超コンピューター
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
ねえねえ、こーちゃん。質問してもいい?
スマートフォンの略はスマホっしょ? スマフォが小数なのはフォをホの字にすることで、日本人になじみやすい三文字にするとともに発音を楽にする意味合いがあるらしいんだ。
でも、携帯電話はなぜ「ケータイ」や「ケイタイ」なの? どちらかというと「ケイデン」のほうがしっくりくるのに、なんで前半部分のみ強調する感じになったのかなあ?
――一説によると、もともとは携帯自動車電話がシステムのもとであり、車に積むかどうかが焦点。電話部分にはたいして比重が置かれていなかったから?
へえ、もともとをたどってみたら、そこから略称が引き継がれ続けているというわけだね。
その略称をケータイからスマホにすっかり取りかえちゃった、というのは僕たちが思うよりも大きい事件なのかもしれない。その気になれば、ケータイのまんまでも意味が十分通じるでしょ?
そこを新しい名前をあえて推し、古い名前を隅へ追いやる。一般人の知るところじゃないけれど、知る人ぞ知る決意やもくろみのようなものが影にあるのかもしれないね。
ちょっと前におじさんから聞いた話なのだけど、耳に入れてみないかい?
「これから僕は、自分の頭を『超コンピューター』と呼ぶことにする!」
朝の小学校のクラス。おじさんより後にやってきたクラスメートが、だしぬけにそのようなことをクラスのみんなに宣言した。
――確かに成績は優秀なやつだけど、どうした急に?
そう思うおじさんと、似たような表情をした人が何人もいたから、おそらく同じような心持ちだったと思う。
そのクラスメートによれば、何やらの科学雑誌で、人間の脳みそにおける1秒間の活動はスーパーコンピューターの数十分の活動に匹敵するスペックがある、と語っていたためらしい。
そしてなにより、アドリブや予想外の要素に対応しきれないスーパーコンピューターに対し、我々は瞬間的にそれらの事象へ対応する力に優れている。
我々はスーパーコンピューターを上回る、超コンピューターを積んでいるのだから、超コンピューターを堂々と名乗るべきだ……という言い分だった。
超コンピューター。なんて安直で、呼びづらくって、ダサいんだ。
おじさんは思った。
第一印象はとっても大事。せめて「超コン」にしとけ、という誰かのアドバイスで、超コンと称するようになった件のクラスメート。
この場はそれでおさまったものの、今度は彼がやたらと「超コン」を引き合いに出すものだから、たちまちうっとおしくなった。
テストでいい点を取れば、やれ超コンのおかげだとか、体育でいい動きをすると、やれ超コンの計算のおかげだとか。
ひとりで悦に浸っている分には勝手にしろと突き放すが、ことあるごとに喧伝されては、興味ない側としてはたまったものじゃない。みんなじょじょに彼から距離を置くようになっていった。
でも自称、直感に優れるというおじさんは首をかしげたらしい。
――しかし、妙だなあ。あいつは今まで自分の実力を誇るのに余念がなかったのに、あのときからやたら「超コンのおかげ、超コンのおかげ」と来たもんだ。
まるでこれまでの実力賛美を否定して超コン賛美に宗旨替えでもしたかのよう。あいつ、何があったんだ?
