第四章:振り返れば……魔王がいた
カナンの森に住むという鍛冶職人に会いに行くために、グレイとレナは急いで道を進んだ。すでにカナンの森に入っていたが、グレイによれば鍛冶職人の家にはまだ距離があるらしい。
「……温泉?」
レナは前を歩くグレイに訊き返した。夜が更け、しかも体を休めるには良い場所があるということで、グレイが野宿を提案したのだ。
「そうだよ。前にこの辺に来たときに、ちょうどこの近くで温泉を見つけたんだ。野宿にはうってつけの場所だろ? 歩き疲れた足も、温泉に入れば一発で回復するんだぜ」
「そうねえ……」
温泉と聞き、レナはまんざらでもない様子だ。体力の回復を望めることよりも、温かいお湯で体や髪をきれいに保つことができることの方が、年頃の少女にとっては嬉しい。
「なっ、いいだろ? そうと決まれば、温泉に出発進行!」
グレイがやけに元気なのを見て、レナは怪しげに呟いた。
「……でもあんた、まさか、私の湯浴みを覗いたりしないでしょーね?」
「はっはっは! おかしなことを言うのだね、レナくん! 仮にも勇者を名乗るこの俺様が、そんなことするわけないだろう?」
グレイの気持ち悪い言動から、レナは確信した。
「…………覗くわね、絶対」
その時、レナの鼻を独特な臭いが刺激した。と同時に、今まで鬱蒼と茂っていた木々が開け、温泉が目の前に現れた。もうもうと立ち込める湯気のせいで奥の方はよく見えないが、広々としていそうだ。
「わあ~~、すごいじゃない! こんなに広い温泉、初めてよ!」
たいした期待も抱いていなかったレナだったが、いざ温泉を目の前にしてレナの考えは変わった。水質も良い状態のようで、天然の温泉にしては綺麗に保たれている。
「……あれ? ちょっと、グレイ! あれ、見てよ」
何かに気付いたのだろうか、レナが温泉の中を指さした。そこにいたのは、鹿やサル、オオカミや熊などの様々な種類の野生動物だ。動物たちは皆、争うことなく、それぞれ気持ちよさそうに温泉に浸かっている。
「この温泉は傷や病気を癒す効果があるからな、傷を負った獣がやって来るんだ。本能的に知ってるんだろうな」
「でも、肉食獣もいるわよ? 天敵がいるのに、フツー、のんびり一緒に温泉なんか浸かる?」
「ここでは、争いは御法度なのさ。傷を治したら、静かに去る。獣にとって、ここは聖地なんだよ」
「へえ~……」
すっかり感心したレナは、自分も温泉に触れてみたくなった。地面に膝をつくと、片手を湯気の立つ水面に差し入れる──ちょうどその時だった。
「離れろ、レナッッ!」
突然のグレイの怒鳴り声。
びっくりして、レナは思わず身を竦ませた。しかし、特段、何が起こったというわけでもない。一体何があったのだろうと、レナはびくびくとしながらグレイの方を振り返った。
「な……なによ、いきなり大きな声出して?」
グレイは答える代わりに、温泉の向こう側を顎で指し示した。
レナははじめ、グレイが何を伝えたいのかが分からなかった。だが、温泉の上を風がさっと吹き流れ、一瞬湯気が晴れた時、ようやく気付いた。
一人の人間の女が、全裸の状態で温泉の中に腰かけている。──いや、人間の女ではない。魔族の女だ。
「────ッッ!!」
レナは反射的に身を起こし、温泉から飛びのいた。同時に、レナの全身から一気に冷たい汗が噴き出る。あの魔族の顔は見たことがある。忘れもしない、愛する弟の憎き仇だ。
「魔王、ヴァティー……!!」
──何故、魔王がこんな場所に? 広い温泉とはいえ、どうして魔王の存在に気が付かなかったのか?
数々の疑問がレナの頭の中に浮かんだが、それらは全て湯気の中へと消え去った。魔王ヴァティーが口を開いたのだ。
「ほう……。誰かと思えば、あの時の勇者ではないか。確か、名はグレイとかいったな。……勇者グレイ。肩書きは……そう、『私をあと一歩のところで倒し損ねた勇者』……」
忍び笑う魔王に、グレイが普段見せないような険しい表情で返した。手は、いつでも応戦できるように、剣の柄に掛けている。
「いつからそこに居た……? お前を逃がして笑い者になった俺を嘲笑いにでも来たのか?」
「フン。あいにく、私はそんな暇ではない」
ヴァティーは鼻で笑うと、鋭い爪を持つ手で温泉の湯をすくった。
「言っておくが、私は貴様たちよりはるか先から、この温泉で過ごしているのだぞ。貴様にとやかく言われる筋合いはない」
「はっ、魔王様がわざわざ城を離れてこの辺ぴな場所に来てるんだもんな。ただの湯浴み……って訳じゃなさそうだ」
「今し方、自分で言っていたではないか。私も獣たちと同様、傷を癒しにここにやって来たのだ。そう……この背中の傷をな」
そう言うと、ヴァティーはくるりと背を向け、長い漆黒の髪を胸の方へとかき分けた。
浅黒い背中に現れたのは、左肩から右腋へかけて斜めに走った大きな傷だ。傷口は化膿しており、周りは赤く腫れ上がっていることから、まだ完治は遠い様子だ。
「覚えているか? 貴様が付けた傷だぞ」
ヴァティーは妖しく微笑んでいる。その表情から、グレイを恨んでいるというよりもむしろ、これほどの傷を付けたグレイを褒めているといった様子だ。
「貴様に付けられたこの傷は、これまでどの人間に付けられた傷とも違う。何しろ、どのような回復魔法や薬草でも傷が治らないのだからな。この温泉に来て一か月、ようやく痛みが収まってきただけだ」
(……そんな傷を、グレイが……? すごいじゃない!)
