Satsuki / in a sketch
「……でお願いします」
一瞬、サツキはそれが自分に向けての言葉だと認識できなかった。
だが、ここは客先、サツキはこれから初仕事だ。
呆けていていいわけがない。
「……え、ええ、わかっております。確実に、ですね」
「……本当に大丈夫ですか?」
客の視線が冷たい。
突き刺さるような視線に耐えかねて、サツキはお茶を口にする。
冷め切っていてまずい。
気を使ったのだろう、高価な玉露を選んだのは良かった。
淹れ方がなっていない。
本来もう少し低温で淹れないと、甘みより渋みが強く出てしまい、台無しだ。
だが、それを知っているものは今では少ない。
「玉露は高級」程度の知識で、淹れるのに適当な自動給茶装置を使用している。
もっと大企業なら、こんな失態は無いのだろうが、そもそも大企業だったら新米のサツキに仕事が回ってくることもないだろう。
冷め切って、さらに渋みが舌につくようになった玉露を、サツキはむりやり飲み干した。
「だ、大丈夫です。ちゃんとライセンスをもらった正規ソシアブラですから……協会からのDNA認証も間違いなかったでしょう?」
「いや、それを疑うわけでは無いが……」
サツキにもわかっている。
ライセンスがどうだとか正規だとかそういうことではない。
結局、自分の自信の無さが表に出ていることが問題なのだ。
ソシアブラは希少だ。
世界でも100人はいないし、ここトウキョウでも、サツキが加わって6人しかいない。地域の中心となる都市でも1人で回しているところなど数多い。ソシアブラが居なければ現代的な意味での産業など成り立たないのだから、重要なのは当たり前。今でも、多くの都市がソシアブラ招聘に目の色を変えている。
サツキも経験を積んで、そういう都市に好待遇で迎えられるのを目標にしていた。
だが、現状はただの新米。
まだ、一件の成約も経験していない下っ端にすぎない。
「……まあ、いいでしょう。こちらとしてもこの値段で受けてもらえるのは有り難い。スムーズに交渉がまとまるのを期待しています」
「はい、頑張ります」
なんといっても、本当なら社会に出て1年目、16歳の小娘に過ぎない。
サツキには頑張ることしかできないし、頑張ることで道が開けることを期待するしかないのだ。
サツキは再び、手順の確認を頭のなかで行う。
思考がぐるぐる同じ所を回っているのがわかる。
――こういう時、ドライバだったら……
シード能力があれば、もっと思考が整理されるのだろうか?
望んでも仕方ないことはサツキにもわかっていた。
ドライバの才能とソシアブラの才能は両立しない。
そんなことは誰も疑問を抱く余地の無い、当然のことなのだ。
当然ながら、サツキが使うのはBDCである。
BDC、すなわちBrain Direct Controllerは直接脳波と干渉し合い、データ上の仮想の体と感覚を得るものだ。
もちろん、脳に対して干渉するBDCの使用には危険が伴う。
開発初期段階では、体を動かせなくなる、放心状態になるなどの後遺症が多発した。
それらは一時的なものがほとんどだったが、まれに発狂や錯乱、最悪脳死まで至るケースもあったらしい。
もっとも、今ではそうした犠牲の元、しっかりと安全が確保されている。
とはいえ、やはりBDCは一般的ではない。
使うのは重度のネットマニアか、仕事でそれが必要な者だけだ。
隣で同じようにネット没入用椅子、単純にスリーパーと呼ばれる器具に横たわる彼女の客は、首に巻いたNIICと、ゴーグル一体型のヘッドセットを使用していた。
――あ、あれは新型だ。
サツキが私物として使っているNIICはヤマナミ電子製のそこそこ高級機だった。
中古で手に入れたのだが、隣に横たわる男は、それの2つ後の製品、最新型のNIICを装着していた。
――私物かな?
