ダイジナヒト
「ジュリア、君。随分ご機嫌だね。どうしたの?」
わたしの主、ラウルフレッド王太子殿下が鏡越しにこちらを見て微笑まれた。
「ええっ? お分かりになります?」
殿下の柔らかな金髪を櫛ですく手が、歌うように軽快に動く。
「分かるよ。鼻歌が聞こえてくるもの」
「申し訳ございません! はしたない真似を」
わたしは慌てて頭を伏せたが、殿下からは怒りの気配はなく、相変わらずからかうような笑みが向けられてくるだけだ。
「構わないよ。僕も機嫌がいいんだ。今日もいい天気になりそうだよね」
殿下はそう口にして、窓の方へと視線を変えた。それから目線の先に、ただならぬ気配で控える騎士の姿を見つけて、焦ったように鏡へと顔を戻す。
「な、何かあったの? 歌い出したくなるようなことでも」
「えっ、ええまあ……」
わたしは殿下のお髪を整えるべく、作業を再開した。
嫌ね。そんなに見え見えだったかしら、わたしの幸せオーラ。困ってしまうわ。
「君は何か知ってるんでしょ。アンドリュー?」
鏡に視線を向けたまま、殿下は騎士に問いかけた。騎士の一人が、ビクリと体を動かして頭を上げる。
ちょっと、何故殿下はアンドリューなんかにお聞きになるのかしら?
「恐れながら……、わたしには分かりかねます」
真面目くさった声が躊躇いがちに返事を返した。
「そうか……、ジュリアのことは君に聞けば何でも分かると思っていたんだけど」
「何故、わたしが!」
アンドリューは強く言い返し殿下の御前だと気が付いたのか、慌てて平伏した。
「も、申し訳ございません。出過ぎた物言いを」
ラウルフレッド殿下は大袈裟なほど頭を下げるアンドリューを見て、愉快そうに薄紫の瞳を細める。
笑い声を上げた殿下の頭が小刻みに動いて、櫛が虚しく空気をとかすだけになっていた。
「何をむきになってるの? 君達は幼馴染みなんだろう。君はジュリアのお目付け役を自負してるじゃないか」
「しておりません」
苦虫を噛み砕いたような棘のある声が、きっぱりと否定した。
「そうなんだ。僕はてっきり君達が、将来を誓い合った仲なのかとーー」
冗談でしょ、わたしの将来の相手はデレクよ。
「全然、違います!」
わたしとアンドリューの声が、おかしなくらいにピタリと合わさった。
ちょっと何よ。
わたしは奴から視線を逸らし、鏡の中に精神を集中させる。落ち着かなくっちゃ。
殿下が堪らず噴き出して、お腹を抱えているのが映っていた。
「面白いな君達は。特にアンドリュー、君は最高だ」
御年十五歳、悪戯好きの少年王太子殿下に、わたし達はどうやら遊ばれたらしい。
「……お遊びが過ぎます。お忘れのようですが、わたしの方があなた様よりも五つも年上です」
渋い声でアンドリューが殿下を諌めると、更に大きな笑い声が返っていった。
***
「ジュリア、やっぱりいた!」
食堂で恒例の午後休憩を取っていると、背中を叩く気配がする。
「あなたも毎日飽きないわね。騎士様方の休憩はまだじゃない」
苦笑を浮かべたリシェルが、向かいの席に腰を下ろした。
「騎士様?」
彼女の言葉を問い返したわたしを、目の前の友人はキョトンとして見返してくる。
「何よ、あなたの趣味でしょう? 食堂で休憩中の稽古上がりの騎士を盗み見するのは」
変質じみた趣味だからバレないように気を付けてよ、とかブツブツ言いながらリシェルはお茶をすすっている。
「ああ……、そうだったわね」
ぼんやりとした頭を振るって、わたしは彼女に笑いかけた。そんなこと、すっかり忘れていたわ。
リシェルの言う通り、わたしには隠れた趣味があるのだ。
麗しい肉体美を晒す、美しい男達をこっそりと眺めるという。まあ、あまり誉められた趣味じゃない。
でもこの趣味は、デレクに会えないわたしの心を、慰めてくれる唯一のものだった。だから、止められない。
そうよ、これはあくまでも、デレクの影を他人の中に見つけて、彼を思い出してるだけのもの。
決して、ただの欲求不満とか、餓えた欲望を沈めるためのものなんかじゃないわ! ええ、そうですとも。わたしはデレク一筋なんだから!