レナはグレイを見る目が変わった。あの魔王に、治ることのない傷を与えたのだから当然だ。普段はちゃらんぽらんなグレイでも、魔王に最も近い勇者だと言われていたのは嘘ではなかったのだ。
「私に教えてくれ、勇者グレイ。この傷の正体は何なのだ? ……ああ、そう言えば」
その時、わざとらしく何かに気付いた振りをしたヴァティーは、グレイの腰の剣に目を遣った。彼女の瞳がきらりと光る。
「あのとき持っていた、貴様の剣に答えがありそうだったな。そんな玩具のような剣ではなく」
今、グレイの装備している剣が魔王を倒せるような代物ではないということを、ヴァティーは明らかに気付いている。
言い換えると、今のこの状況が、断然ヴァティーに有利だということもヴァティーは知っている。例え、ヴァティーが癒えていない古傷を抱えていたとしても。
「~~~~っ」
憎き魔王との距離が目と鼻の先だというのに、レナは居ても立っても居られなかった。勝算はなくとも、立ち向かわずにはいられない。しかも、ヴァティーは自分の方が有利だと知ってしまっているのだ。先手を打たれる前に、一刻も早く、魔王に攻撃を仕掛けなければ──。
「やめておいた方がよいぞ、人間の娘よ」
「えっ……!?」
ヴァティーの声に、レナはぎくりとした。どうやら魔王は、今まで目もくれなかった人間の少女が何を考え、行動しようとしているのか、お見通しのようだ。
「私の体はまだ本調子ではないとはいえ、今の貴様たちが私に敵うまい。あの剣があれば、話は別だがな」
魔王はくっくっと妖しく笑う。決して本心ではないが、グレイもヴァティーの意見に賛成のようだ。
「魔王の言う通りだ、レナ。今、奴に向かって行っても、犬死にするだけだ」
「そんな……」
仲間のグレイにまでそんなことを言われ、レナは目の前が真っ暗になった。
──敵わぬと分かっていても、一矢報いたい。
それがレナの願いだっただけに、絶好の機会をみすみす逃すのだ。
(確かに魔王の言う通りかもしれない。でも仇敵が目の前にいるのに……)
だが、レナは今この場で魔王に攻撃を仕掛けることを遂に諦めたようだ。顔が悔しそうに歪んでいるものの、体の力をふっと抜いたレナを見て、魔王は満足そうに頷いた。
「フフ、賢い娘で良かったぞ。私も今は、無駄な戦いを避けたかったのだ。『命を大事に』、だ。お互い──な」
そう言いながら、ヴァティーは温泉のすぐ横の、茂みの方に目を遣った。グレイとレナがその視線の先を追ったとき、ちょうど茂みがガサガサと揺れる。
そのとき、茂みの中から現れたのは、尖った耳の傍から角の生えた子供だった。人間の子供で言えば、十歳にも満たないくらいの年頃だろうか。もがく兎の脚を両手で必死に握り、満面に笑みを浮かべている。
「かかさま! やわらかそうなウサギ、獲ってきたよ! これ食べたら、かかさまのキズだってすぐに治──」
その魔族の子供がその場でピタリと動きを止めたのは、温泉を挟んで自分の母親と相対している二人の人間を見つけたからだった。しかも、そのうちの一人に見覚えがあるではないか。
──棲み処だったギーギック城に突如として現れ、母親に傷を負わせたあの男だ。
あのときの恐怖を思い出したのだろう。魔族の子供の顔から一瞬にして笑みが消え去った。手が緩んだせいでせっかく捕まえたウサギが逃げ出してしまったが、そんなことはもはやどうでもよいらしい。
慌てて母親のもとに駆け寄ると、ヴァティーを庇おうと精一杯に腕を伸ばした。母親を守ろうとしているのだろう。
「かかさまに近づくな、人間! またかかさまをきずつけたら許さないぞ!」
「キジャ……」
一瞬、ヴァティーの顔に慈しみの表情が浮かんだのを、レナは見逃さなかった。隣からは、グレイの面倒くさそうな溜息が聞こえる。
「ととさまがいたら、あんなやつ、すぐにやっつけてくれるのに……。で、でも、今は、ぼくがかかさまを、ま、守ってあげるからね!」
ヴァティーの息子、キジャはグレイを睨みつけながら、ぼそっと呟いた。恐ろしい勇者を目の前にして心細いのか、声が少し震えている。
そのとき、キジャの後ろでヴァティーがくっくっと笑った。
「そのように気を張る必要はない、キジャ。あの人間たちとは、ちょうど今、休戦を交わしたところだからな」
我が子の頭を優しく撫でるヴァティーを見て、レナは気付いた。
