第3話
キッチンで温めたお湯を注ぎ、コーヒーを作った。さっきまでの緊迫感は少しずつ薄らいでは来たけど、“なんだ、ただの夢か…”って思えるほどには、頭の整理がまだついていない。
焼け焦げてしまった食パンにバター。コーヒーに入れ忘れた角砂糖2つ。後からミルクも入れ直して、不意に訪れた「冬」にこんにちは。
「いい加減目ぇ覚ましーや、姉ちゃん」
うるさいな。だからこうしてコーヒーを飲んでるんでしょ?
目を閉じて考える。当たり前のように朝を満喫している私がにわかには信じ難い。壁に貼られたカレンダーの日付、間違ってるよ。だって今は9月だし。誰がなんと言おうと今は9月だ。私がおかしい訳がない。そうだよね、梨紗?
夏がもうすぐ終わるから、今週の日曜日に家族団欒でバーベキューをやろうって約束してた。季節が変わる前に。もちろんあんたも覚えてるよね?忘れたとは言わせない。言い出しっぺはあんたなんだからね?
「なにそれ、そないなこと言うたっけ?バーベキューって笑。こんな寒い時期にできるわけないやん。第一バーベキューできる道具ないし」
だから日曜までに、ホームセンターに一緒に買いに行こうって話してたじゃないか、梨紗のバカ。梨紗は私を見るなり切迫した表情でおでこに手を当てる。暑苦しいなもう!と言って手を解くけど、心配そうにじっと私を見ている。妹のくせに世話焼きだ。
「ほんまに大丈夫?熱でもあるんちゃうの?」
熱があったって夏を冬に間違えるバカなんていない。それにあんたは朝、冷房をガンガンに効かせてソファに寝転がってたじゃないか。「あぢぃ〜」とかなんとかほざいてたのはどこのどいつだ。
そのうちに母さんが寝室から降りてきた。どうしたのこんなに朝早くから、と母さんは言うんだけど、どうして梨紗が家にいるの?学校は?私より先に家を出たはずなのに。
「学校ってあんた、ひどいねぇ…。冬休みやのに」
「そや!ひどいわお姉ちゃん。私を家から追い出そうとせんでよ」
はいはいそうですかすみません。べつに追い出そうってことはないけど、なんだ今日は冬休みか。
…いやいや、納得してる場合じゃないんだけどね。全然実感が湧かないし、そんなふざけた話を信じられるわけがない。
そうだ、カレンダーの下の棚にスケジュール帳があったでしょ。今年の夏はステップアップの夏にするんだって、梨紗が提案してきた。それで一緒に書いたんだ。『今年の夏にやるべきこと』と題して。映画を見る本を読む買い物に行く服を買いに行く。私たちなりに立てた目標だった。ろくに遊べる機会なんてなかったからね、去年の夏は。
棚の中を探してみるんだけど、見つからない。今年の夏は、いろんなことをやるって決めてた。書いたことは間違いない。メモとしてたくさん書いてまとめていたんだ。でも、見つからない。
「楓、今日は寒いから風邪引かんようにね。梨紗、あんたもよ」
うん、うん、そうだねとお母さんに返事をして引き出しを漁る。全然言葉は聞こえてこない。梨紗はまじまじと私の方を見ているようだけど、知らんぷりして目の前の出来事に集中した。
「それで今日のパーティーのことなんやけど」
はい……はい……
「ちょっと!ちゃんと聞いとる?」
え、ああ、クリスマスパーティーが今日あるんだって?そりゃすごいや。全然頭に入ってこないけど。梨紗、少し黙っててくれる?
「お姉ちゃんは何が食べたい?」
うーん、そうだね、じゃあ肉かな。うんとでかいやつ。お母さんにも相槌しながらごちそう談義に入ってる梨紗との会話をつづけて、私は私でひたすら棚の中を探った。
今年の夏。高校生活1年目の2学期スタート。クリスマスパーティーなんて冗談にもならない。お母さんの顔、食卓に並ぶあたたかいパンとコーヒー。当たり前のように映るその日常の風景たちが、まるで綺麗な幻みたいに見える。
なぜか遠い昔のことみたいに、目の前の景色が懐かしく思えた。
ここが夢の世界なら、いつかは目が覚めるだろう。見つからないスケジュールに嫌気が差して、天を仰ぐ。
あーもう…、なんで無いの?
梨紗は梨紗で今日のパーティーのことを賑やかに話してる。キラキラした口調。よっぽど楽しみなんだなと思いながら、私は私で「はいはいそうですか」と適当に相槌を打つ。
ねえ、あんたも一緒に探してよ?
バカなこと言ってないでさ。
夢なら早く醒めて欲しいけど、醒めてほしくない気もする。もし醒めたら、私は死んじゃうんじゃないか?と思ったからだ。
交差点にいたあの時、なにかとんでもないことに巻き込まれたような気がした。きっと、…いや多分、何か不吉なことが起こったに違いない。うまく思い出せないけど、それが「良からぬこと」であったことは、記憶の片隅に思い出せた。痛みも何もなかったけど、ものすごい衝撃を全身に受けた。飛ばされたのか、下敷きになったのかは知らない。だけど確実にわかるのは、なにか得体の知れない巨大な物体にぶつかったという事実が、「体の記憶」を通して思い出せるってこと。その記憶が確かなら、ドンッ!という音が体の中心に響いて、急に視界が真っ暗になった…。
そこまでは覚えてる。
気がついたら家にいた。
この場所、見慣れた我が家の空間に。
首を傾げながら梨紗を見た。どこを探しても、スケジュールが見つからないんだけど…
相変わらず目をキラキラさせて、こっちを見てる。困っている私のことなんて気にも留めず、今日はどうするのかと騒がしい梨紗にも嫌気がさして、ちょっと黙っててよと口元をつまんだ。痛がりながらものすごい勢いで私のことを睨む梨紗。そのしかめっ面を見て、思わず笑いがこぼれてしまう。
「今日がなんの日」か、まるで素知らぬふりをして白色に染まる空。窓の外でチラつく雪の結晶を目で追いながら、ふと、良からぬ想像をしてしまった。
…もしかして、ここは死後の世界なのか…?
