86.緊迫感が産み落とした、奇妙ともいえる静寂を破ったのはアシスだった。
突如として立ちはだかった存在は、まさしく巨大な闇というほかなかった。
その巨大な邪炎は、村人たちを取り囲む数体の敵より幾倍も禍々しさを増した炎を身に纏っていた。いかなる光も届かぬ地底に巣食う闇の深淵が裂け、漏れ出したかのようなおぞましき負の圧力を帯びた炎。時折、直視できないほどの明るさと熱量を肌に感じるにもかかわらず、邪悪な暗黒と対峙しているような恐怖感をモムルたちに刻み付けた。
歴戦のアシスとて例外ではなかった。これまで感じたことのない、ひりつくような緊張感。脳内でアラートが鳴り響く。
「これほどまでの邪炎は初めてだ。ロッド、分かるか?」
レガートの分身ともいえるロッドなら何か知っているかもしれない。そう思い問い掛けたが、返ってきたのは期待する返事ではなかった。
「俺も知らないよこんなデカい邪炎。こりゃあ、巨人……いや人ってのもおかしいから、ジャイアント、か」
ロッドによって命名された彼の巨大邪炎、ジャイアントをミーアと村の兵士たち、そしてなぜか周囲の邪炎たちも動きを止め、半ば呆然と見上げていた。
「なんという大きさだ……」
モムルは額に脂汗を浮かべてつぶやいた。圧倒的な闇の覇気に押され無意識に後ずさってしまうが、背にミーアを感じてかろうじて踏みとどまった。
ジャイアントの圧倒的な存在感による緊迫感が産み落とした、奇妙ともいえる静寂を破ったのはアシスだった。青き水魔法の輝きが漲るロッドを最上段にかざす。それに呼応するようにジャイアントもまた黒く深い紅の炎の激しさを増し、その身を一気に膨れ上がらせた。
「くそっ、やはり魔法を使わねばならないのか!」
水魔法を放つか否か。この期に及んでなお、アシスは逡巡していた。その躊躇が、ジャイアントの先制を許してしまった。
ヴォヴォヴォオオオオオアアアアアアアッッ!!!
ジャイアントがあげた地獄の咆哮は空間と大地をびりびりと揺るがし、村人たちは一気に腰が砕けてしまった。一拍すら置かず、ジャイアントは目にも留まらぬ速度で2本の触手を振り抜いた。空間を切り裂き迫る暗黒の炎を帯びた魔法波は、容赦という言葉を焼き払い、村の兵士たちに襲い掛かった。
「ミーアッ!」
「はい、兄さんっ!!」
絶体絶命の窮地を救ったのは、阿吽ともいえる兄妹の絆だった。モムルとミーア、双方が同時に聖なる炎の魔法を展開し、かろうじてジャイアントの初撃を相殺することができた。
だが、これを合図として周囲に滞留していた数体の邪炎が動きを取り戻してしまった。村の兵士たちは邪炎への対処で手一杯となってしまう。とはいえジャイアントはまたもや身体を膨張させており、恐らく数秒も経たないうちに追撃が襲ってくるだろう。モムルとミーアは邪炎に囲まれながらも、ジャイアントに対して最大限の注意を向けなければならなくなった。
「むっ、無理です。モムルさま、我々だけでは邪炎を抑えることができませんっ!」
若き兵士が告げるよりも先に、あやうく保たれていた力の均衡はイラード村にとって悪い方へと崩れ出した。周囲からじわりと迫り来る敵。その機を見計らったかのように、ジャイアントの第2撃がイラード村の軍団に襲い掛かる。
「邪なる炎を破せん! ウォーター・アロー!!」
アシスはもはや呪いに構わず、ミーアたちに襲い掛かる一撃に水魔法を叩き込んだ。
鋭く振り下ろされたロッドから青き閃光の矢が迸る。正と負の魔法が衝突し、ガラガラガシャンとガラスが砕け散るような連続音を響かせた。相殺された水と炎の魔法は光の粒子へと分解され、殺伐とした戦場には場違いな幻想的なきらめきが闇夜に舞い散った。
ジャイアントの攻撃は間一髪のところで食い止められた。だが……
ミーアは邪炎に囲まれた戦場の真ん中で、突如として激しい悪寒に襲われた。
前触れもなく胸にぽっかりと穴があけられたような、得体の知れない喪失感。腹の底をえぐるような吐き気。それに加えての激しい眩暈に耐え切れず、よろめき、片膝をついてしまった。
「ミッ、ミーア様!」
少女とはいえ、イラードの柱の突然の窮状に村人たちは色を失った。
「大丈夫。みんな、私のことは心配しないで」
ミーアはこれまた動揺を抑えきれないモムルに抱きかかえられて、やっとのことで立ち上がった。