「どうしたのよ、真っ赤な顔して机なんか睨んで……」
リシェルが酷くびくついた視線を、こちらに向けている。
嫌だ。わたしったらまた興奮していたわ。本当に落ち着かなきゃ。
「何でもないの」
今のわたしはとってもご機嫌なんだから。あの手紙を読んでからというもの、毎日毎日飽きもせず、デレクの書いた文字をなぞってるの。
だって……、
だってデレクがわたしに会いに来るのよ? もう偽物で我慢する必要はないの、本物に会えるのだから。
まだ夢を見てるみたいで、信じられないけど。
「ねえ、ジュリア。本当に大丈夫? 変よ、その、あなたの顔……」
「大丈夫、大丈夫。わたしはいたって普通だから」
リシェルの怯えたような目付きも、全く気にならない。わたしは幸せの真っ只中にいた。
でもこのことは、彼女にはまだ内緒。いずれ……いずれね、ふふふ。
「なんだ、お前は。しつこい奴だな!」
その時、食堂の入り口の辺りで騒がしい声がした。
「お待ち下さい。質問にお答え願います」
男にしては高い声が、先に聞こえた声を追いかけてくる。
「何だよ、いったい。知らぬと言ったら知らぬ」
大声を出して入って来た集団の中に、アンドリューが追いすがっているのを見つけてわたしは驚いた。
アンドリューは青ざめた顔で男の前に回り込むと、大声で問いただす。
「そんな筈はない。わたしは確かに見たのです。ラウルフレッド殿下が、あなた方と共にいらっしゃったのを」
騎士の一人が馬鹿にしたように彼を笑った。
「何で我らが。殿下のお守りはおぬしらの仕事だろう。我らは栄えある国王陛下の近衛だぞ。いい加減にしないか」
別の騎士が、同じくにやにやしながら横から口を挟んでくる。
「まあた、あの遊び好きの殿下が城を抜け出したのか。おぬし達も大変だな、子供の世話は」
「遊びたい盛りのやんちゃ王子殿だから仕方ないさ」
近衛騎士の集団は、口々に殿下を揶揄して囃し立てると大笑いを始めた。
「なんて、品のない言い種なの。我慢できないわ」
リシェルが低い声で唸り席を立とうとする。その手を引き止めて、わたしは集団に目を向けた。
許せない。わたし達の主にあんな口をきくなんて。
悪戯好きで好奇心が強い、そんな茶目っ気たっぷりのラウルフレッド殿下は、弱冠十五歳という年齢と、城内を度々抜け出しどこかへ消えるという落ち着きのない性格ゆえか、城の人間に舐められて見られることが多かった。
争いを好まないおおらかな性格は、自分を馬鹿にするような振る舞いを仕出かす家臣をも笑顔で受け流す。
城下では気さくな雰囲気が人気を呼んでいたが、城内の使用人ーー特に騎士連中、なかでも近衛騎士達は時に軽んじるような態度を平気で取ることもあった。
国王陛下の覚えめでたい彼らは、自分達を特別だとでも思っているのだろう。だけど今の発言は、どう考えても許しがたい。殿下はいずれこの国を継がれる方なのだ。あいつらとは立場が違う。
このまま黙って引き下がるなんて、殿下の側付きとしてあり得ない行為だわ。
わたしが決意も新たに席を立った時、冷え冷えとした声が食堂内に響き渡った。
「少し不敬が過ぎませんか。いくら近衛の方とは言え、殿下を愚弄されるのは許されません。お立場をわきまえていただきたい」
「何だと?」
アンドリューは静かな声で、並みいる近衛騎士達の怒声を黙らせる。
「あなた方がどう思われようと、殿下はこの国を継いでいかれるお方です。そのことに口を挟める者など誰もおりません。殿下は聡明な方だ。城を抜けられるのも広く国をお知りになりたいから、わたしはそう思っています」
近衛の奴らが鼻で笑った。
「そう思うなら放っておけばよいだろう。我らが後学のための知恵を授けて差し上げたのだから、むしろ感謝をしてもらいたいものだ」
「やはり、殿下の行き先をご存じか? 教えていただこう」
アンドリューが更に彼らに近付くと、騎士の一人が彼を払い除けるかのように腕を動かした。
「お前は年上に対する礼儀も知らんのか? そのような口の聞き方をしてくる輩に話すと思うか?」
「殿下の身の安全を確保出来るのであれば、我らも無理に連れ戻すようなことは致しません。その為にも行き先を知っておきたいだけなのです。ですから教えていただきたい」
邪険にあしらわれても必死で食い下がるアンドリューに、奴らは下品な笑みを向ける。
「全く殿下のところの従騎士はなってないな。近衛騎士の我々に随分偉そうに物を言う」
「……わたしは従騎士ではありません」
「ああ、何か言ったかぁ?」
俯くアンドリューを見て、近衛達はドッと馬鹿笑いをした。アンドリューは震える声をこらえるように口を開いた。
「失礼な言い方をしてしまい、申し訳ありませんでした。どうぞ無礼をお許しください。どうか殿下のーー」
「俺、こいつを知ってるぞ。こいつは従騎士なんかじゃない。正騎士だよ。綺麗な顔をしてると女共が騒いでおったから覚えている」
その時、アンドリューの謝罪をかき消すように、騎士の一人が彼を睨んで大声を出した。その声に呼応するかのように、別の男も同意して騒ぎ出す。
「なんだ、お前。そんな女のような成りをして、一人前の騎士だと申すのか? 細っこい腕をしおってまともに剣を振るえるのか」
無駄に筋肉のついたむさ苦しい体を見せびらかすように、近衛騎士の一人が胸を張ってアンドリューをからかい始めた。
言っておくけどあんたみたいに筋肉だけなのは、問題外よ。わたしが心惹かれるのは美しい肉体と、それに見合う容姿と魂を持った、デレクのような本物の男なの!
