Clients / purposely come
まったく、異例中の異例といえる。
本来ならば、セキュリティのしっかりしたソシアブラ協会で、光学的、電子的に厳重な監視が付いたうえで、さらに屈強なボディーガードの10人や20人が拳銃を装備した状態で立ち会ってようやく会えるような相手なのだ。
今も間違いなくマンションの周辺は100人以上の護衛が潜んでいるだろうが、この部屋の窓からうかがっても当然ながらその様子はわからない。カケルが暑い中汗だくになって歩いてくる最中も、マンションの玄関からこの部屋にたどり着く間も、普段と変わった様子は感じられなかった。
だが、そうした配慮がなされている事は間違いがない。それほどの大人物を迎えるということで、クズキの側ものんびりしてはいられなかった。
この部屋では、結局夜中までかかって大掃除が敢行され、ソファのテーブルに朝から買ってきた花を飾ってある。どちらかといえば真面目で、研究一筋だったナミは、一見すると面白味のない、付き合いにくい人間に見える。だが、レイノはナミのそれ以外の面も熟知していた。不思議と必要とされる場所に必要なものを調達してくるセンスが素晴らしいのだ。この花も夏らしい、だからと言って派手すぎない花の選択を見て、自分には真似できないと思った。
もちろん、ナミが調達した最高のものはフユカとカケルのコンビなのだ。よくもまあこれほどの逸材を見つけてきたものだ。どうやって探したのか、どうやって能力を知ったのか、今でもその手法は決して明かそうとしない。
室内だけではなく、フユカ以外は全員スーツ着用ということになった。
大変だったのはカケルだ。今日は朝から暑く、徒歩5分程度の道のりでも、ネクタイを締めて歩いてくるうちに汗がにじんできていた。突然のことで夏用のスーツの用意がなかったことも災いした。普段ラフな格好で仕事をしているツケをここで支払う羽目になったようだ。
ナミとレイノはさすがに大人の女であり、そのあたりの身なりに隙は無かった。フユカもめったに着ないような、女の子らしいフリルの付いた服を着ていた。黙っていたら美少女なのだ。
幸い、今日はフユカがしゃべる必要はなさそうだった。
来客を待つ間、年長2人はあれこれと打ち合わせに忙しい。準備や段取りの件、依頼内容の予想、どのような条件は受け入れ可能で、どのような条件なら断るかなど、何せいつになく大事なので、あらかじめいろいろ決めておかねばならない。
その間、年少であるシーダーとミューマーのペアは手持無沙汰だった。いつもこの部屋でしているように、自由にするわけにもいかない。
部屋に入ってきたのは2人だった。
一人は、前もって話に聞いていたのでカケルもちょっと調べてきた、そのとおりの容姿をしていた。イガキ・セイジ。国際ソシアブラ協会会長であり、映像越しに見ることはあっても実際に会うことになるとは思いもよらなかった人物だ。白髪をオールバックにした、痩せ型の男性、いつも一人で壇上にいる姿を見るだけなので、思っていたより小柄なのがカケルには意外だった。
イガキ氏は、この暑い中だというのにしっかりグレイのスーツを着込んで汗一つかいていない。よく考えれば、これほどの人物なのだからマンションの前まで車で送迎されるのだろうが、身なりに一分の隙もないのはさすがだと感じられた。
もう一人は、年若い女性だった。こちらもスーツを着ているが、秘書という感じではない。どちらかと言うと社会人一年生のようなおっかなびっくりの雰囲気であった。
「本日は突然押しかけて申し訳ない」
