52.安心と信頼のバタやん。話題の渦を離れ、末端のテーブルに咲いたパン談義。
「おいしいパンを作りましょう」の一環です。毎度のことですが。
その男の前にはいつも琥珀色をたたえたグラスがあった。
男はわざとグラスを持ち上げ、白熱電球に照らす。
大き目の氷が、光を乱反射しながら緩やかに回り、揺れる。
あの頃に見た光の明滅と、
いま眼に映るこのきらめき。
いかほどに異なっているのだろう。
20年ほど前、初めてこのカクテルを飲んだ日のことを思い出す。
白熱電球に照らし出された男の眼つきが、ふと優しいものとなった。
男は静かに飲んでいる。
いつも一人。
大抵決まった時間に来て、これまた、お決まりのカクテルを注文する。
無言でグラスを眺めながら15分位過ごした後、店を出てゆく。
「あのヒト、昨日もいなかった?」
赤いソールのハイヒールが問う。
この場所で、他人の詮索はご法度だ。
「さあ、ねぇ」
マスターは、あからさまに不機嫌な顔はしなかったが、その声の主への視線は幾分か厳しいものとなった。
「あら、余計な質問だったわね」
カウンター席に浅く腰掛けた女は肩を竦めて、目の覚めるような、泡立つ、ブルーのカクテルに手を伸ばした。
バタやん
職場で、彼はこう呼ばれている。
もっとも、若手や女史からは「バタさん」と親しみを込められている。
苗字は田畠。
同じ読みとなる「昭和の名歌手」のニックネームによったものだろう。
「まあ、タバやんよりは語呂と弾みが心地いいかな」
彼自身も満更でもないようだった。
しかし、バタやんと呼ばれているのにはもう一つ理由がある。
真面目を絵に描いたようなバタやん。
その仕事振りは、決して華やかではない。
誠実そして堅実かつ確実。
性格を正確に反映したようなマジメ三拍子は、その外見にも現れていた。
上着は、いつも決まって少し濃い目のベージュのシャツ。
恐らく仕事着として、同じ型の服を複数そろえているのだろう。
よく見ると、毎日、似ているが少しずつ違うシャツのようだ。
5着購入していて、月曜、火曜…と曜日ごとに用意してるのかも。
まったくもって噂好きな女史たちの推理を確かめる術はない。
けれども、どうやら、そのまま「当たり」だったりもする。
そして、あだ名同様に昭和の香りが十二分に漂う足元。
バタやんは懐かしき室内履き、ヘップを愛用していた。
急ぎの仕事が舞い込んだ時。
書類の山と、コピー機と、担当者の間を、まるで測ったかのように最短距離で駆け抜ける。
その足元ではヘップが強かに、勢いよく床を打ちつけバタバタバタ……
それが、「バタやん」の呼び名を不動のものにした理由でもある。
繰り返すが、仕事振りは決して華やかではないバタやん。
けれども、誠実そして堅実かつ確実。
職場に響くバタバタは、
上役には安心感を、
同輩・後輩には信頼感を、もたらす音だった。
その日は忘年会だった。
居酒屋の一角を貸しきった宴会場の、末端のテーブルでバタやんは背中を丸めていた。
にぎやかに花咲く話題の渦を、いつものように、端から静かに眺めていた。
誰もそれを咎めなかった。
いや、気にしなかったと言ったほうが適切かも知れない。
それを見かねた訳ではないだろうが、話題の渦から弾き飛ばされた一人の若い男が話掛けてきた。
珍しく、話が合った。
昼食の、それもパンの話だった。
「メロンパンが好きなんです」
特に丸い形ではなく、アーモンド型のメロンパン
白あんがもっちりしていて…
あれ、メロンの形をしていないのにメロンパンなんでしょうね
それはね、夕張メロンのようなマスクメロンじゃなくてね、マクワウリの形から来ているようだよ
えっそうなんですか、ってマクワウリって何ですか
知らないかなぁ、思ったよりいい香りなんだよねぇ
……
そういえば、駅前のパン屋さんに最近、そのメロンパン入りましたね
そうだね。でも、このごろ見ないあのパンも…
末端のテーブルに咲いたパン談義。
「意外な一面があるのだな」
と思ったのはバタやんも、そして若い彼、山上も同じだった。
忘年会もお開きとなり、幹部の取り巻きたちはそのまま二次会に移った。
パンに気持ちが膨らんだのかも知れない
バタさんは、山上を行きつけのバーに誘った。
山上には断る理由などなかった。
(「バタやん編」続きます)
もうネタがバレそうですね。そんなに深くないネタですが…