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雨上がりに僕らは駆けていく  作者: 平木明日香
第1章 未来から来た少年
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第1話



…あぁ、まだ寝てたい………


ふわふわのまどろみに包まれたまま、私は枕に顔を押しつけてごろりと寝返りをうった。頭が重たくて、起き上がる気力なんて1ミリも湧いてこない。しかも今日は朝から英語があるし……。あー、行きたくない。なんで学校って朝からあるんだろ。せめて10時スタートにしてくれればいいのに。


「楓ー!なにしとんの!はよ起きー!」


リビングからお母さんの声が飛んできた。はいはい、うるさいな……って心の中で呟きながら、顔を枕にうずめる。もうこの時間の叫び声も日課みたいなもの。うちの目覚まし時計は鳴る前に、だいたいお母さんの“ダミ声”で叩き起こされるのがオチ。朝から大音量で元気なの、マジで信じられないんだけど…


しぶしぶ夏掛け布団をめくって、部屋の隅に置いてある時計に視線を向ける。見たところで時間が巻き戻るわけでもないのに、やっぱりって感じの7時04分。……あと6分でタイムリミットかぁ。


「もたもたせんと、はよ支度しな」


「わかっとる」


洗面所で顔を洗い、冷めた目玉焼きを口に頬張る。母さんは毎日6時には起きてる。洗濯物とか朝ごはんとか、父さんの支度の手伝いとか。冷めた目玉焼きの味は、さながら家事をこなす忙しい朝の味、と言ったところだろう。味は嫌いじゃない。どんよりした気分を、少しだけ晴らしてくれる程度には。


「忘れ物せんようにな」


「はいはい」


夏休みが明けてまだ間もないから、体が休み明けの朝に慣れていない。肌寒くないからマシだが、秋が近づいてきているせいで、これからどんどん寒くなりますという気象予報士のトークが、昨日の夕方のニュースで流れていた。あと2ヶ月もすれば冬が来ると思うとゾッとする。ウチは暖房つけっぱで寝るのが禁止されてるし、寒いのだけは本当に苦手だから、2学期後半くらいからは遅刻の常習犯になりそう。まあそうは言っても、母さんが私を引きずってでも、無理矢理学校に連れていくのだろうけど。


「ほな、行ってきます」


国道線沿いを歩いて駅に向かった。高校へは自転車を使っても行けるが、大体は電車を使う。自転車だと20分はかかる。20分もかけて毎朝自転車を漕がないといけないのは嫌だった。だから母さんに甘えて、今年の春に定期券を買ってもらったんだ。お願いした当初は自転車で行きなさいと突っぱねられたが、「電車通学の方が勉強が捗るやろ」って半ばキレ気味に反発したら、条件を提示してきた。1回でも赤点取ったら定期券を買わないから、と、交渉を持ちかけてきたんだ。


私は絶句した。


さすがの私も赤点は取らないだろうという安易な考えで「定期券購入条約」の契約書にサインしたが、高校の勉強は案外難しく、とくに英語が手に負えなくなってきている。この調子でいくと秋頃には順当に定期券を失うという危機に直面するが、そんなことになったら一大事だ。


クソ寒い冬に片道20分の距離を走らないといけないなんて……



駅に向かう道中、少し遠回りをしようと思った。理由はとくにない。世話焼きの母さんのおかげでまだ時間に余裕はあるし、今日は月曜日だから週刊誌の発売日でもある。コンビニにサッと寄って、立ち読みした後に学校に行こう。そう思いながら街角を曲がった。少しでもゆっくり時間を過ごせれば……、と思いつつ。


今日は晴れのち曇りの天気らしい。そのせいで空は心なしか雲が多く、涼しいくらいに風が冷たい。ただ蝉の声は、まだ賑やかに響いていた。季節の変わり目に吹く風に紛れて、今年の夏の残りを楽しんでいるようにも聞こえた。その蝉の声を聞きながら、夏の終わりを寂しく感じた。


「夏の終わり」というより、長い休みが明けたことへの寂しさ、…かな。


夏休みをもう少し満喫したかったなぁ…、と、つくづく思う。明けてしまった以上もうどうしようもないけど、欲を言えば2学期は丸ごと夏休みにしてほしい。そうすれば冬が来ようと体力も気力も万全に整えて臨めるし、体調も崩さないでしょ?


えーっと…、確かローソンは…


地元の神戸の街は入り組んでいて、時々路地の入る場所を間違えてしまうことがある。まだ頭が覚めていないのか、自分が思ったところの道と、たどり着くべき場所が一致しなかった。確か中央幹線を横断して、川向こうの2番目の信号機を曲がったところに小さな看板があったはずなのに…


仕方がないから駆け足で来た道を戻った。それは元々の目的地であるローソンを探し直すためではなく、神戸市の中央区へと続く、県道21号線の反対車線沿いに向かうためだ。立ち読みできたらどこでも良いし、買うものはとくにない。時間に余裕があると言っても、さっさと用事を済ませないと、せっかくの朝のいとまが台無しになる。


急いで来た道を引き返して、歩道橋の向こう側に見える時計台を見上げた。


時刻は7時30分。


途中から線路を跨ぎ、レンガで覆われた公園近くの歩道の上を早歩きで歩く。すれ違うのは仕事に向かうスーツ姿の男性や、ガラス張りのビル、学校まで友達と一緒に歩いている小中学生の女の子たち、横断歩道の信号。


そこで私はあることに気づいた。


いつもには無い違和感。ブレザーのポケットがやけに軽いなと思いつつ、左手でその中を探る。


…え、ウソでしょ……?