「いえ、こちらこそわざわざおいで頂いて申し訳ありません。こんなところですが、少なくともセキュリティに抜かりは有りませんから」
「うむ、そのように期待していますよ。何しろこの話は秘密を守る事が一番重要な点ですから」
「やはり、協会内部のことでしょうか?」
「うむ、その前に、ここにいる全員の紹介をしてもらえるかな?」
「はい、私が社長のクズキ・ナミ、そして副社長で医師のソウジ・レイノ、こちらがミューマーのカスガ・カケル、最後にこの子がシーダーのユバ・フユカです……全員我が社の仲間で、全社員です」
「評判は聞いている。事前に調べもしたが、非常に優秀のようだな」
「ありがとうございます」
「私は、まあ一応だが、イガキ・セイジ、ISAの会長をしている……」
「……そしてこちらが、サガミ・サツキ、我が協会のトウキョウ支部の正規ソシアブラだ」
「はあ、ずいぶんお若いんですね……」
「うむ、彼女は優秀でな、まだなりたてだが……世界最年少ということになるのだろうか? 確か今年で……」
ソシアブラは比較的年長が多い。これは対人の経験がモノを言う世界であることとが関係しているのだろう。10代のソシアブラはほとんどおらず、20代半ばぐらいのデビューが普通だったはずだが……
「16歳です」
「……だそうだ。それに若いのはお互い様だろう?」
「ええ、まあ……」
「その若さでレベル表示に”α”が入るなど、将来が楽しみだな」
「公式には違うんですが……まあ、そのことを織り込み済みで、うちに話を頂いたのでしょうね……」
「そうなるな」
皆に聞かせるように、自分でも確かめるように、そしてイガキ氏に確認するように、ナミはゆっくり話しだした。
「多分、イガキ氏が必要とされているのは、まず優秀なネット・ガードであること、できればαレベル持ち……そして、少人数の会社であること。つまり解決まで情報が広まってほしくないということ……そして、背後関係の無い、信用出来る相手であること……」
「……うむ、ほぼ正解だな。加えて言うと、クズキさん、あなたの知見も必要になる可能性が高い」
「あら? 私はシード技術の専門であって、ソシアブラに関しては門外漢なのですが……」
「そちらと違って、ソシアブラの技術なんてものは大したものではない。理屈はすでに明らかだし、むしろ研究者の興味を引くようなものがなくて研究が進まず困っているぐらいだ」
これは噂だが、ソシアブラ協会はむしろ技術の研究を邪魔しているという話もある。これはソシアブラが一種の希少価値を持つことで高いステータスを得ていることと無関係ではないだろう。商売敵が増えて収入が減ることへの抵抗かもしれない。かつて医師がもっと希少だった頃の医師会がまさにそういう性質を帯びていたらしい。その点は医師であるレイノも、そして一応医師免許も持っているナミも話としては知っていた。
「……失礼、話がそれたな。本題はまさにソシアブラの信用を揺るがす事件が立て続けに起きていることなのだ」
「失踪、とかですか?」
カケルが口をはさむ。ソシアブラが常に誘拐の危険にさらされていることは広く知られている。だから常に外を移動するときにはボディーガードが複数つくという噂はカケルも知っていた。
「それならばむしろ単純だし、対処方法も明確だ」
「では?」
「交渉失敗、が続いているのだ。具体的に言うと、こちらが本人と確認した相手が別人だったということだ」
ちょっと考えられないことだった。失敗しないからこそ彼らは高い信頼を置かれているのだし、そもそもどういう方法で交渉が失敗するというのだろうか?
