ナルヴォンヌへ・・・
馬車が到着したのは、すでに夜半すぎ。
猛烈な風雨のなか、
息せき切って帰宅してみたら、
玄関に掲げられているべき絵がなくなっていた。
冷静沈着を旨とする青年が、
隙を突かれたゆえの失態か、
彼らしくない行動に出てしまった。
感情に任せて下女の名前を叫んだのである。
これはどうしたことだ。
玄関に充満した空気は、
彼が動揺していることに疑問を呈している。
あの絵がなくなることが自然だというような雰囲気はどうしたことだ?
もしくは絵の存在そのものが虚偽かのような雰囲気は?
そのようなことはありえない。
いったい、誰が忘れるというのだろう?
たしかに旅人が出発する前には、白い壁に掲げられていた。
出かける際には、
ちゃんと自分を見送ってくれたはずなのだ。
それなのに、家に入るなり見上げると、
ただただ白っぽい長方形が、自らの存在を主張しているだけだった。
暗示的に陽光の存在が不快な方法で知らされる。
それは確かにここに絵があったという証拠にはなるだろう。
陽光は壁に固定化された。
しかし確かにここにあった絵がそれを避けた。
黄ばんだ壁は、太陽の排泄物の痕かもしれない。
ぷーんと、腐った肉が燃えるような臭いが漂ってくるが、
それでも万物にとって陽光はありがたいものなのか。
さすがに何か月も雨や霧に空が覆われる季節になれば、
たしかにそれも一理あるが。
白くなった壁は、
陽光の情愛から取り残されたことを恨みに思っているのか。
黄色い汚れを免れたというのに、
大恩のある絵に対して不満を抱いていたのか、
いなくなってせいせいするといった顔をしている。
そんな貌をみていると、
育ちや、
彼自身の資質に似合わぬ行為をしてしまいそうになる。
唾を吐く。
まさか本当にするはずもないが、
心のなかで密かに行うだけのことだ。
コートを抜けて侵入してきた水分と、
肌が互いに、
喧々諤々(けんけんがくがく)のけんかをはじめた 。
それを直に感じる気持ち悪さが、
まさか思い出させたわけでもあるまいが、
事ここに至って、
出発前に、
下女に一定の給与を与えて、暇を出したことを思い出した。
彼女だけでなく執事にすら同じことを布告していた。
結局、この家には彼の他にはだれもいない。
いるとすれば、
ここに掲げられているはずの絵だけだ。
キューピッドのような少女像は、
複製品にすぎないが、
青年にとってみれば、
本物よりもよほど価値がある。
それが巨匠の作品であることなど何の意味も持たない。
生まれる前からあった絵は、
彼にとっては親友も同然だった。
物心がついたときには、
彼女は自分を見下ろしていた。
彼女といっしょによく遊んだり、笑ったり、言葉を交わしたりしたのだ。
大人たちがいくら、ただの光の加減にすぎないと教えても、
画の中で、
ちょこんと座る女の子の目は互い違いにみえた。
自分と同じように左右の目が違う光の色を放っている。
右は薄い蒼、左は漆黒。
青年は、
生来の特殊性について、
簡単に答えを出せない状況に追い込まれていた。
もっとも、
両親が気を利かせて用意したのだと考えるようになったときには、
彼女は年下になっていた。
自分が生まれる前からここに掛かっていたことを、
知るまでは、自説を曲げることはなかった。
それでも、
自分のような奇形児が生まれることは、
事前にわかっていたのではないか、
そう無理な論理を展開するほどに、
少年は鏡に映る自身を憎んでいた。
この醜い双眸は何が因に依る神罰か?
