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60.その恋は突然、訪れたのだ。いたずら好きな恋の天使が俺のハートに火を付けたのだ。

相変わらずですが「おいしいパンを作りましょう」の一環です。

念のため…



「お前、何回ゆうたらわかるんや! 失敗は2回までやで!」


 目の前に積み重ねられた書類の束からコピー用紙が2、3枚床にずり落ちないのが不思議なくらいに、職場の空気を震わせて怒声が響きわたる。


 地下鉄の駅から徒歩5分。周囲にそびえる近代的なビルに比べれば、古風でいかめしさすら感じてしまう、ザ・高度成長期を体現するような建物。コンクリートを正しく、四角く組みましたと主張する一段一段がやけに大きい階段を登りきった5階にある一室。


 俺は、先輩の村中に叱責されていた。怒りのボルテージが徐々に上がってゆく。直立不動の俺は、まさしく面罵めんばされていた。


 確かに、クライアントとの会合に遅れた挙句、肝心な契約書を忘れてしまったのは言い訳のできないミスだ。社運を賭けたプロジェクトというほどではなかったが、いや、そもそもそんな重要な契約を入社2年目の俺が担当するはずもないのだけれど。

 面前で爆発し続けている村中先輩や安田部長のとりなしで、先方さんも、これまでの付き合いもありますから、なんていう大人な理由で何とか納得してくれて、無事に契約に漕ぎ着けられたのだけれど……元はと言えば、その会合に遅刻した理由はあなたですよ、ムラナカさん。こっちがもう時間がないって何度も言っているのに、ギリギリまで無理な仕事を押し付けるから……


 何で俺ばっかり、と口に出した訳ではないが目付きと態度がそう言っていたのだろう。目の前の男はさらにヒートアップする。


「1回目。これはしゃあない。誰だって、最初っちゅうのがあるからな。最初から完璧にできるやつがおったら、そらかみさんやで。間違おうてもしゃあない。ほんで2回目。これも、まああるやろ」


 徐々に熱気とスピードが上昇する。各馬譲らぬまま最終コーナーを競り合い駆け抜け、いざ怒涛の直線勝負へ。結末が分かっているだけにツライ追い込みだ。


「でも、3回目はないで! さ・ん・か・い・め・は!!」


 夜まで続いたデート。今日は本当に楽しかったね。じゃあ、またね。去り行く車。見送る私。あ・い・し・て・る。愛しの人が伝えてくれるテールランプの瞬き……こんなメッセージなら嬉しいのだけれど、眼前で怒気と「和気藹々(わきあいあい)」している男は、叱責の言葉を一言一言区切るようにして刻んで、俺へと投げつけた。


 雑然と積まれた書類とファイルの山脈の向こう側で、浜崎さんが立ち上がった。わざと、こちらを見ないようにしているのだろう。視線は、5メートル先にどかっと鎮座しているコピー機にロックオンされている。


 あっ、浜崎さん、きょうは髪をアップにしているんだ。濃いブラウンの、決して黒ではない、しなやかな髪は、昨日まで毛先が肩に触れるかどうかの微妙な位置で楽しげに揺れていたはずだ。黒いレースのフリルが付いた髪留め、シュシュというらしいが、その髪留めで今日はざっくりと束ねられている。あらわになったうなじと後れ毛が、男ばかりの鼠色が支配する職場だからだろう、なんともいえず艶かしい。


 浜崎さんは俺の1年先輩だ。入社3年目だが、実は俺と同い年であることが最近判明した。この重要機密情報に関しては、人事担当の同期に多大な感謝を捧げたい。仕事はミスなく、そつなくこなして、対人関係でもトラブルがあったと聞いたことがない。常に静かに黙々と仕事に打ち込んでいる。

 

 きっかけが何だったか、今では分からない。

 いや、きっと、きっかけなんて何もなかったのだろう。


 その想いは突然、訪れたのだ。

 きっと、いたずら好きな恋の天使が俺のハートに火を付けたのだ。


 そんな、こっ恥ずかしい言葉ワードが素直に心に浮かぶ位に、浜崎さんのとりことなってしまった。そうなってしまうと手がつけられない。浜崎さんは俺の斜め向かいの席で仕事をしている。すっと立ち上がる姿。視界の端に浜崎さんの顔が映る。ただ映ったはずなのに、意識にくっきりと、その表情が飛び込んでくる。クレーの事務机や雑然と山のように積み上げられた書類は瞬時に消え去り、浜崎さんの浜崎さんによる浜崎さんの舞台ステージが出現する。


 向こうが意識している訳では決してないのに。こちらの意識はオートで照準を合わせてしまうのだ。二十代も後半になって思春期男子かよ、と言われても残念ながらそれを否定するだけの自信はない。笑わば笑え。仕事中なのだが…


 どこといって、特徴のある女性ではない。

 こう言っては失礼になってしまうのだけれど。


 美しいとか綺麗とか、これもまた申し訳ないが、そういった形容は選択の外にある。女の目には鈴を張れに逆行するような、切れ長でむしろキリリと鋭さを感じる目元。平均的な女子より華奢で、か細い腕や脚。そして、軽やかというよりはハスキーな声色。雰囲気をもし言葉で表すならば「クール」が最も適切なのだが、その全体から発せられるオーラは決して棘々(とげとげ)しいものではなく、むしろ、温かさと安心感を抱かせるものであった。


 何よりも、その黒い瞳が内包する意志の強さ。

 これにてられたのかも知れない。

 

 「おい、鳥島。おまえ、ちゃんと、聞いてんのんか!」


 先輩、村中の怒りは爆発マックス。その怒声は、大地を震わせ大気を突き抜け、土星まで届いたという。地球を優に離れ、浜崎ワールドという名の小宇宙に逃避していた俺の心は、灰色の、5階の現実に引き戻されたのだった。


(続く)

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