「お前のようなひ弱な奴に騎士など務まるか? いっそ、そのお綺麗な髪を下ろし、ドレスでも着たらどうだ? ドレス姿で尋ねに来たなら答えてやってもいいぞ。なあ、おい?」
騎士達はアンドリューを馬鹿にして大笑いをやめない。
「全くだ。この格好よりよっぽどこいつに似合いそうだ」
華奢なアンドリューを取り囲んで、どこまでも盛り上がる品のない笑い方だ。
最低だこいつら。一発お見舞いしてやらないと気がすまないわ。
「あんた達、いい加減にーー」
わたしが一団に声をかけた時だった。
「分かりました」
アンドリューの声がいつもよりグッと低く響く。出鼻を挫かれたわたしは、呆けたように彼の言葉に聞き入った。
「本当にわたしがドレスを身につけて来れば、殿下の行き先を教えていただけるのですね?」
「ちょっと、アンドリュー?」
わたしを無視してアンドリューは、近衛の奴らを睨みつけた。
問われた騎士達は一瞬戸惑いを見せるが、すぐに顔を見合わせ面白そうに嘲笑を浮かべる。
「ああ、そうだな。教えてやろう」
ニヤニヤと笑う歪んだ顔がとてつもなく醜い。内面の汚さが表面にまで現れてしまっているようだ。こんな奴らばかりじゃないと思うけど、この程度で近衛を拝命してるだなんて、真剣に国の治安に不安を覚えるわ。これじゃ貧相な体つきでもアンドリューの方がよっぽど……。
「そうですか。では今すぐ用意にかかりたいと思います」
騎士達から背中を向けるアンドリューを、わたしは慌てて呼び止めた。何を考えてるのよ。こいつらの口車にむざむざ乗るなんて。
「ちょっと馬鹿なの、あんた? 速まらないで!」
アンドリューはやっとわたしに気づいたとでも言いたげに、顔を向けてきた。
「ああ、ちょうどいいところに、ジュリア。悪いけどあなたのドレスを貸して欲しい」
大変だ、目が据わってる。これは本気だわ。
「冗談じゃないわよ。いいから、目を醒ましなさい」
わたしが噛みつくように吠えまくってやったら、後ろの男共がやんやと騒ぎ立ててきた。
「茶々を入れるでない、侍女風情が。せっかく面白い見せ物で楽しめるものを」
「そうだ、そうだ。大方この男の方が見栄えがするから恐れているのだろう。言っては何だが、お前男に負けているぞ」
今度はわたしを見下してせせら笑う、むさい一団。
「何ですって?」
何なの、こいつら。言うに事欠いて、わたしが鼻たれ坊主より劣るだってえ?
「そうですよ、ジュリア殿」
怒りに震えるわたしに、横から静かな声がかかった。
「もうじき面白いものをお見せ出来るのだから、あなたも邪魔をしないでいただきたい」
「な、面白いものって、アンドリュー?」
何を言ってるのよ、こいつまで。自ら志願するようなことを口走るなんて、頭がどうかしてしまったんじゃないの。
近衛騎士共は自分達に同調してきたアンドリューを見て、益々図に乗って大声ではやし立てる。
「そうだとも。この男も了承してるのだ。いくら女としての立場がないからと言って、無粋なことをするでない」
「全くだ」
「ーーええ、その通りです。皆様方」
うるさく騒ぐ騎士達を一瞥して、アンドリューは微笑んだ。冷静な眼差しは幼い顔立ちに反し大人びて見える。
「これが見せ物でなくて何だと言うのでしょう。女装をしたわたしがあなた方に追いすがったら、それを見た人々はどう思うか。少し考えれば分かる筈だ」
「えっ?」
唖然とするわたしと、同じくキョトンと呆けて居並ぶ騎士達に、アンドリューは更に妖しく笑みを深めていく。
「きっと彼らはあなた方を、まず間違いなく男色家と誤解するでしょう。見たところ女性の扱いに慣れてらっしゃらないようだが、今までもなかった縁がこれで完璧に切れてしまいますね、お気の毒に。男色家などと烙印を押された方の元へ、嫁いで来る物好きなどそうはいない。忌々しい記憶が人々から薄れて、口さがない人間が噂をしなくなるのは、さて、どのくらい先の話になりますか……」
「おい、待て。そんなことをしたらお前自身も」
慌てる男達を尻目にアンドリューは口元を歪めて笑った。
「わたしは構わないのです。大事な方は、本当のことを分かってくれているのですから」
わたしはアンドリューの漏らした、奇妙な一言に引っかかった。
今ダイジなヒトーーって言ってなかった?
