プロローグ
僕にはわからなかった。彼女が空を見上げる理由が。
「明日天気が晴れたら」
そう、彼女は話す。
飾り気のない笑顔で、海が見える場所まで行こうと言った。瀬戸内海の海。僕たちが住んでいる、街の丘の向こうへ。
「もし私が死んだら、骨は海に撒いてな?」
「縁起でもないこと言うなや」
「仮にの話や」
「仮にもクソもあらへん。そんな話聞きたないわ」
「心配してくれとるんや?」
「当たり前や!」
彼女はいつも気丈に振る舞ってた。彼女らしいと言えば、彼女らしい。子供の頃からだ。どんなことにも前向きで、まっすぐ何かを追いかけて。
僕はいつも、彼女の背中を追いかけてた。向こう見ずなその姿に惹かれ、彼女みたいになりたいと思った。
「甲子園」に行く。
その夢を思い描いたのは、夏の季節の下、サンダルを脱ぎ捨て、裸足で海岸を走る彼女の後ろを姿を見た時だった。僕は彼女の後ろ姿に、雲ひとつない空の青さを見た。
「私と出会った日のこと、覚えとる?」
「…ああ」
「確か、雨が降っとったよね。空は暗くて、びゅうびゅう風が吹いてて」
「そうやったな」
「あの日私は、雨が止むのを待ってた。待ちきれなくてな?無性に走りたい気がしたんや。丘の坂道を下りながら、そう思った。足を動かしたいと思った」
彼女の言葉は弱々しくて、それでいてどこか、明るかった。あの日は「雨」が降っていた。雲行きは怪しくて、空はどこまでも灰色で、——何かが、遠ざかっていく気がして。
友達と喧嘩した日。学校を抜け出して、家に帰ろうとしていた矢先だった。傘も差さずに空を見上げている女の子がいた。彼女だった。
「つい最近のことのように感じるわ。もう20年も経つんやな…」
「そうやな」
「あの頃、あんたは泣き虫やったよな?喧嘩は弱いし、すーぐおばさんに泣きつくし」
「昔のことやろ」
「今だってそうやん?」
「は?どこが?」
「この前泣いとったやろ?私の目は誤魔化せんで」
「…気のせいや」
彼女は昔から変わってない。バカみたいに真っ直ぐで、男みたいにあっさりしてて。グローブとボールを持ってる女の子なんて、身近にはいなかった。
「プロ野球選手になる!」
なんて、そんな夢みたいな話を、恥ずかしがる様子もなく話す姿は、僕には不思議以外の何物でもなかった。なれるはずがないと思ったんだ。それはきっと、誰もがそう思うんじゃないかと思う。別に変な意味じゃなくて、単純な話。
「キャッチボールしよう」
確か、小学3年生の頃だった。初めて会った僕に、彼女はそう言った。雲がかかった空を指さして、
“雨が止んだら”
——そう言った。
止むはずがないと思った。天気予報では、雨は明日の朝まで続く見込みだった。海は荒れ、風は強くなる一方だった。第一、キャッチボールなんて…
彼女の提案に乗り気じゃなかったのは、天気が悪いっていうだけが理由じゃなかった。キャッチボールなんて、今までやったことはなかった。ボールの投げ方もわからなかった。グローブだって持ってない。それに“気分”じゃなかった。だから断ったんだ。家に帰るからって、駅舎にある古臭い時計を見ながら。
「傘は?」
「持ってない」
「雨が止むのを待っとるんやろ?生憎、今日は止まんで?」
「もうちょっとしたら迎えにくるから」
「誰が?」
「お母さんが」
学校から抜け出したことを、母親には伝えていた。駅にいるからと、ラインを送っていた。学校から駆け足で駅まで来ていたが、さすがに家までは遠かった。
『すぐに迎えにいくから』
母親からの返信は、駅に着いてから数十分が経った頃だった。母親が仕事中であることは知っていた。だからしばらくは、ここで待つ気でいた。
「暇なんやったら、付き合ってくれてもええやん」
決めつけたように話す彼女に、僕は嫌気が差していた。僕たちは初対面だった。後に彼女が同じ小学校に通っていたことを知ったけど、少なくともあの時は、お互い知らない者同士だった。キャッチボールなんてできるような間柄じゃない。友達でもなければ、知り合いでもない。相手をするつもりはなかった。だけど彼女は僕の顔を覗き込みながら、「野球に興味はない?」と聞いてきた。「雨が止んだら」って言ったくせに、ずいっとボールを近づけてきた。
意味がわからなかった。
「雨は止まないんでしょ?だったら…」
「止むかもしれんやん」
「はあ?」
「天気予報なんて当てにならん。問題は、止んで欲しいと思うかどうか、やろ?」
「えっと…」
「今日はどうしても確かめたい気分なんや。いまいちフォームがしっくりこんくてな?あんたは受けるだけでええから」
「受けるだけで…って?」
「ここら辺には練習用の壁がないんや。駅舎に向かって投げたらこの前怒られた。かといって、海に投げるわけにもいかんやろ?」
「…言ってる意味がわからないんだけど?」
「せやから、私の球を受けてくれって言ってんの。そんな難しく考えんな」
難しく考えてるわけでも、惚けてるつもりもなかった。まるで僕に問題があるかのように、彼女は眉を顰めた。
練習用の壁?
