第7話 地下水道の洗礼
ダンジョンへの入り口となるゲートは、厳重に管理されていた。
出現地点を覆うように設置された、巨大なコンテナ型の移動式隔離ユニット。
その重厚な金属ハッチが、油圧の音を立てて開くと、その奥に『それ』はあった。
空間が、揺らいでいる。
真夏の陽炎のように、あるいは割れたガラスのように、そこの空間だけが不自然に歪んでいた。
ゲームやアニメで見るような、青白く輝く魔法的な渦ではない。
もっと無機質で、物理的な『バグ』のような亀裂。
それが、現実のダンジョンの入り口だった。
ゲートをくぐった瞬間、鼻をつく強烈な腐臭に顔をしかめた。
生ゴミと下水、そして何かの死骸が混ざり合ったような、吐き気を催す臭気。
そこは、巨大な地下水道だった。
直径五メートルほどの円形のトンネルが、どこまでも暗闇の奥へと続いている。
足元には黒く濁った汚水が流れ、壁面には緑色の苔や正体不明の粘液がびっしりと張り付いていた。
「うぇ……くっさ。なんだよここ、最悪だな」
権田が露骨に不快感を露わにし、鼻をつまんだ。
彼の自慢のピカピカのフルプレートアーマーは、早くも湿気で曇り始めている。
換気扇の回っていない風呂場のような蒸し暑さが、鎧の中を蒸し焼きにしているのだろう。
「……湿度が、高いです。足元、滑りやすいので……気をつけてください」
水無月がフードの奥から小さな声で警告する。
彼女は杖の先端に小さな魔法の光を灯し、周囲を警戒している。
その手つきは危なっかしく震えているが、視線だけは鋭く周囲を巡っていた。
彼女の『観測士』としてのスイッチが入ったのだろうか。
「へっ、俺様の重装甲なら転んだって平気だぜ。行くぞ、お前ら遅れるなよ!」
権田は警告を無視して、ズカズカと先頭を歩き出した。
ガシャン、ガシャン。
金属のブーツが石畳を叩く音が、静かな地下道に反響して響き渡る。
隠密行動なんて概念は彼にはないらしい。これでは「ここに獲物がいますよ」と宣伝して歩いているようなものだ。
「……はぁ」
俺は深い溜息をつきながら、その後を追った。
最後尾は水無月だ。
隊列としては、タンクの権田が前衛、俺が中衛(遊撃)、水無月が後衛。
形だけ見ればバランスはいい。形だけは。
十分ほど歩いただろうか。
単調な景色と、不快な臭い。
時折、天井から汚水が滴り落ちてきて、肩を濡らす。その度に背筋がゾクリとする。
ただ歩いているだけなのに、精神が削られていくのが分かった。
これがダンジョンか。
ゲームのようにBGMがあるわけでもなく、ただ不快な環境音だけが続く世界。
「おい、まだ敵は出ねえのかよ。退屈で死にそうだぜ」
権田が苛立ち紛れに壁を蹴った。
その音に、水無月がビクリと肩を震わせる。
「……権田さん、静かに。音が反響します」
「あぁ? ビビってんのか? 俺様がいればモンスターなんてイチコロ……」
「……っ! 止まってください!」
権田の軽口を遮るように、水無月が鋭い声を上げた。
その声には、明確な焦燥が含まれていた。
ビクリ、と権田が足を止める。
「あぁ? なんだよ急に」
「……来ます。前方、十二時の方向。距離、三十メートル。……三体」
「敵か!?」
俺はロッドを構え、神経を研ぎ澄ませた。
暗闇の奥から、何かが這いずり回るような音が聞こえてくる。
カサカサ、チュウチュウ。
無数の足が地面を叩く音と、不快な鳴き声。
それは急速に近づいてきていた。
水無月のライトの光が、闇の中に浮かぶ赤い眼を捉えた。
一つ、二つ、三つ……いや、六つの赤い光。
「出たな、雑魚どもが!」
現れたのは、大型犬ほどのサイズがあるドブネズミ――『ジャイアントラット』だった。
汚水に濡れた灰色の毛皮。
病原菌を撒き散らす鋭い爪。
そして何より、黄色く変色した長い前歯が、凶器のように突き出している。
Fランクダンジョンの定番モンスターだが、実物は映像で見るよりも遥かに醜悪で、凶暴そうだった。
「ギャッ! ギャウッ!」
三匹のラットが、俺たちを餌と認識したのか、一斉に飛びかかってきた。
速い。
ゴブリンよりも俊敏だ。
壁や天井を蹴り、立体的な機動で迫ってくる。
「オラァ! 俺様の盾で弾き飛ばしてやるぜ!」
権田がタワーシールドを構えて突進した。
恐怖を誤魔化すような大声。
だが、その動きはあまりにも直線的すぎた。
ただ盾を前に出して走っているだけだ。
先頭のラットが、直前で軌道を変える。
壁を蹴り、権田の頭上を軽々と飛び越えたのだ。
「は?」
権田が間抜けな声を上げる。
視界を塞ぐ巨大な盾が仇になった。敵を見失ったのだ。
残りの二匹も、左右に展開して権田の側面を突く。
重装備の権田は、小回りが利かない。
完全に翻弄されている。
「ぐわっ! こ、こいつら! チョロチョロすんじゃねえ!」
権田が盾を振り回すが、空を切るばかりだ。
ブンッ、ブンッという風切り音だけが虚しく響く。
その隙に、一匹が権田の足に噛み付いた。
「ギャアアアッ! 痛ぇ! 噛んだ! こいつ噛みやがった!」
金属の隙間、膝の裏の柔らかい部分を狙われたらしい。
権田は悲鳴を上げて転倒した。
巨大な図体が汚水の中に沈む。
そこへ、残りの二匹が殺到する。
「餌だ!」と言わんばかりの勢いだ。
「まずい!」
俺は飛び出した。
足がすくむ。怖い。
あんな牙で噛まれたら、肉なんて簡単に引き千切られる。
だが、このままじゃタンクが食い殺される。
そうなれば次は俺たちだ。
「どけッ!」
俺は権田に群がるラットの一匹に向けて、ロッドを振り下ろした。
だが、ラットは素早くバックステップで回避する。
空振り。
ロッドが地面を叩き、火花が散る。
その隙だらけの脇腹に、別のラットが飛び込んでくる。
(速い……!)