「あなた方はどうなのですか? わたしの女装と引き換えに、ご自分の嗜好を他人より疑われても構わないのですか?」
一歩近づくアンドリューから、明らかに動揺して騎士達は退く。
「ちょっ、ちょっと待て。おい落ち着け」
互いに目配せしあう近衛騎士の面々からは、先ほどまでの威勢のよさはすっかりと消えてしまっている。アンドリューは落ち着き払って言い返した。
「わたしは冷静ですよ。ですがあなた方はどうなのです? 酷く慌てておられるように見えるのですが」
「いいから待てと言ってるだろう」
「それでわたしは、こちらに戻ってくればよろしいのですか? しばらくお待たせすることになるのですが」
「ええい、うるさい!」
今にも女装姿で現れかねないアンドリューを、騎士達は恫喝して黙らせた。
「いい、ドレスはもういい」
「ですが、それでは」
「いいと言ったらいいんだ! お前、覚えておけよ」
「あ、お待ちをーー」
アンドリューの呼び止める声を無視して、近衛達は捨て台詞を残し食堂を出て行った。休憩を一切取らず、それこそ逃げるような後ろ姿だった。
あとに残された者達は彼らの逃げ足の速さに呆然として、それから小さな声で苦笑を漏らす。食堂にいたのはわたし達だけではなかった。一部始終を見ていた者が笑い出すのも仕方ない。わたしとアンドリューはあちこちから聞こえてくる忍び笑いを受け、気まずくなって視線を外した。
「凄いわ、あなた」
リシェルが微笑みながらこちらへやって来る。
「あいつらを言いくるめるなんて、若いのにやるわね」
以前同じように近衛騎士に暴言を吐かれた過去がある彼女は、わたし達に同情的だ。リシェルが話しかけて来たことにより、聞こえていた数人の笑い声も途絶え、さっきの馬鹿げた騒動も何事もなかったかのように霧散していった。
「凄くなどありません。ついカッとなって口が過ぎ、殿下の所在を聞き逃してしまった」
悔しそうにアンドリューは唇を噛む。
「いいえ、度胸があるわよ。近衛の奴ら相手に啖呵を切るんだもの」
わたしはふと思い出して、赤い顔で俯く生意気な同僚騎士を掴まえた。
「そう言えば、あんたおかしなこと言ってたわね。大事な方がどうとか」
アンドリューがわたしを当惑したように見返していた。彼はポカンと開いた口から、力の籠もらない問いかけをしてくる。
「は?」
はあ? 「は?」じゃないわよ。聞いてんのはこっちよ。
「あ、アンドリュー。こんなところにいたのか」
その時、突然大きな声で彼を呼ぶ騎士達が現れる。
「グェン、デッド」
アンドリューは入って来た男達の方に顔を向けた。やって来たのは同僚の護衛騎士達だった。二人ともラウルフレッド王太子殿下付きだ。
「おや、ジュリア殿もおられたのですか」
彼らはわたしに気づいて軽く頭を下げ、アンドリューに向き直った。
「急ごう、殿下がお戻りになられた。お前を呼んでいる」
騎士の一人グェンが、アンドリューを引っ張って連れて行こうとする。アンドリューは思わず目をパチクリとして呆気にとられていた。
「殿下が? それは随分早いお戻りで」
「ああ、それがな」
もう一人の騎士デッドが、ニヤニヤとしながら声を潜めた。
「どうやら城から逃げ出した直後、意外な人物に取り押さえられたようだ。それで早々に城に戻って来られたのだ」
「意外な人物?」
二人の騎士が声を揃えて口を開く。
「お前の兄上だよ。アンドリュー」
「ええっ、それ本当?!」
だが彼らの言葉に一番大きく反応したのは、アンドリューではなくわたしだった。