カケルとフユカ、ナミとレイノは思わずそれぞれのペアで顔を見合わせていた。だが、説明してもらわないことにはわかるはずがない。
そういう気配を感じ取ったらしいイガキ氏が緑茶の入ったグラスを取り、続ける。
「まあ、こちらでも見当がつかないというのが正直なところです。そこで、今日は実際に経験したサガミくんを連れてきたわけです。……お願いするよ」
話を向けられたサツキは、それまで傍観していたのが急に自分の出番になったので一瞬固まった。
「はい……まあ、そういうことだとは思ってましたが……」
ということは、彼女は理由を知らされず同行を求められたらしい。新米がいきなりトップ、それも世界的な組織の実質的頂点に同行を求められれば、理由を聞くこともためらわれたのかも知れない。
サツキは、実はこの部屋では自分が一番世慣れていないのではないかと感じていた。社長であるナミ、そのパートナーである医師のレイノ、そしてなんだかフワフワしてつかみ所のないカケルという青年、更には一番年少であるはずのフユカも妙に堂々としている。年齢だけで経験を測れないのが昨今の社会事情だが、まだ教育課程も終了していないような少女が、イガキ・セイジが自ら依頼を持ってくるネット・ガードの主力だということに驚きもあった。
「では、私が体験したことを時系列に沿ってお話します。質問があったら割り込んで構いませんので言ってください」
「有り難いわ、ソシアブラについては通り一遍の知識しかありませんから……」
気をとりなおして続けるサツキに、ナミがそう返す。
サツキにとってネット・ガードの仕事の細部がわからないように、彼らにとってもソシアブラの業務の実際はわからないのだろう。自分たちは当たり前に使っている用語でも業界にいないと聞き覚えが無いこともあるだろう。
「それでは始めます。あれは……」
サツキが初仕事をしたのは3ヶ月前のことだった。クライスとのスケッチ0番を経て、それからも順調に、およそ週に3~4回の「交渉」を成功させていた。
彼女が慢心していたと言うのは酷だろう。ソシアブラの交渉は現代において最も信頼性が高いからこそ重宝されるのだ。何万桁もの暗号を解くことができる最新のコンピューターを持ってしても、人間1人の仕草や癖、話し方、話題や性格を完全再現するには至らない。はるか昔に話題になった人工知能や人工人格といったものが実現していないという事実がソシアブラ能力の優位性を担保していた。
確かに、人工人格の実現まではあと一歩というところまで来ているらしいが、あと一歩と言われてから何十年も経っている。その方面ではソシアブラよりシード技術の方が近いらしいが、部外者のサツキにはわからない。その分野での権威と呼ばれているのが目の前にいる、クズキ・ナミと年若くして亡くなったその共同研究者であることも……
「それで、今回もいつもと同じで……詳しく内容は言えませんがある企業の交渉で呼ばれて行きました」
「どの系統の企業かぐらいかは教えてもらえないかしら?」
一瞬、サツキは横のイガキ氏の顔を見る。微かに彼の顔が動く、縦の動きだった。
「えっと、回線関係です」
「インフラ系か……遠隔交渉をするぐらいだから海底ケーブル周りかしらね……」
ナミの予想の通り、実際には海底ケーブルの引き直しをする会社から、増大した帯域を買う交渉をしていたのだった。海外からのケーブルを直接接続するということは、遅延に対して優位性を保てる。物理的距離はどうしようもないが、経由するスイッチの数を減らすことで遅延は減らせる。昔と違いネット接続は、その最大速度ではなく遅延の少なさで客を奪い合っている状況だ。その意味で、ネット業界では有りがちな交渉といえた。
交渉はいつもと同じように進み、相手を迎えた時にもおかしなところは無かった。先方の交渉者と相手側のソシアブラ、こちらも2人、相手方も2人だった。
「その相手のソシアブラはよく知っている人だったんですか?」
カケルが質問を発する。先ほどまでのぼんやりした雰囲気は影を潜めて、鋭い目でサツキの目を真っ直ぐに覗きこんでいる。
サツキはちょっと怯んだ。
