俺の目線の先に彼女の瞳があった。
しっとりと、ほんの数秒ではあったが絡みあった視線は、静かに解け、そして柔らかな笑顔へと変わった。
その夜、浜崎さんとそれ以上に「深い仲」にならなかったのは、フルーツパンチのシロップが思ったよりあっさりしていたからだろう。
あともう少しパンチがあれば、その結末も変わっていたのかも知れない。
翌日。
都会の片隅のコンクリートビルの5階の一室。
6人の男女が忙しなく仕事に当たっている。
いつもと同じ光景。
けれども、いつもとは違う光景。
これまでほぼ没交渉だったバタさんと山上が楽しげに会話を交わしている。
山上の冗談にバタさんが笑い声を上げているのは初めて目にするシーンだ。
村中は相変わらず鳥島を関西弁で叱り付けている。けれど鳥島は嬉しそうに叱責を聞き入れ、キビキビと仕事に向かっている。
浜崎は特段変わったそぶりはないが……うまく言葉では表せないのだが、いつもとは質の違うキラキラした笑顔を振り撒いているようだ。それに、なぜだろう。鳥島の席にしきりに視線を送っているような……
ともあれ春の宴会という名のガス抜き。どうやらうまくいったようだな。
給湯器のお湯で淹れたインスタントコーヒーをすすりながら、安田部長は頼もしさを幾分か増した部下たちを眺めて、静かに微笑んだ。
ノボロギクは、相も変わらず、慎ましく、花壇で春の風に揺れていた。
(完)
浜崎さんと鳥島くんのお話は、これでおしまいとなります。次回からはパン作りのお話に戻りたいと思います。パン大好き