少なくとも、ここまで見てきたこの企業の様子には、最新型の高級機は似合わないようにサツキには思えた。
NIICとは、Neck Impulse Intercept Controllerの略であり、「ニック」「ニーク」などと略して呼ばれる。
体の感覚と動きを仮想空間に再現するのに、狭い範囲に神経が集まっている首を介するという考えが出てくるのは至極当然のことだ。
首から体に向かう命令と、体から首にやってくる感覚、それらの刺激(impulse)を横取り(intercept)する仕組みは、BDCに比べると安全なものとして広く使われていた。
サツキは、不意に来た感覚にちょっと身震いする。
――お茶、飲まなけりゃ良かったな。
カフェインの作用だろうか、尿意を覚えたサツキは、先にネットに入っている客にメッセージを送って、トイレに向かう。
BDCやNIICによる没入は、肉体の感覚を失わせる。
仮に漏らしたとしても、脳はそれを認識できない。
高級スリーパーには、そうしたものを処理する機構も備わっていると聞いたことがある。
だが、普通は「ネットに入る前はトイレに行きましょう」「長時間の連続ネット入りは避けて、適度に休憩を取りましょう」となっている。
ことに、今回は客先だ。
万が一の粗相は避けたい。
用をたして戻ったサツキは、ヘッドギア型のBDCを装着する。
予めの設定に基づき、BDCから擬似脳波が照射される。
まずは足先、そしてふくらはぎ、もも……
だんだんと感覚が仮想のそれと入れ替わっていく。
感覚の変化がわかりやすいように、擬似感覚は水中にいるのと同じように設定してある。
冷たい水の感覚が、足先から腹、胸にやってくる。
それと同時に、手先からも同様の感覚が忍び寄ってくる。
頭のてっぺんまで水中に沈み込んだ時、サツキの心は現実から遊離する。
ネットで、昔からの習いでアバターと呼ばれる仮想の体に乗り移るのだ。
降り立った地点は、クローズド・ネット空間だった。
今の世の中、本当に閉鎖的なネット空間を作り上げる意味はあまりない。
企業内の1部署、1研究所にしても、そのメンバーが物理的に一箇所に集まれることなどない。
ある調査では、物理的に5人を一箇所に集合させられる企業は全体の3%だそうだ。
それも、部署関係なしに全社で、のことだ。
隣の席の同僚が、実は太平洋を挟んだ先に住んでいる、なんていうことはザラなのだ。
必然的に、あらゆる業務が公共のネット空間を介することになり、クローズド・ネットで秘密を守ることは断念せざるを得ない。
となると暗号か? もちろん使われてはいるが、それも完璧とは言いがたい。
最高の暗号であっても、機材を揃えれば数日という現実的な時間で解ける時代だ。
「完璧な暗号」なるものを追い求める研究は続いているが、大方のものは諦めていた。
「それなりの暗号」で時間稼ぎができれば十分だという結論に達したのだ。
現在は「それなりの暗号」を使い、加えて「ネット空間の仮想物理的制約」によって秘密を守る方法が主流になっている。
そういう世界だからこそ、ソシアブラの生きる道もあるというものだった。
殺風景な部屋にテーブルが1つ。
テーブルには椅子が4脚。
そして、部屋の半分を占める、中を伺うことが出来ないブース。
その役目を考えると、防音にもなっているはずだ。
部屋にはドアが1つ。
これは部屋のアドレスを知り、暗号で出来た鍵を使わないと開かない。
そこまでしてもなお、扉を入ってくるのが取引相手であると確証が取れない。
そうした世界に、なってしまったのだ。
扉が開く。
入ってくるのは、2人。
そのうち1人は、サツキには馴染みの顔だった。
そうでないと困る。
「やあ、サツキ。初仕事だね」
「こんにちは、クライス。どう? 喧嘩した恋人とは仲直りした?」
「ははは、もちろん。ちゃんとスミレの花を送ったよ」
「黄色?」
「もちろん白だよ。知ってるだろう?」
「ええ、『誠実』だよね」
「そう、黄色じゃダメだよ。ところで、サツキは気になる男の子はいないの?」
「私は……まだいいって、3日前に言ったでしょう? 初仕事の事が頭でいっぱいなの」
「そうだったね」
他愛もない会話をしているように見える。
実際にそうなのだが、サツキの客も、その取引相手も、それを咎める様子はない。
これが大事な会話だと知っているのだ。
実際サツキは、どういう話題を向けるか、どう答えるかに必死だった。
同時に、相手がどう答えるか、そして仕草の細部に至るまでを観察していた。
これこそが2070年代、最も堅固な認証方式として知られる、ソシアブラの姿なのだ。
ソシアブラ、それは「社交的な」というsociableに「人」というerの語尾を付けた造語。
直訳するならば、「社交的な人」だが、もちろんそんな通り一遍の意味ではない。
全世界で100人に満たない、互いに互いを当人だと確信を持って判別出来る能力者。
能力者? そんなに特別なことなのか?