何の事はない、クズキの面々は熟知していたが、カケルがぼんやりしているときは頭のなかでアイデアを転がしてシミュレーションしているだけなのだ。断じてミューマ能力だけでナミが彼を引っ張ってきたわけではない。そもそもミューマーは頭脳が優れていないと十分に能力を発揮出来ないのだ。
「え、ええ……CTTで520時間ですから、熟知していると言ってもいいと思います」
「CTT?」
「コンタクトタイムのことです。えっと、ソシアブラは仕事以外でも互いにネットで長時間一緒に過ごして互いのことを見分けられるようにするんですが、大体400時間を超えていないと交渉にはアサインされません」
「その頃から別人だったとかそういうことでは無いんですか?」
「それは、有りません。ソシアブラの内部ネットワークはそもそも物理的に協会同士以外から隔絶されていますから、先方のソシアブラ協会から入っている以上は本人です」
「なるほど……それは向こうの協会には確認を?」
「はい、本人であることは生体データと共に職員複数で確認していますから間違いありません」
「そうですか……ああ、話の腰を折ってしまいました。どうぞ続けて下さい」
「いえ、最初に言いましたが、質問はいつでもお願いします。なにせ私達の仕事はあんまり細かいところを知られていないので……」
「ま、必要な措置なんですがな」
イガキ氏が口を挟む。
情報をあまり表に出さ無いことも含めて、全ては彼の采配なのだ。それでうまくいっているのだから問題は無い。今日は特別ということだろう。
「続けます……あの時も通常通りカンバスから入って、スケッチまで……ってこの辺も説明が必要でしょうか……」
「私は問題ないけど、そうね、一応お願いするわ」
カケル、フユカも名前ぐらいは聞いたことがあったが、詳細は知らなかった。考えてみればトウキョウに10人といないソシアブラ本人からの説明だから、貴重な機会かもしれない。
「……それで、スケッチを終了して、問題無いと私は判断して依頼主にそう伝えました。以上です」
もちろん、問題はあったわけだが、少なくともサツキにはそれは感じられなかったということだ。
「ふむ、それで金を振り込んだのだが、なにも連絡が無いので問い合わせた結果、相手方は知らない、それどころか海底ケーブルの引き直しの事実すら無いということだった」
「事前に確かめなかったんですか?」
イガキ氏の言葉にカケルが呆れたように返す。
「知っていると思うが、最近のネットを介した犯罪は巧妙だ。今回も相手から告げられた情報は全て偽で、企業の広報サイトから電話番号まで全て途中ですり替わっていたそうだ。もちろん今はそのサイトなど跡形も無い」
「つまり、それだけソシアブラが信頼されているということですね」
イガキ氏のみならずナミもフォローに回る。この辺りはより広く付き合いのある彼女にとっても常識と言ってよかった。
結局、遠く離れた土地で信頼できるものは何も無いのだ。そこにソシアブラだけがかろうじて信頼の架け橋を築くことに成功した。それすらも、今回のような件が続けばダメになってしまう。
「それで……私達に解決を依頼してきたということは……」
「ああ、その通り。考えたくは無いが、おそらく内部の者が関与している可能性が高いと私は思っている」
ナミが先ほどほのめかしていた事だ。
「自慢に聞こえるかもしれないが、今のソシアブラのシステムはうまく動いていると思う。私が協会を立ち上げてから、まれにあった失敗も、全て原因が究明されて解決している。だが……」
「今回のは見当もつかないということですね?」
返事さえなかったが、イガキ氏の沈黙はナミの質問を肯定していた。
「なるほど……では順番に疑問点を聞いていきます。まず……その交渉において『真正』を判断した根拠から」
「……個別の事象についてはソシアブラとしての秘密に当たりますので、さし控えさせてもらいますが、問題のある行動はほとんど無かったと思います」
「ほとんど?」
「あ、いえ、確かに相手のことはよく知っていますし、交渉においては注意してその通りに行動するのですが、その日の体調や心理状態に寄ってちょっとぐらいのブレがあるのは普通なんです。でもせいぜい1%以下ぐらいです。3分ぐらい会話するとチェックポイントが500ぐらいあるんですが……」