そう思わずにはいられないほど、さっきまでの「時間」が頭の中に焼き付いて離れない。後にも先にも、あんな衝撃を体感したのは初めてだったからだ。
「…ちょっと空気吸ってくる」
外の空気でも吸ってこよう…。
流石に寒そうだからセーターを着た。出した覚えのない毛皮のブーツが玄関に並べられてあったからそれを履いて、靴箱の横にある帽子ツリーからマフラーを拝借した。多分、これは梨紗のだ。
「どこ行くん?」
不思議そうにこっちを見ているお母さんが、玄関前の廊下で立ち止まっていた。
「わからへん」
どこに行こうか。
とりあえず新鮮な空気を吸わないと、今の状況を整理できそうもないと思った。
家を出て、なんとなく街の中心とは反対の方へ歩き出した。
空気はひどく冷たいけど、足取りは不思議と重くなかった。心のどこかが、どうしても“こっち”に行きたがっていた。まるで引き寄せられるみたいに、坂道を下ってゆく。
私が住んでるのは神戸市の須磨区ってところで、山もあれば海もある街だ。ちょっと歩けばすぐに波の音が聞こえてくる。そんな土地にずっと暮らしてきたせいか、私は昔から海が好きだった。
波打ち際でしゃがみこんで、ずっと波の音を聞いてる時間がどうしようもなく好きで。高くなったり低くなったり、泡だったり、引いたり押したり。海の息遣いみたいなそのリズムが、どこか心の内側とシンクロする瞬間がある気がして。砂浜に座り込んで耳を澄ませてるだけで、うまく言葉にできないような気持ちがふわってほどけていく。
……にしても、寒い。
ついこのあいだまであった真夏の直射日光が、どこかへ隠れてしまったみたいに世界が真っ白になってる。日差しはどこへやら、風は冗談みたいに冷たくて、セーターの上からでもじんじん体に染みる。
服、間違えたかもな……。
でも、、これが夢だっていうんなら、むしろこの寒さが刺激になってくれるかもしれない。ほっぺがピリッと痛くなるくらい冷たい風に当たれば、目が覚めるかも。もし、ここが死後の世界なんて展開だったとしても……まあ、それはそれで仕方ない。私がすべきことって、何かあったっけ?
そんなことを考えながら、海へと続く道へ出た。須磨の住宅街を抜けていくあの、ちょっと広めの一本道。途中道沿いにあるスーパーマーケットの前を通り過ぎて、畑や古い倉庫の並ぶ開けた風景が視界に広がると、やがてその先に——海が見えてくる。
瀬戸内海。
ああ、やっぱり私、この場所が好きだ。
ほんの先週キーちゃんとキャッチボールしに来たときは、空も海も、もうちょっと眩しかった。陽炎が地面の上をゆらゆら揺れてて、海面は太陽の反射でキラキラしてて、光の粒が生きてるみたいにはしゃいでた。海の色も水色っていうより、どこまでも透き通る“夏の青”って感じで。
でも、今日はまるで別の顔をしてる。
海は重たい紺色に沈んでて、曇った空と混ざりあって、地平線の境界線が曖昧になってた。色だけじゃない。音も、匂いも、全部がしん……と静かで、まるで時間が止まってしまったかのようだった。
海に向かう坂道の途中にある駐車場、夏はいつも車でいっぱいになるけど、今日はガラガラ。神戸ナンバーも他県ナンバーも見当たらなくて、ぽつぽつ停まってる車も別に海を見に来た感じじゃなかった。営業車とか、通りすがりの誰かの車みたいで、人気なんてほとんどなかった。
駐車場の片隅で白い吐息がふわって上がる。
ああ……寒っ。
指先まで冷えてきて、かじかんだ手を袖に引っ込める。でも不思議といやじゃなかった。人のいない冬の海。寒さに包まれたこの景色を見てると、心の奥のほうが少しだけ落ち着く気がした。言葉にならないざわめきが、波の音と一緒にちょっとだけ遠くへ行ってくれるような。
須磨の海って、派手さはないかもしれないけど、ほんとにいい場所だなって思う。東側には明石海峡大橋がうっすら見えて、その向こうには淡路島の輪郭が浮かんでる。昼間でも少し霞がかったような空気が漂ってて、晴れててもなんとなく柔らかい光しか降りてこない。そういうところが、私はすごく好きだった。
砂浜の手前で足を止めて、私はしばらく海を眺めていた。
遠くで波が静かに寄せては返している。白く崩れる泡のリズムと、ほんの少し濡れた風の匂いが鼻の奥をくすぐる。砂の上には誰かの足跡が残ってて、それがまた、やけに切なく見えた。
こんな寒い時期に、海に来る人なんていないと思ったけど……ううん。もしかしたら、こういうときだからこそ来たくなるのかもしれないね。
街の音は遠くて、ただ風の音と波のささやきだけが耳に届いていた。
まるで世界に私しかいないみたいな、そんな朝だった。