馴染みの聖職者は聖母のような微笑をみせつつも、
裏ではそう言っているように思えた。
多くの者たちが陰で自分をどう呼んでいるのか知っていたからだ。
そこへいくと、
彼女だけは自分の気持ちをわかってくれるような気がした。
彼女だけには思いの丈をぶつけることができた。
そういう思いが籠っているはずの絵が、
あるべきところから消えていた。
まるで額縁に足が生えていて、
絵をどこかに連れ去ったかのようだ。
彼女が自身の自由意志によって消え去ることはありえないと、
青年は断言することができた。
ふと彼女の声が降ってきたような気がした。
「もう夏じゃないんだから、濡れたままだと風邪をひくわよ」
姿形はあいかわらず幼児であるはずなのに、
声や言葉の内容だけは自分の成長に合わせて大人になっていったことを思い出した。
それは、
ここに絵が掲げられていなくても、
たしかに彼女の声と言葉が存在していた、
そして、
いまもなお生きている証拠だというのだろうか?
激しい風雨はなおも続いていることが、
それとわかる音から容易にわかる。
雨は降らねばならないのか?
風は吹かねばならないのか?
いったい誰の許可を得て?
青年の記憶だと、
彼女は凄まじい音や光、
つまりは、
人ならぬ神々が、
豪雨や雷を通じて示す怒りや叫びに対して、
生まれつき体制が備わっていたようだ。
青年はそうではなかった。
寝具を頭から被って、
すぐにでも去ってくれるように天に向かって祈念を捧げたものだ。
なおも収まらないと、
いつのまにか、玄関に向かっていた。
彼女を見上げるためだ。
ふつうの子供だったら、
泣き叫んであたりまえだというのに、
彼女は、
穏やかな表情を、
あどけない顔に湛えていた、
あいもかわらず。
青年は彼女の進言を受け入れて、
濡れに濡れたフロックコートを脱ぐことにした。
下女がいないので、それを渡す相手はいない。
そのかわりに彼女が受け取ったような気がする。
思わず、こんなことを口にしてしまう。
「きみがそんなことをする必要はない」
不思議なことに絵が姿を消した、今の方がよりいっそう彼女をリアルに感じることができるようだった。コートを手渡しした。彼女が受け取る。その瞬間に布地に連動して、彼女の手の動きが伝わってくる。そういうかんじがやけになまなましい。彼女の息遣いまでもが手に取るようにわかるようだ。彼女がじっさいに生きていて、ここにいるのだと実感できる。
それにしても複製画だというには本当なのだろうか?
青年は奥に引っ込んでいた。
食欲はないが、
何も口にしなければ 彼女に何を言われるのか、わかったものではない。
長旅のために、あらかじめ用意していた食糧の残りがカバンに入っていた。
料理人がいるわけもない。
下女や執事がいないのだから、ごく当たり前のことだ。
しかし、
単なる干し肉とカスだけ残ったパンだけの夕食にあっても、
食器とナイフとフォークを用意する。
それもこれも、
すべて、
本来ならばここに非ざる彼女の視線ゆえだった。
誰の目もないならば、
パンを食べるように手で口にもっていけばいいだけのことだ。
彼女は確かにここにいて着席していた。
すこしでも、
青年が礼儀を欠くことがあれば叱責の荒を浴びせかけるだろう。
しかも、
無言のままだということが、
余計に怒りを感じさせるだろう。
投げつけてくるのは、
油絵の塊か。
彼は油彩の経験はなかったが、
鼻を付く臭いが、
それと容易に想像させた。
画家はどういう思いで、
あの絵を描いたのか?
いちおうは、モティーフは巨匠の作というから、
画学生が修練の一環としてキャンパスに筆を振るったのか?
それにしては、
絵の素人が言うのは変な感じだが、
どうも技術について習熟しすぎている。
どうも目に力がありすぎる。
人物画において、
何処をみれば、
その画力のある、なしを判断できるのか?