この子は何を言ってるんだ?
頭に掠めるのは疑問ばかりだった。左手にグローブを嵌めたまま、ボールをパシパシと遊ばせていた。正直、「野球」もよく知らなかった。キャッチボールくらいは知っていたけど、それ以外はからっきしで。
思えば、あの時からだった。いつも向こう見ずで、後先のことは考えなくて。思ったことを口にして、他人の都合なんて顧みなくて。僕はそんな彼女の強引さに、いつも巻き込まれていた。1人で静かに本を読んでいる時も、バスに乗って、トボトボと通学路を歩いている時も。
ねえ
彼女の口癖は、いつもその一言から始まる。他愛もない日常の風景の片隅で、何の気無しに呟くそのセリフが、いつからか、心地よく聞こえるようになった。モノクロに塗りつぶされた空の色は、いつの間にか青く、——澄み渡っていた。
最初はいい気はしなかったんだ。僕には僕のペースがある。ずっと、そう思っていたから。
「あと何年…かな」
「何がや?」
「私が生きられるのが」
「何言うとんねん」
「だって先生が言うとったやろ?手術ではあかんかったって」
「そんなもん、なんかの間違いや」
「はは。あんたらしくないやん。いつもやったら、現実を見ろとかちっちゃいこと言うくせに」
神戸市内の病院に、僕たちはいた。桜が咲き始めた、4月の上旬だった。珍しく彼女が体の不調を訴え、一緒に病院に行ったんだ。夜中の2時だった。
「スキルス胃がんです」
医師から病名が告げられたとき、僕たちは婚約届を出して、まだ半月も経っていなかった。何かの間違いだとは思った。つい最近まで、普通に生活していた。結婚生活を始めるために、2人でマンションの下見をして、どんな間取りがいいかを話し合っていた時期だった。
僕は母親の仕事を継ぎ、神戸市内へ新しい店を建てるために奔走していた。母は海岸線沿いにあるガレージで、小さなバイク屋を営んでいた。錆びれた白いトタン壁で覆われたガレージは、僕と彼女にとっての憩いの場だった。とくに、子供の頃は。
「全然実感湧かんわ」
「何が?」
「だって、がんやで?びっくりしたわ」
彼女が強がっていないことは知っていた。少なくとも、僕の前では他人事のように振る舞っていた。まるで自分のことじゃないかのようだった。先生に言われた時もそうだ。悲しむ素振りもなく、不安がる様子もなかった。ただ、驚いていた。実感が持てていないようでもあった。朝、目が覚めた時のような、——そんな夢見心地な目で、戸惑って。
僕たちは病院を出た後、しばらく海を眺めていた。三ノ宮駅を過ぎ、人混みの多い交差点を抜け、ポートタワーの見える海岸線沿いの砂浜を、一緒に歩いた。空は、雲ひとつなかった。
「なんでそんな暗い顔しとんや」
「…だって、…こんなんあり得んやろ」
「あんたも聞いたやろ?それとも先生の言葉を疑うんか?」
「お前はなんともないんか?」
「どういう意味?」
「意味もクソもあらへん。…その、…なんていうか」
「なったもんはしょうがないやん」
「はあ!?しょうがないってお前…」
「神様にお願いでもするんか?治してくださいって」
「そういうわけはないが、でも…」
この際神様でもなんでもよかった。夢なら覚めてくれと何度も思った。なんでそんなに気楽なんだ?僕にはわからなかった。言葉の意味がわからないわけじゃなかった。きっと、——いや恐らく、お互いにわかっていた。病院で言われたこと。先生から聞いた話。だから、僕は尋ねずにはいられなかった。立ち止まらずにはいられなかった。
「これからどうするんや?」
気がつけば、僕たちは初めて出会った場所に辿り着いていた。穏やかな波の音と、瀬戸内海の水平線と。僕が彼女に尋ねた言葉は、千切れそうな吐息の泡沫に紛れて、微かな振動を含んでいた。思うように言葉を吐き出せなかった。声が詰まって、何を話せばいいのかもわからなかった。ただ、視線は“そこ”にあった。
視界の片隅に見えたのは、いつもと変わらない日常の風景だった。穏やかな漣が、白い泡を作りながら光の粒を運んでいた。
「過ぎたもんはもうしょうがない。こうなったら闘ってやろうやん」
「…闘うって言ったって」
「あんたがそんな顔してどうすんねん」
「そりゃこんな顔にもなるやろ…」
「情けな」