もちろんだれでも日常接している家族や恋人に対しては同じことが出来るだろう。
だが、それがコンピューター越しだとどうだろう?
アバターを似せ、仕草を真似し、性格やしゃべり方を研究していたら、他人がなりすましているのを見破ることが出来ないかもしれない。
ましてや、直接会って確かめられない遠隔地の知り合いならどうだろう?
現になりすましによって、世界の取引の30%ほどが被害を受けたことがあった。
相手は有名企業の社長だと思って、安心して金を払ったのに商品が来ない。
確かめてみると、そうした取引の事実は無い、と返される。
ご丁寧にも、情報版――昔でいうホームページから、電話から、郵便から、あらゆるものが偽物であり、安心しきって金を支払った企業をターゲットにしたものだった。
繰り返しになるが、暗号は完璧ではない。
そして、直接先方に出向いて取引をするというのも現実的ではなかった。
すでに燃料を浪費するジェット機は過去のものだ。
今ではせいぜい速度の遅い電動プロペラ機を、それも目の玉の飛び出るような値段で利用するしかない。
世界は再び広くなり、距離を気にせず使えるユニネットが人の活動の中心となる。
確実な認証方法が望まれることになった。
ソシアブラは、ネット上で濃密な関係を築いている。
1日のほぼ半分を専用のスペースで互いを知ることに費やされる。
そうして、互いに相手の癖や話題、性格、知識について学び、また自身も学ばれる。
だからこそ絶対的な人数を増やすことが出来ない。
必要な資質である、記憶力、観察力、堅固な自己同一性などのハードルが高い以上に、あまり多くしてしまうと対応すべき相手が増えすぎて精度が落ちてしまう。
暗号が完全ではない現代において、ソシアブラ同士が相手を識別する能力は、最も信頼のおけるものになっていた。
その評判を守るためには人数を増やして精度が落ちることは受け入れがたい。
デジタルの行き着いた先に、なんともアナログな方法を使用せざるを得ないことを、皮肉に感じる技術者も多かった。
しかし、現実として他の方法が無い。
商取引、国家間の交渉において、全世界は少数のソシアブラに頼りきることになっていた。
ソシアブラ同士の認証は、主に2つの方式で行う。
1つは「カンバス」、もう1つは「スケッチ」。
これらは組み合わせてもいいし、確証が取れるなら片方でもいい。
今サツキとクライスが行っているのが「カンバス」、すなわちconversation(会話)による認証だ。
――スケッチまでやる必要あるかなあ?