その数字にフユカがおお、と驚きの声を上げる。訓練すればそれほどまでにもなるものか、1秒に数回もの仕草や癖を見て取り、それを記憶と照合する。実際にはシーダーである彼女がやっていることも十分人間離れしているのだが、改めてソシアブラの凄さを思い知らされたナミ達だった。
「まあ、誰もが無意識にやっていることを意識的にやるだけですよ」
「それでも、誰にも出来るわけではないからソシアブラという職が存在するのだがな……」
イガキ氏も心なしか誇らしげだ。
「それで、問題ないと判断した……と、でもスケッチまで持ち込んだのよね? それはなにか違和感があったということじゃないの?」
「いえ、問題がなくてもスケッチまでやることは多いです」
「サガミくん」
「あ、ごめんなさい。今のは……」
「でも今回の件には関係あります。口外はしませんので……」
そう言われてイガキ氏は、眉をひそめ、ちょっと宙を仰いで、しばし目を閉じ、最終的には首肯した。
「えっと、あんまり簡単に終わってしまうと、流れ作業的に思われてお客様の満足度が下がるっていう調査結果があって……それで、大丈夫だと思ってもスケッチまでやることがあるんですよ」
衝撃的な事実! というわけでも無いだろう。医者であるレイノにも覚えがある。見て明らかに風邪だとわかっても、一応手順を踏んで丁寧に診察することがある。昔「三分診療」と批判された医師と同じような状況なのだろう。
「じゃあいつもより違和感が多かったということは無かったのですか?」
「そうですね……」
そこでサツキは耳の後ろをトントンと拳で叩いて思い出そうとしているような仕草を取って続けた。
「……実際には個々のチェックポイントについては覚えていないんですよ……なにせ数が多いもので……それで、いつもカウントだけとって覚えているんですが、確か863分の12……ですかね。うん、ちょっと多めかも知れませんが、それでも規定の枠内には収まっていますね」
「内規では2%を超えたら報告義務があることになっています」とイガキ氏。
「それではその12件の内容も覚えていない、と?」
「うーん、そうですねえ……ちょっと思い出せないです」
そこでカケルが割り込む。
「すいません、素人考えかもしれませんが……ソシアブラはメモボックスなどは使用していないのですか?」
シーダーがネットに入るときにはメモボックスの接続が当たり前だ。中には自分の仮想人格については全部把握しておきたい、と言って使用しないシーダーもいるそうだが、例外なくそうしたシーダーは自分の仮想人格に嫌われている。
親しき仲にも礼儀あり。たとえ同一人物の別人格だといっても隠したいことぐらいある、ということだろう。
「メモボックスは……使用したことがありません」
「これは、私から説明しましょう。メモボックスのような外部記憶に記憶の一部を預けておくというのは、本来その人物が経験した事の一部を無かったことにするわけです。もしその記憶の中に他のソシアブラと接触したものがあれば……」
「なるほど、過去に会った時の記憶が無いために違和感を覚える、ということですか……」
「そうなります。また、メモボックスに預けた記憶は変質しやすいという話もありますので、ソシアブラには適さないのです」
最後の理由は、実は技術が未熟だった頃の話で、現在は解決されているのだが、ナミはあえてそこを指摘しなかった。たとえ迷信だとしても、それが心理的にプレッシャーを掛けてしまう可能性もある。現代の特殊技能者の双璧とも言えるシーダーとソシアブラの運用にはどうしてもデリケートな部分が存在する。門外漢が口出し出来るものではなかった。
カケルもそれで納得したらしく、ナミが目を向けると頷いた。
「では、スケッチについてはどうでしたか?」
ナミは雲行きが怪しいな、と感じながら促した。
「はい、そちらも特に違和感はありませんでした」
「さっきの……何分の何、というのはどうでしたか?」
「えっと……、あれ? そういえば……」
「どうした、サガミくん」
「え……ええ、どうもど忘れしたみたいです。メモを取っていたわけではないので……すみません」
