4、朝食と逃亡
4、
温かい何かに、すりすりとおでこをこすりつけた。
あぁ、幸せだ、温かい布団に、温かいなにか・・・ん、なんだ?
ボーっとしながら薄っすら目を開ければ、誰かの寝息が聞こえた。
なんだ、浅海がまたベッドに入ってきたのか。まったく、狭いベッドだというのに。
「もぉー・・・ベッド狭いんだから入ってこないでよ。寒いのは分かるけどさー・・・ 」
そう言いながらグイグイと温かい物体をベッドの端へ押していく。
それにしても、今日の浅海は、なんだかデカイ気がする。それに、硬い。
「どなたと間違えておられるのかはわかりませんが、不愉快ですのでやめてくださいませんか 」
「ひぃ!! 」
普段の寝起きの悪さなどなかったかのように、文字どおりに飛び起きた。
反動によりベッドのスプリングではねる私。
さっきまで一生懸命押していた温かいものは、のっそりと上体を起こした。
「オハヨウゴザイマス・・・ 」
「おはようございます。朝から騒がしことですね 」
にこりともせず、メガネをかけた優都さん。あ、よく知る顔になった。
けど、髪の毛が下してあるから、いつもよりも圧迫感がないぞ。
「えっと・・・、よくわからないのですけど 」
「でしょうね。昨日、あなたはすやすやと、隣の部屋のソファーでおやすみになられていましたから 」
ですよね。昨日、お風呂からあがった後、優都さんを眺めながらソファーに寝転んで、そのまま目を瞑った。
そう、だから、それは良いのだ。しかし、
「どうして、ベッドに寝ているのですか? 」
「就寝するときは、ベッドでしょう 」
しれっと答えるものだから、あぁそうですね、と答えそうになってしまったではないか。
違う、断じて違う。そういうことを聞きたいんじゃない。
だって、ベッドはお隣にも立派なものが、もう一つあるのだ。
なのに、どうして一つしか使わないのか。だけど、あぁ、なんて言おう。
「えっと・・・その・・・就寝とかっていうか・・・・・・何でもないです 」
じっと見つめてくる瞳に、何も言えなくなってしまって私はうつむいた。
そんな私を見て、優都さんは、ため息をついてベッドを出た。なんだか朝から気まずい雰囲気だ。
時計を見れば、まだ六時だった。今日は土曜日、朝食が出ない日。
いつもなら、もう三時間ほど眠ることができる時間だ。
部屋を出て行ってしまった優都さん。おそらく、この隣には昨日のソファーの部屋があるのだろう。
耳を澄ましても、物音はしない。
一人取り残されてしまった私の元には、ふかふかの温かい布団がある。そして、私はとても眠たい。
誘惑に簡単に負けて布団に包まれば、再び夢の世界へ旅立つのは容易なことであった。
氷点下の車内で私は、再び夢の世界に旅立った自分をくびり殺したい気持ちで一杯だった。
車の中の雰囲気は最悪、運転席の優都さんの機嫌も最悪。
唯一、あの後しっかり三時間眠った私の頭は大変すっきりしているが、この状況で、それは救いとはいえない。
むしろ、前後不覚、現状把握が無理という状態の方が絶対に幸せだ。
氷点下の車内では、息をすることすらも苦しい。
しかし、耐えろ私。どう考えても、南極をハワイにすることは無理だ。
「素晴らしい神経をお持ちですね 」
「ありがとうございます 」
感情のこもっていない声。機械が喋ったような声。そう形容するのが相応しい声に、私は運転席とは反対にある左の窓を必死で見つめながら答えた。
二度寝の後、9時ちょっと前に起きた私は、テーブルに「8時に外に出るように」と書かれたメモを見つけて青くなった。
並べられた朝ごはんは冷たくなっていても美味しそうだし、用意された服は、ブラウスにカーディガン、スカートとシンプルながら質の良いものだった。
鞄も用意されており、私の私物が入れ替えてあった。メモには、ドレスなどの一式はクリーニングに出しているとあり、今日の夕方には帰ってくるそうだ。
それに安心してから、慌ててご飯を詰め込んだ。
朝ごはんを抜けない自分を恨めしく思いながらも、優都さんがしっかりと朝食を用意していてくれたことが嬉しかった。
ブラウスもカーディガンもスカートも、シンプルながら質の良いものだった。
久しぶりに着る高い服は、いつものように私にぴったりでなんだか不思議な気持ちがした。
そうして、ようやくたどり着いたロビーでは、待たされすぎてロビーの住人になってしまったような優都さんが
絶対零度の視線で私を迎えてくれたのだった。
窓から見える風景は、いつもと変わらない街。
山とか人気のないところへ連れて行かれるのかと冷や冷やしていたから、少しだけホッとする。
しかし、真の安心とは家に帰るまでなのだ。
「あの、どこに向かっているのですか? 」
「家ですよ 」
「家ですか・・・? 」
どこだ?家なんて、今の私にとっては寮以外ない。しかし、寮のあるところとは違う場所を走っている。
