62.総勢6人といえど席順は侮れない。ドキリとしたのは、突然背中から呼び掛けられたという理由だけではない。
サワギクと聞けば、緑豊かな母なる森を源にした、清らかなせせらぎに佇む楚々とした花の姿が思い浮かびそうなものだが、ボロギクという響きには、侘しさと世間に負けたニ人が吐く枯れ草のようなため息に揺れる継ぎ接ぎだらけの姿が立ち上ってくる。
野襤褸菊は澤菊、別名、襤褸菊の一種だという。
満開なのにもかかわらず、文字通りに「花開く」ことはない。彼の生涯において恐らく最高潮の黄金色の冠は、主張することを放棄したかのように慎ましやかにしか輝きを放たない。それほど控えめな彩りにもかかわらず、その華やかなる時期は瞬く間に過ぎ去り、老いたタンポポよろしく綿毛の季節を迎える。雑草としてではあるが、慎ましくも力強く、生命を刻み続けて来たノボロギクが充実のとき。まさに一生の集大成ともいえる純白の綿毛、その見た目がボロのようだからという不当かつ理不尽、当事者にとっては迷惑この上ない命名をされている不憫な花である。
「ボロさんか。俺と君とは似たもの同士だな」
村中先輩に毎日ボロクソにこき下ろされ、身も心もボロボロだ……
街の片隅で恐らく誰の目にも留まらないであろうに寒風に耐え、その身を揺らすノボロギク。
関西の電機メーカー製の液晶画面に納められた、健気に輝く小さな冠を握り締め、職場への階段をのぼった。
翌日の夜は、毎年、部の恒例となっている春の宴会だった。
「え~、今年も親睦会のシーズンと相成りました」
安田部長がビールのジョッキをマイク代わりに、この数年アレンジされた形跡のない宴会冒頭の口上を述べる。バタさんや村中先輩たちから疎らな拍手で返事がなされる。親睦会といっても出席者は総勢6人。なので、ワンテーブルですべてが収まってしまう。
春の親睦会。元々は新入社員がまだ慣れないこの時期を狙って、普段の仕事では図りにくい社員同士の交流を深めるという目的で行われてきた、職場の伝統行事だ。
しかし、ご多分に漏れず我が社も不況の波にのまれ、とうとう今年の新入社員はゼロとなってしまった。これじゃあ面子が変わっていないし親睦する意味ないですね、でもせっかく会社側からの資金援助があるんだから何とか飲み会やりたいね、部長がそうおっしゃるなら開宴は吝かではないですが、ソチも悪よのう、いえ部長ほどでは、くくく…というやり取りがあったかどうかは定かではないが、恒例行事として今年も春先に開催されることになったのだった。
総勢6人といえど、決して侮ることはできない。
席順によっては、気まずいだけの茨の2時間コースもありうるからだ。わざと遅刻するのは社会人としてご法度だろうが、早く着き過ぎて上司や先輩と席次に関して神経をすり減らすのも煩わしい。折衷案として、開宴のジャスト・オン・タイムに居酒屋に到着するように計画した。恐らく先輩たちはすでに着席しているだろうから選択の余地は乏しく、空いた席に放り込まれるだろう。色々考えた挙句、結局は運任せを選んだ形となってしまった。
しかし、天は我を見放さなかった。
濃紺色に店の名前が白抜きで記された暖簾をくぐり、店員の威勢のいい掛け声を受ける。子供の頃に通った銭湯みたいな木製の鍵がついた靴箱が並ぶ入り口で靴を脱ごうと身をかがめると、後ろから聞き慣れた、いやいつまでも聞いていたい声に呼び止められた。
「鳥島くんっ!」
いつもより上ずった声色。ドキリとしたのは、決して突然、背後から呼び掛けられたという理由だけではない。鶏だか鰯だかが混じり合った安っぽい居酒屋のにおいが満ち満ちた空間が、浜崎さんから漂う甘い香りにリセットされる。
「待った? なんてね。これじゃ、恋人同士の待ち合わせみたい、かな」
唐突にどう返していいか分からない言葉を発せられ、古典的なアニメの主人公のように口を半開きにしたままポカンと思考停止してしまった俺の背中を、柔らかい指先が、トン、と押した。
「早く行きましょう。みんな待っているよっ!」
浜崎さんに促されて、まだ酒を一滴も飲んでいないにもかかわらず、ぐらぐら揺れる自我のありかを必死に掴み取るのが精一杯な状況に陥りながら、宴会席へと続く板敷きの廊下を進んだ。
(続く)