「…なあ、別の病院に行ってみんか??もしかしたら、診断が間違っとるかもしれんし…」
「市内で一番でかい病院なのにか?」
「でかかろーが小さかろうが関係ないやろ。俺やって昔ヤブ医者に引っかかったことあるし」
「あのオンボロ病院のことか?残念やけど、それとは話が違うで」
「せやけど…」
どうしても信じられなかった。先生の言葉を疑うわけじゃなかった。心のどこかではわかっていた。だけどそれ以上に、整理できない気持ちがあった。全部嘘だと思いたかった。それは、今もだ。
「あんたいつも私に言うとったやろ。マウンドで困っても、逃げる場所なんてない。ミットを構えるから向かってこい、って」
「ああ?」
「困った時はストレート勝負。あんたが教えてくれたんやで?逃げずに、立ち向かうことを」
彼女は海を向いたまま、そう言った。後ろ髪が靡いていた。大人になってから伸びた、少しだけクセのある茶色い髪。透き通ったうなじの白い肌が、持ち上がった髪の下に見えた。
“世界でいちばん、速いストレートを投げたい”
彼女が口にしていた、子供の頃の夢。誰よりも速い球を投げたいと夢見るその言葉を、彼女はいつも抱きしめていた。ばかばかしいと思ったんだ。最初は。女の子が野球をしてるっていうだけで違和感なのに、——誰よりも?
帽子を後ろ向きに被り、ほっぺにはバンソウコウ。真夏の日差しを浴びたグローブは、すっかり色褪せていた。蝉時雨が空から一斉に降ってきていた。ポカリスエットのペットボトルが、砂浜の上で汗をかいて。
耳をすませば、いつも聴こえていた。囁くように優しい海風と、昼下がりの穏やかな陽射し。さやさやと響く波の音が、山陽本線に流れる電車のそばで揺らめいていた。野球になんて興味はなかった。するつもりもなかった。だけど、そんな僕に構う素振りもなく、彼女は近づいてきた。ニカッと笑って、キャッチボールの相手に指名してきた。
『一緒に野球しよう』
それが、僕と彼女を結ぶ最初の“言葉”だった。幼い記憶の底に残る、彼女との“出会い”だった。
ザァ
ザザザ
ザァーーー
波の遠音が響いてくる。大阪湾の港が、はるか遠方に見える。この場所、この風景。明石海峡大橋の背の高い鉄塔が、広大な空の下に聳えていた。淡路島と明石市の間では、潮の流れが一段に速く、それでいてゆったりとした縞模様を伸ばしていた。僕たちはいつも、海の近くにいた。水平線を指差して、まだ見たこともない景色を探そうとして、白い砂浜の上を歩いていた。
僕は彼女の背中を見て、いつか彼女みたいになりたいと思った。彼女みたいに、速く走りたいと思った。突拍子もない理由だった。
それは、——たぶん、きっとそうだ。
何故かそう思えたんだ。いつの日か、彼女の投げるストレートを打ちたい。大した理由は、そこにはないのかもしれない。だけど大切な何かが、そこにはあった。追いかけたい何かが、日常のすぐそばにあった。
真夏のサイレンと白球。
その、——すぐそばに。
ミーンミンミンミンミン
ジジジジ…
そうだ。僕たちはこの海にいた。瀬戸内海の水平線に、積乱雲。どこまでも広い青の向こう。そして、——雨上がりの街。
ずっと、大きな夢を馳せていた。
ずっと、何かに期待していた。
クシャクシャの笑顔を向ける彼女に、僕は何も言えずにいた。伝えたいことがあるはずなのに、何も言えなかった。彼女と一緒にいられる時間が、あとほんの僅かしかないということを信じられるはずもなかった。
言葉にしたくなかったんだ。
僕は彼女ようには強くなれない。
こんな時、どんな顔をしていいのかもわからない。それなのに彼女は、何事もなかったかのように波打ち際の岸辺にいる。果てしない海の向こうを見つめ、昔と変わらない目をしている。
今年もまた、暑い夏が始まろうとしていた。梅雨が明け、梅雨前線が北上した後の雲の通り道が、空を切り裂いたように広がっていた。漣に持ち上げられた7月中旬の空気が、海岸線沿いの街の表面を洗っていた。
神戸空港から飛び立った飛行機。
国道2号線を疾っていく、雨のような蝉の声。
神戸シーサイドラインのガードレール越しに立ち並んだ巨大なガントリークレーン。
湿った風の匂いが、そこにあった。
街の喧騒の中に響く賑やかな潮騒を、ゆったりと運びながら。




