61.彼女の視線に、どこか不自然な色を感じた。俺は近くのコンビニで一人、遅めの昼食を取った。
それにしても村中先輩は、なぜここまで俺を叱り付けるのだろう。
その執拗さは、まるで俺が親の敵であるかのようだ。いや、もしかすると俺の知らない世界、たとえば前世で、惚れた女、あるいはお宝なんかをめぐり騙し騙され恨み恨まれ刃傷沙汰になっていた因縁の仲だった、なんて衝撃の事実が突きつけられたとしても納得してしまうくらい、彼は俺を目の敵にしているようだった。
「ホンマに考えられへんわ。契約書やで、契約書。ダイタイお前なあ…」
コピーをし終えた書類を手に、浜崎さんが席に戻ってきた。激しい言葉の風雨にさらされている俺の前を通り過ぎる。うつむき加減ながらも、チラリとこちらに視線を寄越す。前髪が垂れ、その隙間から、自然と上目遣いとなった瞳が俺を真っ直ぐに射抜く。口元が、ほんの微かにではあるが緩んだのを、殊勝な表情を保ちながらも自動追尾を続けていた俺の両眼は見逃さなかった。
がんばれ、鳥島クン!
きっと彼女なりのエールなのだろう。思春期男子もびっくりな俺の脳は、彼女がみせた微笑をそのように理解することに1ミリたりとも抵抗を示さなかった。
ホトケの安田。同僚内では部長の別名として通っている。当の本人に聞こえているのか定かではないが。温和温厚な性格、人当たりのよさから滲み出す人間的優しさが、そのまま渾名となったようだ。
いつもならこの辺りで、まあまあ村中君、鳥島も悪気があってミスした訳じゃないんだし、ね、などと助け舟を出してくれるはずなのだが、本日は未だに頼みの安田丸が入港しない模様だ。今回のミスの深刻度を考慮すれば致し方ないのだろう。藁をも縋る思いむなしく、暴言の嵐に鳥島丸はあわれ沈みゆく。
なんで俺ばっかり……浜崎さんもよく失敗しているけれど、村中先輩がキツく指導していた記憶はない。むしろ、先輩の1つ下で入社6年目の山上さんを厳しい言葉で叱責しているのを何度も目撃しているが、それも俺ほどじゃない。
今回のミスでは会社に多大な迷惑を掛けた。これは心から反省している。しかし、入社から2年。その間にいろんな実績を残してきたのも事実だ。先月には社内でトップの契約数を達成して、初めて表彰されもしたんだ。それなのに、村中先輩は来る日も来る日も叱責ばかり。まったく認めてくれはしない。
もしかして、仕事以外の理由で俺に嫌がらせを?
それは……思考しながら斜め向いの浜崎さんの席に視線を向ける。しかし、悲しいかな聳え立つ書類の山脈に遮られ、着席する彼女の姿を捉えることはできない。
まさか……思い当たる節はまったくないのだが、胸の奥にたった一筋彫られた疑いの渓谷は、瞬間的にその深さと暗さを増大させ、不吉な黒い流れが生まれようとしていた。
考えたくないはずなのに、なぜか悪しき思考が俺を捕らえる。
反省を保っていた表情が解け、視線が宙を彷徨い出したのを敏感に察知した村中先輩が、もういい席に戻れ、との言葉とともに一段と強い睨みを発した。その熱線のような眼力に胸の奥の黒き思考の流れは断ち切られ、俺はスゴスゴと自席に戻るのだった。
今回の契約ミスをリカバリーするべく、書類の手直しやクライアントへ遅れを詫びる再度の電話などの対応に追われていると、あっという間に昼食の時間となった。
この職場にはチャイムはない。部長席の背後の壁に掲げられている比較的大きな時計の針が正午を指すのを見計らって、誰ともなく立ち上がったのをランチタイム・スタートの合図としていた。仕事が立て込んで開始が遅れることもままあるのだが、いくら始動が遅れても1時きっかりに「お勤め午後の部」が始業するのが暗黙の了解となっていた。それがゆえに、なるべく正午に近い時間に、いち早く昼食に向かってダッシュする姿勢を示すことが、結構重要だったりする。
今日は安田部長が立ち上がった。0時0分25秒だ。
「さあ、昼飯、ひるめし~。仕事のできる奴は休むのもうまいっていうもんだっ♪」
と鼻歌混じりに、きっと皆を休息へと促すためにであろう、大き目の声でのたまう。
ちらりと浜崎さんを見ると、なんと村中先輩に声を掛けられている。こくり、と頷く浜崎さん。ふっと、こっちに視線を寄越して、すすっ、と憎き村中に向き直る。オーマイガッ。激しく動揺する俺を置き去りにして、そのまま、2人連れ立って消えてしまった。おお、なんてこった……
悶々としたまま、書類の作成などの対応が片付かない俺は、一人、五階に居残って「昼残業」となってしまい、結局、昼飯にもいけず終い。そして、あろうことか浜崎さんと村中が2人して帰ってくる忌まわしいシーンを目の当たりにする羽目になってしまった。村中の横から、こちらを見やる浜崎さん。意識しなくても俺は自動追尾機能が作動しているので、当然の成り行きとして目と目が合わさる。
浜崎さんの視線に、どこか不自然な色を感じた。
思わず、俯いてしまった俺。くそ、何やってんだか。村中への怒りよりも、そして自分への悔しさよりも、ただ悲しさだけが、ただ空しさだけが胸の奥から湧き上がり、背骨を、全身を空虚に染め上げてゆく。
作業が一段落した俺は安田部長に断って退出し、近くのコンビニのイートインで一人遅めの昼食を取った。バターと糖分のやたら多いパンを齧ったはずなのに、その甘さも風味も冷え切った俺の心を動かすことはなく、ただカロリーだけを肉体に供給した。
仕事場に戻らねばならぬ。
帰り際、会社の向かいのビルの入り口の、手入れという言葉をもう数年にわたり忘却してしまっているような花壇の隅に、小さな小さな黄色い花、それもよく見ないと咲いているのかどうかさえ分からないくらい慎ましく、春の色を灯している花の姿が目に入った。
いまだ肌寒い風に耐えながら、都会の片隅でひっそりと揺れている。濃緑の妙に艶っぽくギザギザした葉も、決して美しいと言えるものではない。けれども、なぜか俺は吸い寄せられるように見入った。そしてスマホを取り出し、プラスチック製のレンズを通して、その健気な姿を男が持つには似合わないショッキングピンクをした筐体内に納めた。
野襤褸菊。
それは、ノボロギクという名の雑草だった。
(続く)