私の葛藤など無視をして車はどんどん進んでいく。ここらへんは、高級住宅街であり貧乏学生の私とは無縁の場所である。
あぁ、そういえばおじいちゃんの家がここら辺にあった。なるほど、家っていうのは、おじいちゃんの家か。
私が、そう結論した時、車はゆっくりとどこかの家の駐車場に止まった。
窓から見えるのは、黒を基調とした三階建ての大きな家だ。落ち着いた雰囲気と圧迫感は、なんだか優都さんみたいだ。
優都さんが車から降りたから、慌てて私も降りた。当たり前のように、その黒い家の玄関へ入っていく優都さん。
ちょ、不法侵入ですよ。ここは、純和風の屋敷である柏木本家とは、似ても似つかないですよ。
「優都さん、ちょっと待って 」
急いで閉まりかけの扉を開けて中に入る。やはり、中も黒を基調とした作りである。
でも、圧迫感はなく、どこか安心できる。なんでか、懐かしい気もする。
すでに靴を脱いで、私を出迎えるようにしてこちらを向いている優都さん。
うっすら微笑んでいるように見えるのは気のせいだろうか。
「あの、ここって・・・ 」
「亜姫子さん 」
「は、はい 」
車内の不機嫌な声とは違う、優しい声。
あの頃とかわらない呼び方。それらに、思わず泣きそうになった。
私の目の前にいるのは、まぎれもなく、あの頃の優都さんだ。ずっと会いたくて、会えなかった人だ。
「おかえりなさい 」
そう言って伸びてきた手は、私の手を強く握ったから
もう、涙を我慢なんてできるはずもなかった。
久しぶりの涙の決壊に、私自身も困った。
なぜ、どうして、止まらないのか。そんな私の手を引いて、優都さんはリビングまで連れてきてくれた。
靴を脱がしてくれたり、ドアをあけてくれたりして、今までの冷たさは嘘のようだ。
これが、飴と鞭なのか。だとしたら、次に来る鞭に私は耐えられるのか。涙腺は決壊してしまったというのに。
リビングらしき部屋の大きなソファーに隣り合って座った。少しすると泣き疲れてしまって、落ち着いてきた。
しゃっくりが止まり、鼻水も止まった。でも、手はまだ繋いだまま。
暖かい手、懐かしい手。正直、まだ離したくはないと思った。もっと、この懐かしさに触れていたい。
だけど、今までなかった左手の指輪の感触に気づいて、仕方なく手を離そうとした。
しかし、優都さんの手がしっかりと私の手を握っていて、離すことはできない。
「すぐにでも住めるようになっています。ここは、あなたの家です 」
優しい声に温かい手、そして新しい居場所。私は、初めて会ったときのことを思い出した。
絶望の淵に立っていた私に、希望の光がさした瞬間。そして、幸せだった日々。
「私の、家・・・? 」
「そうです、あなたの家です。あなただけの居場所です。
そして、これをもちまして、私はあなたの補佐担当の任を終えます 」
そう言って、小さく頭を下げる優都さん。
私は、優都さんが今言った言葉が理解できなくて、反応ができなかった。
周りの音が消えて世界がぐちゃぐちゃになっていく。
これをもって、たんとう、ほさ? 終える? 終わりってこと?
あぁ、これが鞭というわけか。
いや、鞭ですらない。これは、ずっと決まっていたこと。
優都さんが、私のお守りの任を解かれる日。
私たちの繋がりがなくなる瞬間。その時は、いつか必ず来ると思っていた。
でも、今こうして、その瞬間を迎えるなんて、あまりにも皮肉すぎる。
彼が私に縛られるのが嫌だったから私は、あの日家を出たのだ。
だから、これは、ある意味望んだ結末。
でも、でも、でも、できるならこんな瞬間を迎えたくはなかった。
繋がりが断ち切られる日なんて永遠に知らないままがよかった。
知らないまま、一人で小さな繋がりを大切にしながら暮らしていたかった。
優しい声も暖かい手も微笑みも、大好きだった。
でも、本当の彼は、優しくも暖かくもないのだ。
少なくとも、仕事で任された子どものお守りでもない限り、彼は優しくなんてない。
それなのに、私はそんなところが大好きになって、恋なんかしてしまった。
今も、泣いたりなんかして、手を久しぶりに握ったのが嬉しかったりして
あまりにもバカみたいだ。
「それと、 」
「わかりました。結構です 」
なんとか絞り出した声で、優都さんの言葉を遮った。
これ以上、仕事の言葉なんて聞きたくない。手を振り解いて立ち上がれば、驚いたような表情の優都さん。
そんな優都さんを見下ろして、私は微笑んだ。一世一代の優しい笑み。
「このお家、いただきます。ありがとうございました。優都さん、今までありがとうございました 」
深々と頭を下げれば、初めて告白したときのことを思い出す。
あぁ、私の軟弱者!!さっき散々泣いただろう!!
また泣きたいのなら、あとで、もう一生分泣けばいいんだ。
「さようなら 」
よーい、ドン!!のように走り出した私に、さすがの優都さんも反応できなかった。