某科学雑誌の記述による、みたいなことを言っていたっけ、とおじさんは思い返す。
それとなく彼から雑誌名を聞き出し、その日の帰りに本屋さんへ寄ってみる。
彼が話したのは数か月前のバックナンバー。それをたまたま目にして感銘を受けたのだとか。
おじさんは主だった書店をめぐってみるも、置かれているのは最新号のみ。帯掛けしていないそれをパラパラとめくってみたものの、中身は嘘か真かあやしい中身が7割以上で、オカルト本に入りそうな勢い。空想科学的なギャグ本と割り切るなら、ありかもしれないといった感想。
おじさんも骨折り損は嫌いなタチだ。乗りかかった船ならばと、大きな書店ばかりでなく、小さな古書店にも足を運んでいった。
いったん家へ帰って自転車を引っ張り出せば、捜索半径は大きく広がったと思う。けれど、このときのおじさんは一刻も早く例のバックナンバ―を見つけたかった。それにあたり、一時帰宅は大幅な時間ロスに思えたのだとか。
そうして何軒もはしごして、ようやくそのバックナンバ―へ出会えたおじさん。
具体的なページに関しては覚えていないという彼に、「超コンとやらもしれたものだな」と頭の中で毒づきながら、ページをめくっていくおじさん。
ああも「超コン」にこだわっていたから、そのワードが出てくるページのみに集中すればいいはず。そう思いながら斜め読みしていったのだけど。
どのタイミングだったか。
開いたページがいきなり、黒く塗りつぶされいる箇所があったんだ。
印刷ミス? と思ったものの、そこは黒一色ではない。中ほどには別に赤紫に明滅する何かがうずまっていたらしい。消えては光り、光っては消えるその様は、ひとつところにとどまらず、黒く塗られた外縁部分をのぞき、あちらこちらで見られたとか。
けれど、それもわずかな間。「あ」と声をあげて本を取り落としたときにはもう、ページにそれらはもう浮かんではいなかった。
錯覚かと思い、ページを詳細に見てみるもなんてことはない。当時に封切りされたばかりのSF映画を科学的側面から検証したコラムが載っているばかりだったとか。
でも、満足に読むのには時間がかかった。
おじさんの眼には、まぶたを閉じても開いても、カメラのフラッシュの残像のごとき輝きで「超コンピューター」のフレーズが浮かび続け、読書の妨げをしていたものだから。
店から逃げ帰ってから数時間ほどは、この残像は残り続けた。それでも、しょっちゅうではなくなったという程度で、ふと気を抜くと思い出したように浮かび上がってきて、しんどかったとか。
さらに悪いことに、翌日から例の超コンの彼が家で倒れて、長いこと入院生活を余儀なくされた。先生いわく、頭に重い病気を患ってしまったとのことで、退院したとしてもこれまで通りの生活が遅れるかどうか危ぶまれるほど……と。
結局、在学中に彼と再会することはなく、おじさんはその時以来、しばしば妙な夢を見るようになってしまう。
あの、バックナンバーの開いたページにある、黒い汚れとその内側で明滅する赤紫の光たちだ。
視界いっぱいに広がるそれらを見ていると、夢の中にもかかわらず頭がきりきり痛むし、聴覚もまたマヒしてしまう。
まるで数十人、数百人が耳元で絶叫しているかのようだ。意味のあるなしにかかわらず、情報量が多すぎて負担にしかならない。それでもなんとか読み取れる一部の情報は、おじさんによると一部の予言めいたもので、将来を見通したかのような百発百中の精度だったとか。
おそらくクラスメートのいう「超コン」の正体は、これなのだろう。膨大な情報量を受け入れたとき、その名にふさわしいスペックをふるえる。けれども、おそらく人の身にはまだ早い。
今でもおじさんはその聞く力を持っているといい、長年の経験からいくらか習熟したらしく、テレパシーめいたことができるとも話していた。
実際に、僕が頭に浮かべているフレーズをノーヒントで一字一句たがえずに、読み上げたこともあって信じざるを得なかったよ。
けれど、幾度かそれをやると鼻や耳から血が出てふらついてしまう。実際に目の前で血を流されたから、使用をせがむのはもうためらわれる。
もし、すべてをゆだねたらもっとすごいことができるだろう。けれどもそうなったらあいつの二の舞だろうからと、おじさんはこの能力を必要以上に使わないまま墓へ持っていく腹積もりみたい。
頭脳を超コンピューターと称することができるとき。その訪れが人類にとって幸せなことだと、いいのだけどね。