いつも左ポケットに入れているはずのスマホ。入ってないじゃないか…!右にも無いし胸ポケットにはもちろん無い。…まさか、忘れたなんてことはないよね?


急いでバックの中を探った。あるのは寝癖直しのヘアウォーターと財布、教科書類に筆記用具、それからお茶。


…ない!


ないないないない!


ウソ!!


ちゃんとリビングに持って降りたはずなのに…!


確か目覚ましが鳴って、ラインの返信とかでご飯を食べながら触ってたんだけど、そのあとどこやったっけ…?


そのまま机の上とか?


時計を見た。電車の時間まではあと20分。


…、どうしよう。


家に帰ろうかな。いやでも、わざわざ取りに帰るほどのことでも……


だけど今日は、友達と約束してるんだよね。


この夏最後の花火大会。最後に思いっきりハメを外すつもりだから、家に帰るのが絶対遅くなる。遅くなるのなら母さんに連絡しとかないといけないし、最悪迎えに来てもらうという可能性も無いことはない。どっちにしても、スマホがないと何かと不便なんだよなぁ


…うーん


はぁ……しょうがない。とりあえず一回家に戻ろう。

立ち読みなんてまた今度でいいし、いつでも出来る。あーあ、私としたことが…。朝からこんなポカするなんて……


いつもの帰り道をくるっと引き返して、早足で歩き出す。家まではたぶん七分くらいかな?あんまりのんびりしてたら、今度こそホントに遅れちゃう。…のだが、生憎最初の交差点で信号に引っかかってしまった。


ああ、もう!ムカつく!


信号は赤だけど、もういっそのこと渡っちゃおう。入り組んだ路地の中だし、誰も見てないよね?目の前の横断歩道の先には、小さな商店街へ続く細い路地。いつもは通らない道だけど、ちょっと気まぐれで足を踏み入れてみることにした。


この辺って、昔ながらの店がたくさんあるんだよね。居酒屋とか個人経営のクリーニング屋さん、小さな八百屋にお肉屋さん。それからなんとなく場違いな感じの、屋上が駐車場になってるビジネスホテルとか、小ぶりな郵便局なんかも。朝が早いからどのお店もシャッターが下りたままで、街全体がまだ眠ってるみたいだった。


歩きながら、私はふと立ち止まって深呼吸した。コンクリートの壁とアスファルトの地面に囲まれた路地裏。けど、不思議と冷たくない。なんだろう、静かで、少しだけ懐かしい匂いがする。


空を見上げると電線が細い線を引いてて、その向こう側には朝の光を浴びた雲がゆっくり流れてた。日差しがちょうど角度を変えて、ビルの隙間から差し込んでくる。誰もいない路地に、オレンジ色の光がひとすじ斜めに落ちていた。


こういう時間、嫌いじゃない。むしろ、ちょっと好き。


普段は通学路で同じ景色ばっか見てるから、こういう裏道って新鮮に感じる。見慣れたはずの街なのに、違う顔があることに気づかされるっていうか……。なんかさ、そういう場所って、自分のことを少しだけリセットしてくれる気がするんだよね。別世界までとは言わない2丁目の路地裏。人通りも少ないし、車の通りはほとんどない。今日のように、たまにはこういう道を歩いてみるのも良いかもしれない。通い慣れた登下校の道がいつもと違う場所になると、新しい何かを連れて来てくれる気がするから。




 ——ファァァァァァァァン!



 …え、なに?



交差点へと足を踏み出したその時、それは一瞬の出来事と呼ぶにはあまりにも唐突な「刹那」だった。カーブミラーが設置されていない道。けれど、物静かな路地の裏側。コンクリートでできた無機質な建物たちに囲まれた十字路の中心へ、急いで向かおうとしていた。


その「出来事」は、意識の外側からやって来た。


「外側」というか、それよりももっと、視界に映らない“死角”からというか。


巨大な影と音が近づいてくるのを、反射的に知ることはできなかった。足も、手も、視線を止めるタイミングさえもわからない。そんな「一瞬」が、瞬く間に訪れた。空を切り裂くような金切り音。吹き上がる排気ガスの灰色の気体。「それ」が何かを認識する時間はなかった。少なくともそれが、「自然」の時間の流れの中にあるものには思えなかった。


…いや、そもそも…


考える時間なんてなかった。その現実を知れたのは、今まで経験したこともないような感覚が、体全体を襲ったからだ。


重く、硬いモノ。とてつもなく巨大なモノ。


形容するには時間が足りない…


思考の全てが遮られるかのような衝撃が日常の真横からやって来て、あっという間に視界が暗転した。瞬時に分かったのは、自分の体が何物かに突き飛ばされたということ。


「突き飛ばされた」——?


…いや、もっと激しい形容をすべきなんだと思う。


けど、…思考が追いつかない。


視界が回転して、さっきよりも地面が低いところにある。自分の身に何が起こったのか、それはわからない。大きな音がした。


…そこまでは、記憶が思い出せる。


…だけど、だけどなにが…



思考が追いつくのには時間がかかった。頭が揺らされる感覚と、宙に浮く感覚。



自転車に乗っていて転けたような


足を滑らせて尻もちをついた時のような



手が動かない…


足が動かない…



うまく呼吸ができなかった。何か手で掴むものがないかを必死に探した。地面の上に自分が倒れていると気づき、必死にもがいた。眩しい光が目に入る。直射日光が真っ逆さまに降って来ている。ぐちゃぐちゃになった思考のそばで、空が見えた。


青く、白い。


それは一瞬の情景に過ぎなかったけど、確かに見えた。…けど、次の瞬間には、自分の意識がどこかに消えてしまいそうになるのを、止めることができなかった。



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