簡単なことだ。
目を視ればいい。
彼女は・・・、
あえて言及するまでもない。
モティーフは、
エウロペ有数の大都市であって、
旅行者がまずは目的地として目指すべき街だった。
だが青年はそちらに足を向けたことがなかった。
その絵がある美術館に行かなければいいだけのはなしだったが、
街そのものがその絵のような気がして、
脚が向わなかったのだ。
本物をみるのは怖かった。
そうすることで、
彼女が否定されてしまうことが怖かった。
そちらが本当の彼女だと判明してしまえば、
世紀の大泥棒にならねばなくなる。
青年は、しかし、本物はどのようなものなのか想像しないわけにはいかない。
もしも複製品のように目の色が互い違いならば、
もっとそのことが話題になってもいいはずだ。
何といっての巨匠の作。
そして互い違いの目の色は、
悪魔の暗喩だというのは、
エウロペにおいて半ば常識となっている。
違う目の色の光は、
複数の人格を暗示する。
青年はそういう目で周囲からみられてきた。
だからこそ、
彼女を唯一の友として仰いで育った。
彼女だけは青年の気持ちをわかってくれるはずだった。
そういう言葉をここに座している彼女に語りかける。
こんなことははじめてだった。
絵に直接、語りかけることは幾度となく繰り返してきたことだった。
しかし、
彼女を想定して、
ここにいるべきだと。
彼女は言った。
「私はあなたの目が好きよ」
とたんに窓の外で風がゴウッという音を立てた。
言外に何が言いたいのか、
それだけが青年の関心ごとだった。
このことに限っていえば、それは彼の対人のすべてである。
それを彼女に向けたということは、彼女の実在を認めたということだ。
彼女は続ける。
「私があの絵を描かせたの」
どういうことかと詰問すると、
彼女は画家が虚偽を描いたことが許せなかったらしい。
普段から「嘘をつくな」と言っていた画家本人が、
虚偽を世間に発表することを許せなかったと、彼女は独白した。
青年は、
疑問に思っていた、
もっとも大事なことをぶつけてみた。
「あなたは誰なのか?」
彼女は多少なりとも俯き加減になって答えた。
「私はあなたのいいお友達」
金色のかみのけが邪魔になったのか、
さりげなく背後に反らす。
その仕草にちょっとした既視感を覚えた 彼女が続けるには、
青年の両親と画家は友人同士だったらしい。
それこそ、画家が売れる以前から支援するほどの。
事ここに至って、
あの絵がこの家にある所以がわかった。
「あれが複製画ではないのだな。あの絵の、あの双眸は画学生のよくするところではない」
だが本人の作だとは思わなかった。
ふいにナルヴォンヌという、
ナント王国の首府が、
彼女の口から迸ったことは驚くべきことだ。
巨匠の作品がある街だ。
いま、
彼女がこうして佇んでいる理由と、
絵がなくなった理由は、
リンクするところがあるのだろうか?
彼女はその質問にあまり答えたくないようだ。
だが、
直接的に質問してみた。
「あなたは何処に行ってしまったのだ?」
絵と言わずに、あなたと言ってしまったところに、
青年の素直な性格が表れていた。
だから、
画家と同じ姓の、
彼女は微笑した。そして言った。
「私はこの家に残された絵を、こそ、ナルヴォンヌで発表してほしかったのです。父もそれを納得したはずでした。しかし弟子のひとりが発表の寸前に盗み出してしまったのです。父の芸術家としての生命を絶たないためには、あのタイミングで発表するしか方法はなかったのです。だから習作のはずの、あの絵でナルヴォンヌで衆目を集め続けています」
父というのが、画家のことを指していることはあえて質問するまでもなかった。
あの絵は、
死後にこの世に存在しつづけるための。
代替としての肉体だった。
そのことを、
彼女は青年に説明した。
しかし、
冥府の王が許可した時間はすでに終わりを告げつつあるという。
その前に、
この世に思い残したことを実現させたいと、
彼女は涙ながらに告げた。
青年は自分に選択肢はないのだと思った。
「私に絵を入れ替えろと?あなたは何処にいるのですか?」
彼女は泣きながら笑った。
「幼いころから一緒に育ったあなたに、そんな危険を冒させるわけには参りません。せめてのお願いは、一週間後にナルヴォンヌに旅立ってほしいということです・・・」
言いたいことを言い終えるまえに、
彼女は冥府の王に、
いるべき場所に戻されたことを、
青年は知った。
これから自分がすべきことはあまりにも明解だった。
ナルヴォンヌへ行こう。
馬のいななきが聴こえる。
馬も首府訛りのナント語を聴きたがっている。