(そっか……。今は戦いたくないとヴァティーが言ったのは、子供のキジャを巻き込みたくなかったからなのね。たとえ怪我を負っていても、私たちを殺すなんて容易いはずなのに……そうしないのは、子供を連れているからなんだわ)
レナたちが温泉に着いたとき、ヴァティーの存在にすぐに気が付かなかったのは、魔王の放つ独特の雰囲気──つまり、邪気や殺気が微塵にも感じられなかったからだ。気配を消すことで、余計な争いを避けていたのだ。だから、動物たちも魔王と共に温泉に浸かっていたのだろう。
(……ってことは)
そのとき、レナの頭に難局打開の妙案が浮かんだ。
──今の魔王の弱点は、その子供のキジャ。
卑怯な手だが、魔王を相手に綺麗事は言っていられない。早速、グレイに伝えようとレナが口を開きかけた──が、ヴァティーに先を越された。レナの考えていたことを、ヴァティーがずばり、言ってのけたのだ。
「とはいえ、休戦中なのは、私相手の話だ。勇者たちが無力なキジャを狙ってくれば、私はとても困ることになるだろうな」
ヴァティーはにやりと笑いさえしたが、レナの方は笑う気分には全くなれない。
(子供を狙われたら困るのはあんたじゃないの……? なのに、どうしてそんなに余裕たっぷりなの?)
その様子からして、ヴァティーは自分たちにキジャを狙えとけしかけているようにしか見えない。キジャが現れる前に一度は萎んでしまった復讐心が、みるみるうちにレナの心によみがえる。
(……そんなに言うなら、本当にやってやろうじゃない)
「……ねえ、グレイ」
レナは口を開いた。もちろん、自分に戦う意思があることをグレイに伝えるためだ。
だが、グレイはレナの言葉は聞こえなかったとでも言うように、魔王に向かってあけすけに言い放った。
「馬鹿にすんなよ。だーれが、そんなガキに手ェ出すかってーの」
その言葉に、レナは面食らった。例えグレイのような〝不適合勇者〟であっても、魔族であるキジャの退治を考えるはずだと思っていたのだ。だが、レナはすぐに思い出した──この男は魔王にさえ情けをかけてしまった男だ、と。
グレイの言葉には、ヴァティーも興味を覚えたらしい。品定めをするかのように、目を細めてグレイを見る。
「……ほう? 貴様、キジャには手を掛けないと言うのか。貴様は勇者だろう。勇者ならば、どのような手を使ってでも、私を倒すべきではないのか? ……それに、どんなに幼くとも、魔族は魔族だ。魔族の一員であるキジャを倒すことも、勇者としての務めではないのか?」
お説教はうんざりだと言わんばかりに、グレイは舌を突きだして答えた。
「あのなぁ、俺ぁバーサーカーじゃねえんだぞ。非力なガキにまで手ェ掛けたら、ただの人でなしだ。そうだ、魔物と一緒ってことになっちまう。……ま、そのガキがでかくなったら話は別だがな」
グレイの頑なさにヴァティーは鼻で笑い、ただ一言呟いた。
「愚かな……」
「うっせー! バカ呼ばわりされんのは、レナだけで十分だっての。いいか、魔王。次会った時こそ、ぜってーおまえを倒す!! 覚えてろよ?」
その時、ヴァティーが温泉の中から立ち上がった。妖しくも美しい全裸に水を滴らせながら、グレイに人差し指を突きつける。
「勇者グレイよ、次はギーギック城で会おう。前回見逃してもらったからといって、私が手加減すると思うな。この背中の傷が癒えたら、貴様たち人間を徹底的に滅ぼしてやる。何とかという別の勇者一行が、我が四天王たちを次々と打ち破っているようだが……我々魔王軍はまだまだ健在だからな」
そう告げるヴァティーの目は真剣だ。それから地面に置かれていた漆黒のマントをふわりと羽織ると、キジャを連れて木々の奥へと消えていった……。
その場から魔王の気配が消えた途端、レナは力が抜けたようにその場に座り込んだ。それは、魔王と遭遇したのにもかかわらず、こうしてまだ生きているからだけではない。自己嫌悪に陥っていたからだ。
(魔王の子を人質に……なんて思った自分が恥ずかしいわ……。そうよ、グレイの言う通り。そんな卑怯なことをしたら、私まで魔物に堕ちてしまうところだった……)
レナは隣に立ったままのグレイを見上げた。
──やはりこの男には、他の勇者にはないモノがある。
(……グレイの仲間になったのは、やっぱり間違いじゃなかった)
レナが尊敬の目でグレイを見つめる一方、当の本人は魔王の去っていった方向を見ながら、さも惜しそうに呟いた。
「しまった……魔王のハダカ、もっと目に焼き付けておけばよかった…………!」
その一言が、見事なまでにレナを裏切ったのは言うまでもない。