92.彼女もこちらを見ていたようで、バツの悪そうな顔をして少しだけ舌を出した
あくる朝は、何事もなかったかのような快晴だった。いつものように鐘が打ち鳴らされ、すがすがしく村の空気を揺らす。しかしながら、深夜の戦いのせいで活動している村人はまばらだった。
それは、村長の館とて同じことであった。ただ、聖なる灯の守り手であるモムルとミーアは、代々受け継がれてきた朝の礼拝を欠かすことはできず、眠い眼をこすってレガート神への祈りを捧げていた。
ミーアにはモムルのほかに二人の兄姉がいた。四人きょうだいの中で一番おっとりした性格のミーア。そして、何事においても一番器用にこなしてしまうのもまた、ミーアであった。そんな訳で、本来ならば末っ子として世話をされる立場であったはずが、母とともに家族の柱として家事全般をそつなくこなし、父とともに村長の一族としての司祭関係などを任されることが多くなっていた。
そして、父が病に伏せてしまった。長男であるモムルは村長の代行としての自覚を持ち、その任に当たったが残りの兄と姉はあっさりと村を出てしまった。
「私だって、外の世界を見てみたいのに……」
押し付けられたような形となって村に残されたミーアは一人ごちる。聖なる灯の守り手としての責務に不満がある訳ではないし、優しいモムル兄さんの手助けもしてあげたい。村の人たちも優しく労わってくれる。
けれど……村を出たい。村を出て、色んな世界を見てみたい。いや、私は村長の一族。そんなことを考えてはいけないのよ、などと真面目なミーアは自分に言い聞かせるのだが、自分の心を抑えれば抑えるほどに外の世界への想いはますます強まっていった。
そんな中、王宮から邪炎の襲来を告げる使者が村に駆け込んできた。続いて登場したのが、水の魔法使いアシスであった。ミーアにとってのアシスは世界を救った魔道士ではなく、ワタシの知らない外の世界を知っているお方、だった。アシス様と一緒に旅ができれば、どんなにか楽しいのだろうか。せめて、お話だけでも聞かせてほしい……。
少女の胸に募るそんな想いを果たして「恋」と呼べるのかどうかは、当人にしか分からないことではあるのだが。
「朝食の準備が整いましたよ!」
朝の礼拝を終えたミーアがアシスの部屋を訪れ、上ずった声で告げる。
「ミーアの君がお呼びでございますよ、アシス様!」
「ああ、分かった。っていうか、おいロッド。何でそんなに他人行儀なんだよ」
「さあ、ね!」
もしロッドに表情があるのなら、プイッと横を向いてしまったかのような拗ね具合だ。一体どうしたのだろう。思い当たる節はないのだが……アシスは疑問に思いながらも、手早く身支度を済ませて食堂へと向かった。
テーブルにはモムルとミーアが先着していた。モムルは緊張した面持ちで朝の挨拶を述べる。
「これはこれは、おはようございます、アシス殿」
まるで初対面であるかのようなぎこちなさ。緊張感を多分に含んだ声色なのは、昨晩の戦いの最中に忘却の呪いが発動したことによるものだろう。モムルは俺のことを忘れてしまっている。ミーアが何とか取り繕ってはいるが、彼の表情には大きな「?」マークがありありと浮かんでいた。
いや、そもそもミーアが俺のことを覚えていることこそが異常なのだ。なぜ呪いが効いていないのか理由は分からないのだが。
「海と大地と神の恵みに感謝いたします」
モムルが食前の祈りを捧げる間、アシスはちらりとミーアを見た。黙祷のはずの彼女もまたこちらを見ていたようで、バツの悪そうな顔をして少しだけ舌を出した。
いつもならば呪いの奥底に深く閉じてゆくアシスの心にはミーアがもたらした一条の希望の光が差していた。




