53.「いつもの、ですか。さすがバタさん」 バーEmの夜は更けて。
バーEm。
バー・イー・マイナー。
哀愁を帯びたホ短調。
駅前の繁華街と、生活感漂う下町の、ボーダーラインに灯るネオン。
安っぽい鈴の音が鳴り響き、開いた扉。
男の姿が2つあった。
一人は見慣れた男、バタやん。
しかし記憶をいくら辿っても、彼は一人だった。
マスターの眼は驚きで一瞬、丸く見開かれた。
カウンターの定位置が空いている。
バーの神様の気遣いに、バタやんは密かに感謝した。
「折角の後輩との特別な時間を気兼ねなく過ごしたい」
バタやんは密かな願いが叶ってほっとしていた。
誰かと連れ立っての来店は初めてだった。
いつもと違う席だと居心地が悪く、そのことに余計な気を使っていただろうからだ。
「珍しい、って思ってるんじゃないの?」
チラチラと、こちらを確認する視線を送るマスターを軽く牽制した。
マスターは柔らかな笑顔をキープしたまま肩を竦めて、
「今晩は、ご機嫌がよろしいようで」
とすかさずジャブを返した。
店内は、後方のテーブル席にカップルが一組いるだけだった。
若い男女が表情も冴えないままボソボソと言葉を交わしている。
その内容に少々興味が引かれたが、今夜に限ってはそれどころではない。
山上が隣の席に落ち着くのを見計らって、マスターにオーダーする。
「私は、いつものを。彼は……」
と、言葉と視線を山上に投げ掛ける。
「いつもの、ですか。さすがバタさん、カッコいいっすね」
カッコイイ、かっこいい……
普段、掛けられたことのないワードにバタやんの気持ちがさらに膨らむ。
山上は、さりげなく店内を見回しメニューに眼を落としている。
そんな仕草を見るに、このようなバーにも慣れている様子だった。
「さっきはビールばっかりだったので、ジントニックを」
道すがら「酒が好きだ」と聞いていたので、超メジャーなカクテルが飛び出したことに、バタやんは肩透かしを喰らった思いだった。
しかし、ふと自身が若かりしころジンにハマっていたこと思い出し、何だか妙に懐かしい気持ちになった。
そんなことから彼に合わせてジンライムに変更しようか、と一瞬考えた。
しかし、ここに来て自分のペースを崩したくないという本音が勝った。
「それにしても安田さん、どうにかならないっすかね」
山上は愚痴を切り出した。いきなり会社の話とは、物事には順序があるだろうに、と少しむっとする。
そんなバタやんの前に、いつものカクテルが差し出される。
相変わらず華やかな香りと深い琥珀を湛えているが、
今夜は、さらに輝きが増しているように感じた。
勢いよく会社の愚痴を続ける山上。
おつまみのポテチの皿を差し出しながら、耳とグラスを傾ける。
ジントニックが空になった。
彼の話の内容も空っぽだけど…などと、心の中で毒づきながら、
カタルシスとか、飲みにケーションとか、
そんな単語がバタやんの頭をよぎった。
2杯目のオーダーと同時に思い切って山上に問いかけた。
「酒が好きなら、これを飲んでみないか」
バタやんは自身の空になったグラスを持ち上げて示した。
しばしの間をおいて運ばれた2つのグラス。
大き目の氷を湛えたグラスが仲良く並んでいる。
「では、いただきます…ふう、甘いですね、これ」
それに強い。まじまじと右手のグラスを覗き込みながら、山上は感想を述べた。
白熱球に向かってグラスを掲げ、光の揺らめきを楽しんでいる。
よかった、気に入ってくれたようだ。
山上は2口目を含み、香りを堪能した後、チェイサーに手を伸ばした。
「強いよ。だってスコッチを、ドランブイで、割ってるんだから」
ひとこと、ひとこと区切るようにして、バタやんは伝えた。
もしかすると、彼はこの酒の「物語」を知っているのかも知れない。
……と、期待する方が、おかしかった。
彼はあっさり聞き流して元の愚痴に戻っていた。
「でね、安田さんが、前の会議でまたやらかしたんですよぉ」
山上はさらに続けようとしたが、目の前の男が不機嫌な表情をしていることに気が付いた。
そして、彼に向き直り、聞いた。
「この酒、なんていうお酒なんですか」
普段なら、こんな唐突で不自然な話題の切替えに、バタやんはさらに不機嫌さを増していただろう。
しかし、そんなマイナスな気持ちは一瞬で蒸留され、蒸散していた。
山上から質問を投げかけてくれたことが、ただただ嬉しかったのだ。
「ラスティーネイル」
その一言が合図となった。