「その辺りが怪しいですね」
カケルが割り込んできた。
「でも、忘れることぐらいあるんとちゃう?」
フユカの発言はよく考えて見ればこの場では初めてだ。
「だけど問題が起こったことは確かなんだ。何もおかしなところが無いということはありえない。ほんのちょっとしたことでも見逃すことは出来ないはずだ」
「その、スケッチというのは密室なのよね? その中で何か工作が行われて、記憶を改ざんされたということはありえないのかしら?」
レイノがカケルの後をついで質問する。
「それは……」
「まず無いわね」
答えたのはナミだった。
「……記憶を消すっていうのは不可能じゃない。実際にメモボックスにも使われている技術で、脳の特定の場所を刺激すればいい。すでに今世紀のはじめには存在している古い技術よ……」
フユカには特に使用割合が多いが、すでに枯れた技術なだけに安全性も確保されており、精神的にも肉体的にも問題はない。
「……だけど、別の記憶を植え付けるというのは難しい」
「ちょっと待ってください。それじゃミズキ達はどうやってメモボックスの記憶を戻しているんですか?」
「ミズキ……仮想人格達は、メモボックスの記憶を圧縮映像として受け取るだけだ。確かに自分が体験したことだが、あくまで映像として認識しているだけで、自身の体験した記憶と混同することは無い」
つまり、メモボックスの記憶は登場人物が自分自身で視点も自分自身の映像ソフトのようなものだ。創作物を現実と誤認することもあるにはあるが、それは一般的に精神障害に分類される。
「だから、本人が自分の記憶として認識している以上はそれが改ざんされた記憶とは考えられない」
視線を向けられたサツキは頷いて答える。
「ええ、確かに自分の体験として覚えています。スケッチを終了し、ブースから出て『真正』の報告を依頼者にしたことまではっきりと……」
「じゃあ、単に忘れたわけですか……」
カケルは残念そうにつぶやく。
重要な手がかりを見つけたと思ったのに空振りだった。その後もサツキにいくつかの質問を投げかけるが、どれも重要な手がかりではなさそうだった。
「他に、サガミさんのケース以外にはどれぐらい起こっているんでしょうか?」
ナミに問われたイガキ氏が答える。
「2件……当方としても困っている」
「全て同じ相手ですか?」
「いや、クラン……今回の相手のソシアブラの件はサガミくんだけだが、残りの2件は別のソシアブラだ」
「その2人のソシアブラは現在?」
「両人とも失踪している」
それも大変なことだ。
「参考までに、クランさんともう一人は同じ地域ですか?」
「いや、クランは南米、もう一人のリーゼリットは南ヨーロッパだ」
「同じ組織が関わっている……というわけではなさそうですね」
カケルの結論にナミが反論する。
「いえ、今の世の中だと犯罪組織といえども一箇所に集まっているわけじゃないわ。ノウハウだけ共有して地球の裏側同士で連携していることもありえないことじゃない」
その後も色々質問が発せられたが、糸口になりそうな情報は無かった。
「それで、受けてもらえるかね?」
「難しそうですね。ですが、ここまで聞いた以上は断るのも難しそうです」
「そう期待するよ」
「では……」
そして互いに条件を詰めるイガキ氏とナミ。他の者は手持ち無沙汰になった。ナミがちょっとびっくりするぐらいの報酬額をふっかけるのを聞いて青い顔をするカケルは、自分をじっと見つめる視線に気づいた。
「あ、ごめんなさい」
サツキだった。
「あ、いえ、気にしないでください……それにしても、今回は大変でしたね」
「まあ、最初は失敗したって落ち込んだりもしたけれど……もしかしてソシアブラ資格を停止されるんじゃないかって思って……」
「そんな」
「だけど、思った以上に大事みたいで、私の手に負える状況じゃなさそうだから……よろしくおねがいしますね」
「ええ、任せて下さい。サガミさんのためにも頑張ります」
「ありがとう」
なんだか仲良くしている2人を見て、後ろでフユカがふくれている。そんな若者を見て、レイノは「こっちはこっちで大変ね」とのんきな感想を抱くのだった。