78.内側から香り立つ美しさに寄せられた、ほのかな好意。しかし、想いはかき消された。
辺境の草原でアシスが沈黙したのとほぼ同時刻。
世界の中心で、ソラリス姫はつややかな黒髪の毛先に手を当て、少々ご不満な様子だった。
この世界の首都と称されるクワード・シティー。荘厳なホワイトキャッスルは中心街のそのまた中央に悠然とそびえ立っている。世界政府などの中枢機能が置かれる白亜の城の一室で、ソラリスは物憂げな表情に沈んでいた。
「こんな髪、アシスさまにお見せできないわ……」
ふうっ、とため息が漏れた。それは決して、鏡に映る癖っ毛が何度手なずけても整わないという理由からだけではなかった。
かつてこの城を邪炎の脅威から救った英雄アシス。ソラリスの手には、彼から貰い受けた髪飾りが握り締められている。王城にあってソラリスが暮らす一室は極めて質素だった。その立場からして富を尽くした豪華な調度品が整えられていて当然なのだが、彼女の凛とした飾らない性格が過剰なまでの装飾を拒んだからであった。
バラの花園に咲いた、一輪の野菊のような女性。ソラリスがアシスを慕ったのと同じように、アシスもまた、彼女の内面から香り立つ美しさにほのかな好意を寄せていた。
「ああ、アシスさま……」
たわいもない乙女の独り言。
だけれど、アシス……ああ、たった三文字の言葉を発しただけで、鼓動が早まってゆく。
英雄がこの地を去って、すでに2週間が経ってしまった。別れ際、必ずまた戻ってくるよと優しく告げられた言葉が胸の奥底に温かく留められている。
けれど、アシスを必要とする人々が世界中で待っていることも知っている。
もう二度と会えないかもしれない……
焦燥にも似た想いが、ソラリスの中でどんどん大きくなる。アシスへの想いもますます募る。
別れ際、彼から手渡された髪飾りに視線を落とし、姫はつぶやく。
「ああ……いまどこにいらっしゃるのかしら?」
その言葉を言い終わらない内に、ソラリス姫は突如として異変に襲われた。
えもいわれぬ悪寒が身体の中心を脅かす。
胸の奥の、とても大切な部分をかき乱されるような不快感。不協和音の耳鳴りが脳を揺さぶり、目の前の景色がグニャリと歪む。
重度の眩暈に襲われたソラリスは、たまらず鏡台に両手を付いた。
何とか転倒しなかったものの、立っていることすらままならない。そのまま床にへたり込んでしまった。
数分経ってようやく動悸がおさまり、何とか立ち上がることができた。
鏡には土気色の肌にくぼんだ眼、乱れた髪の若き女が映し出されていた。
「一体いまのは何だったの? もしかして悪い病気なのかしら?」
唐突な身体の変調にソラリスは不安な気持ちに襲われた。
そして、ふと気づいた。
右手に髪飾りを握っていることに。
濃いブラウンのローズウッドを粗く切り出しただけの質素な髪飾り。
いくら華美を拒むソラリス姫とて王族が纏う衣装と比べては、残念ながらまったく釣り合わない。
「こんな粗雑な髪留め、なぜ手にしているのかしら?」
ソラリスは髪飾りを鏡台横のテーブルに投げるようにして置いた。
カランと軽く硬質な音をたて、髪飾りは彼女の視界から外れた。
アシスとの思い出が刻まれた、唯一の贈り物の髪飾りだったが、この後二度と彼女の目に触れることはなかった。
先ほどの悪寒によって、ソラリスの心はアシスを失った……寄せていた淡い想いや思い出、正確にいえば、アシスの存在自体が彼女の心の中から消え去ってしまったのだった。
命の危機に颯爽と現れ、助けてくれた出会いも
こっそり一緒に城の外に出た、庶民街での食事の時間も
月明かりの下で心躍らせながら交わした言葉の数々も……
優しく慈悲深いソラリスの心からアシスのすべてが消えてしまった。
「クワードの姫との思い出が失われたようだぜ」
魔法を放ったアシスに対して、ロッドが発した忌まわしい宣告。
俺の身を縛る呪いの名は「忘却の呪縛」という。
大切な人と過ごした、忘れがたき思い出。
人と人を繋ぐ、温かく、豊かな想い。
俺が使う水魔法のエネルギー源、つまり魔力の源は「親しき者の記憶」。
強力な魔法を使えば、人々の俺に関する記憶が消去されてしまうという呪いが発動してしまうのだ。
世界を旅し、出会った人々と触れ合い育んだ友情や愛情。
邪炎との戦いや日々の憩いの中で、互いに互いの心に刻んだ唯一無二の証し。
それらの「想い」を消費して、俺の魔法は行使されるのだ。
邪炎から愛する人々を守るために魔法を使えば、それと引き換えに自らの存在が忘れ去られてしまう……
カミに対して刃を向けたが故の罰として、俺がこの身に受けた呪いは残酷な枷となって俺を締め付けている。
優しさと信頼に満ちて近しかった眼差しが、冷たく値踏みするような遠い視線に成り果てる瞬間。この世での俺の存在、それ自体が激しく揺さぶられる。こんなにも悲しく打ちひしがれるくらいならば、いっそ俺の記憶も消してくれればいいのに……カミに対して、何度願ったか分からない。
「アシス聞いているのか?」
「ロッド、いい加減、いちいち報告するのをやめてくれ!」
あまり丈夫でない神経を存分に逆撫でされた腹いせに、強い口調でたしなめた。
「仕方ないだろ。俺はレガートさまの使いなんだから」
表情はないが、ふくれっつらをしているような口調でロッドが返した。
眼前の水色の髪をした少女は、地面にへたれ込んでいた。
人間にとって恐怖の対象でしかない邪炎を実際その眼に収めただけでもダメージは計り知れないだろうに、直接危害を加えられそうになるとは……気を失っていないことが奇跡にすら感じる。
「大丈夫か?」
立てるか? 続けて聞きながら、少女に向かって手を差し伸べた。
少女は頬にまで掛かったバサバサの前髪を慌てて手櫛で整え、一瞬、こちらに視線を向けてから、うつむいた。
「なんとか……一人で立てます………」