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65.店内に流れるワン・ノート。フルーツパンチって綺麗ね。その言葉が妙に新鮮に感じた。

 カランカランコロン……


 重厚な木製のドアが開くとともに、喧騒の真っ只中であるにもかかわらず妙にすっきりとした音が響きわたる。眩暈めまいがするほどの光量と尖りきったサウンドが溢れかえるきらびやかな夜の街とは明らかに異質な、アナログな波長が二人をふわりと包み込み、初めて来たはずなのに何故かノスタルジックな店内へと誘ってくれた。


 いらっしゃいませ。カウンターから、低めの、恐らくマスターであろう男性の声が届く。何名さまですか、おタバコはお吸いになられますか、お食事ですか、それとも……、などという野暮な質問はあるはずもなく、かといってシルエットしか見えないはずのマスターの優しく見守るような、厳しく見定めているような視線を存分に感じつつ、俺と浜崎さんはカウンターに沿って並べられた3つあるテーブル席の真ん中に、向かい合わせて座った。


 店には二人とマスターをのぞいて誰もいないようだった。耳を澄ませば音程が分かる位の絶妙な音量で、静かな曲が流れていた。ピアノの音が単純かつ単調なリズムを紡いでゆく。どうやら、ワン・ノート・サンバのようだ。繰り返される単音ワン・ノート。無機質だった音と音が一定のリズムを刻み始めた途端、そのボサノバは、にわかに色彩を帯びはじめる。浜崎さんは、恐らく無意識にだろうが、テーブルを指先でトントンと叩いてリズムをとっていた。濃いブラウンの、決して黒ではない、しなやかな髪が肩先で楽しげに揺れていた。


 氷の入ったグラスに水を注ぐ音が聞こえる。すでに一日の終盤戦に入る時刻だというのに、きっちり折り目の付いたオフホワイトのシャツに黒のベスト、そして蝶ネクタイ。映画のセットから飛び出してきたかのような姿をしたマスターが、一切の無駄のない、それでいて温かさとしなやかさを兼ね備えた所作でコースターを二つテーブルに並べ、静かにグラスを置いた。


 一連の動作を見届けた俺が目配せするとマスターは、分かりました。ご注文は後ほど伺いに参ります。どうぞごゆっくりと。という意味を含ませた浅い頷きを俺に返し、再びカウンターへと戻っていった。チューリップを逆さにして天井から吊るしたような電灯が照らし出す浜崎さんの表情は、とても穏やかだった。俺の顔もきっと穏やかだったはずだ。


 ただ、お互い無言だった。


 ただ、ワン・ノートだけが訥々と流れていた。


 たった数秒の沈黙に耐え切れず、俺はテーブルの端に立てかけてあったわら、ではなくメニューを手に取った。


「いい感じのお店だね。前から気にはなってたんだけど。一人じゃ入りにくくって」


 浜崎さんが、俺の心を映していたかのように冷や汗をかいていたグラスに手を伸ばしながらやっと言葉を発した。そうですね。初めてなのに何だか落ち着きますね。メニューに視線を落としたまま俺は返答した。浜崎さんも同感のようで、口元を少し緩めているようだった。


 手にしたメニューは黒い革張りの表紙こそシックではあるが、冒頭の飲み物から軽食に至るまでポップなイラストやカラフルな写真がふんだんに添えられ、見ているだけでも紅茶やサンドイッチなどへの愛情がじんわりと伝わってくるものだった。店に足を運んでくれた客に対する丁寧な心配りが詰め込まれたような、そんな一冊を浜崎さんの方にクルリと向きを直しながら手渡した。


「あっ、これ綺麗。飲み会の料理って茶色ばっかりだったから」


 その言葉が妙に新鮮に感じた。


 というのも、俺にとってメニューの選択基準は「旨そうか」或いは「塩分やカロリー」または下世話に「値段」が全てだったからだ。女性と二人きりで店に来たのが初めてだったからかもしれない。料理をみて「キレイ」だとか「かわいい」という女性らしい感性に少なからず驚いた。そして浜崎さんへの想いが一段と高まった瞬間でもあった。


 さっぱりしているしコレにしようよ、と言いながら浜崎さんが指差したのはフルーツパンチだった。清涼感あふれる薄いブルーのガラスの器に炭酸水が満たされ、スイカやパイナップル、サクランボなどが色鮮やかに盛られている。ここまで来てコーヒーや紅茶という気分でもなかったので、俺にしてはありがたかったが、これって二人で同じパンチを注文するってことなのだろうか? ちょっと嬉しいような、ちょっと恥ずかしいような、フクザツな気持ちがむくりと起き上がろうとするのを、次の一言が遮った。


「ねえ、フルーツパンチとフルーツポンチってどっちが正しいのかな」


 パンチとポンチ? 浜崎さんは無邪気な笑顔とともに唐突に質問を投げ掛けてきた。


 えっ、残念ながら知りませんよ……と言いながらも、俺はおもむろにポケットからスマホを取り出した。そのままですけど、と前置きして「フルーツパンチ フルーツポンチ 違い」と入力して検索サイトのボタンを押した。


「あっ、ありましたよ」


 えっ、どれ?どれ? 浜崎さんがテーブルの対面から身を乗り出して顔を寄せてくる。うわっ近い、近いっす。と心の中では声を大にしたが、俺は何も言わなかった。人生で最大の、最小の接近。ふわりと、いい香りがした。


「……って結局、どっちがどうなの、かな?」


 フルーツパンチ。お酒とフルーツが入ったインドの飲み物が語源らしい。英語で表記するとpunch。その発音(pʌntʃ)を聞いたある日本人は「ポンチ」と書き、またある日本人は「パンチ」と書いた、というのが真相のようだ。要するに同じものなのだが、強いて分類するなら「パンチ」は飲み物メイン、「ポンチ」はフルーツメインのような棲み分けになっているようだった。


 分かったような、分からないような検索結果を見て、浜崎さんは少し眉毛を寄せて微妙な表情を作った。こんな顔もできるんだ、とまじまじと見つめてしまった。きょとんとした顔でこちらを見返す切れ長の瞳に、俺はあわてて「ジャア、ソレ頼みましょうカ」と苦し紛れにカタコトのような言葉を放った。


「でもパンチとポンチ。一文字違いなだけで本当は一緒なのね。きっと、お互い仲良しなんだよねぇ……」


 語尾が妙に柔らかく、いや、つやっぽくなっているように感じた。いつもとは違うしっとりした声色。直感的にではあるが、その言葉が持つ雰囲気の違いに気が付いた。恐る恐る浜崎さんの瞳を覗き込むと、あっ、と驚くようにして、顔ごとぷいっと視線をそらされた。


 えっ? いまの仕草はなんだ? さっきの一言に何かのメッセージが込められていたのか? それもとても好意的な……。確かパンチとポンチ、一文字違い。まさか……


 鳥島は迷わなかった。大袈裟ではあるが、人生を決める大勝負というものは概してそういうものなのかもしれない。迷うことなく次の言葉をすらすらと吐き出した。


「『ま』と『み』も、きっと仲良しだと思いますよ」


(続く)



何とか続きを再開できました。無理せず更新いたします。

パン大好き

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