目で追うのがやっとだ。
訓練場のボールとは違う、不規則で殺意に満ちた動き。
生物特有のフェイント。
これが実戦か。
死の予感が、背筋を駆け上がる。
「相沢さん! 右です! 首を狙ってきます!」
水無月の悲鳴のような指示が飛んだ。
思考するより先に、体が反応した。
右を見る。
闇の中から、鋭い牙が迫っていた。
俺の頸動脈を狙う、必殺の軌道。
避けられない。
防御も間に合わない。
身体強化の弱い俺では、反応速度で負けている。
(――ズラす!)
俺はロッドを突き出した。
ラットの鼻先に向かって。
接触の瞬間、スキルを発動する。
恐怖をねじ伏せ、イメージを固定する。
ベクトルシフト、左へ1度!
グンッ、と手首に重みがかかる。
ラットの突進エネルギーが、俺のロッドを介して強制的にねじ曲げられる。
物理法則への介入。
牙は俺の喉元を数センチ逸れ、空気を噛み砕いた。
「ギッ!?」
勢い余ったラットが、俺の横を通り過ぎて壁に激突する。
無防備な背中。
今だ。
「死ねぇッ!」
俺は振り返りざまに、ロッドを叩き込んだ。
今度は『浸透勁』イメージの打撃だ。
インパクトの瞬間、さらに1センチ押し込む。
表面ではなく、内臓を潰すイメージで。
ゴシャッ!
嫌な音がして、ラットの背骨が砕けた。
断末魔の叫びと共に、ラットが痙攣して動かなくなる。
一匹撃破。
「す、すげえ……」
腰を抜かしていた権田が呟く。
だが、まだ終わっていない。
残りの二匹が、仲間を殺された怒りで興奮している。
毛を逆立て、歯を鳴らして威嚇してくる。
「権田さん! 立ってください! 盾を構えて!」
「あ、あぁ! 分かった!」
権田が慌てて立ち上がり、盾を構える。
ビビリだが、その巨体と盾はやはり壁として優秀だ。
ラットたちは巨大な盾に警戒し、攻めあぐねている。
「水無月! 敵の動き、読めるか!?」
「は、はい! 見えます……筋肉の収縮……右の個体、飛びかかってきます! 三、二、一……今!」
水無月のカウントダウン。
それを信じて、俺は動いた。
彼女の言葉は、未来予知そのものだ。
右のラットが跳躍する。
俺はその着地地点に先回りし、ロッドを振り抜いた。
カウンター気味の一撃が、ラットの頭部を捉える。
パンッ!
頭が弾け飛び、黒い霧となって消滅した。
「残り一匹!」
最後の一匹は、形勢不利と見たのか、背を向けて逃げ出そうとした。
だが。
「逃がすかよオラァッ!」
復帰した権田が、鬱憤を晴らすように盾を投げつけた。
キャプテン・アメリカかよ。
回転する巨大な鉄板が、逃げるラットの背中に直撃する。
グシャアッ。
哀れなラットは壁と盾に挟まれ、プレス機にかけられたトマトのようになった。
汚い花火が散る。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
静寂が戻る。
残ったのは、俺たちの荒い息遣いと、下水の流れる音だけ。
心臓が破裂しそうだ。
全身から嫌な汗が噴き出している。
「か、勝った……のか?」
権田が恐る恐る盾を回収する。
俺はへたり込むようにその場に座り込んだ。
手が震えている。
怖かった。
死ぬかと思った。
訓練場とは違う。失敗すれば痛いじゃ済まない、本当の殺し合い。
でも、勝った。
俺たちの、初めての勝利だ。
「……皆さん、怪我は」
水無月が駆け寄ってくる。
彼女の顔も蒼白だが、その瞳には安堵の色が浮かんでいた。
「俺は大丈夫だ。権田さんは?」
「い、痛ぇよクソ! あのネズミ野郎、俺の美脚に傷つけやがって!」
権田が足の傷を見せる。
ブーツの上から噛まれたため、内出血程度で済んでいるようだ。
出血はない。
「大したことないですね。消毒しておけば大丈夫でしょう」
「なんだと!? 俺は重傷だぞ! 労われよ! 俺が囮になってやったから勝てたんだろうが!」
ギャーギャーと騒ぐ権田を見て、俺は思わず吹き出した。
さっきまでの緊張が、嘘のように解けていく。
「……ははっ」
「あ? 何笑ってんだよ」
「いや……生きてるなって思って」
そう。
泥だらけで、格好悪くて、悲鳴を上げながら。
それでも俺たちは、生き残ったのだ。
この掃き溜めのような場所で、俺たちは確かに一歩を踏み出した。
水無月も、つられて小さく微笑んだ気がした。
フードの下で、口元がわずかに緩むのを、俺は見逃さなかった。