「スケッチ」は小劇という意味で、こちらは一般的な単語だ。
予め用意されたシチュエーションとシナリオを演じる。
とはいえ走ったり跳んだりすることは無い。
第三者に見せる劇ではなく、登場人物Aの観客はBであり、登場人物のBの観客はAなのだ。
必然、会話劇が主体となる。
部屋の半分を割いているブースはそのために使用される。
外から見えず、音も聞こえなくしているのは、シナリオの内容も含めてソシアブラ協会内部の秘密とされているからだ。
そこで、サツキは嫌なことを思い出した。
それは一昨日、先輩のルチアから聞いたことだ。
「サツキもついにデビューか……」
「はい、頑張ります」
「だけどサツキ可愛いから気をつけなよ」
「え?」
「ブースは外から見えないだろ? それに乗じていたずらする奴もいるからね」
「そんな……」
ユニネットにおける身体的接触は、度を過ぎれば罰則が下る。
特に、公の場では他人との距離が一定未満になると強制的に跳ね返される。
だが、中にはそうしたルールがあえて外されている場合もある。
ユニネット上で風俗業を開店している場合におさわり禁止では始まらない。
そうした場所では、特殊ルールによって相手の体の中にこちらの体の一部を潜り込ませる行為、いわゆるコード4までが解禁になる場合があるのだ。
回りくどい言い方だが、これはいわゆるセックスに限った場合では無いからだ。
中には自分の腹を割いて、内臓を相手に触ってもらうという変態的プレイも存在する。
なにもそんなことまで許さなくても……と思う者も多いが、これ、実は処女とセックスするのと行為的に区別がつかないから、らしい。
確かに体に傷を付けて、相手の内臓に触る行為には違いない。
それはさておき、ソシアブラが使うブース内もコード4が適用されていた。
「ほら、スケッチ80番代とか……」
「!?」
80番代のシナリオは、いわゆる恋人同士の睦み事が揃っている。
「86とか、87とか、そのものズバリの行為があるじゃない?」
「で……でもっ、80番代は、拒否できるって規定にあるはずです!」
「なーんだ、引っかからなかったか……うんうん、ちゃんと勉強してるね。まあ、その辺に頭がまわらない新人を騙して、うまくやろうってバカもいるから、気をつけるに越したことはないよ」
「……は、はい、ありがとう……ございます」
結局は先輩が新人をからかいたいだけだったようだが、いつかは自分も86番なんかをやることになるのだろうか、とサツキは想像してしまった。
――いやいや、絶対にない。というより、このままじゃ私は80番代の数字を見ただけで赤面してしまいそうだ。
ともかく、今回は順調だ。
すでに相手が真正のクライスであることは、サツキには確認できたし、クライスの方もサツキを確認しているだろう。
このまま、カンバスだけで認証が取れれば初仕事完了ということになる。
だが……
「うん、じゃあブース行こうか」
「ええっ」
クライスの突然の提案だった。
思わず悲鳴に近い声が出してしまったサツキだった。
「というか、カンバスだけで終わるなんて、初仕事としてそんな楽はさせられないよ」
「はあ」
ブースの中、音も遮断されたそこでクライスが説教めいた口調で説明する。
周りには何もなく、サツキは固い床に正座させられていた。
腕を組んで立ったクライスが続ける。
「スケッチにはスケッチの役割がある。覚えてる?」
「えっと……何でしたっけ?」
「うん、あんまり無いことなんだけど、自分の依頼人が信用出来ないと思った時に、この中でならば内緒で相手に伝えられるだろう?」
「でも……そんなことって……」
「そう、今までは無かった。ちゃんとDNAで担当者もソシアブラも本人確認ができているからね。だけど、これからもそうとは限らない」
「……はい」
「そういうわけで、最低限のスケッチが出来るだけで満足しないで、たくさんレパートリーを増やすこと。ソシアブラになれたからといって、勉強はやめちゃいけないよ」
「はい」
「よし、じゃあ手っ取り早く86番やってみようか!」
「86……って、ええええええええっ」
「ははは、冗談だよ。まあ、80番代は上層部のエロオヤジが趣味で入れたから、とりあえず79までだな。そこまでできれば一人前だ」
「……は、はい」
「よし、じゃあこれで0番スケッチ終了、と」
「0番? そんなの私知りませんけど……」
ソシアブラ協会のスケッチは1~89までしか存在しないはずだった。
「ああ、舞い上がっている新人を、先輩がブースに連れ込んで適切なアドバイスと説教をする、というのが通例でね。通称0番スケッチと言われているんだよ」
「はあ、そういうことですか……」
ブースを出たサツキは、客に「真正」を告げる。
同様にクライスも交渉相手に「真正」を告げた。
ここからが真の交渉だ。
お互いに手持ちの札を使ってよりよい条件での契約を結ぼうという戦いが始まる。
だが、ソシアブラとしての仕事はここまで。
サツキは、こうして初仕事を無事に終えたのだった。