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第3話 どん底からのスタート

 退院の日、空は憎らしいほどに晴れ渡っていた。

 一週間ぶりのシャバの空気は美味い……と言いたいところだが、俺の気分はどん底だった。

 病院の自動ドアを抜けると、真夏の熱気が容赦なく肌にまとわりつく。アスファルトからの照り返しが、病み上がりの体には堪えた。


「こちらが、退院手続きの書類と、覚醒者登録証です」


 病院の受付で、事務的な女性から封筒を渡される。

 中には、黒いカードが入っていた。

 『覚醒者ライセンス(Fランク)』。

 俺の顔写真と、Fという文字が刻印された、プラスチックの板切れ。

 写真の中の俺は、どこか怯えたような、情けない顔をしている。

 これが、俺が人間を辞めた証明書だ。


「それと、こちらは国からの『特別支度金』の振込証明書になります」

「支度金……?」

「はい。覚醒者支援法に基づき、初期活動資金として一律100万円が支給されます。既に指定の口座に振り込まれておりますので、ご確認ください」


 100万円。

 その金額を聞いて、俺は少しだけ目を見開いた。

 手切れ金にしては安いが、無職になる身にはありがたい。

 これがあれば、当面は食いつなげるかもしれない。

 だが、同時に虚しさも込み上げてくる。俺の人生、俺の日常は、たった100万円で買い叩かれたのだ。


「……ありがとうございます」

「いえ。では、お大事に……いえ、ご武運を」


 受付の女性は、最後に言い直した。

 「お大事に」は患者への言葉。「ご武運を」は、戦場へ向かう者への言葉だ。

 その些細な変化が、俺の置かれた立場を再認識させた。

 俺はもう、守られる側の市民じゃない。戦って死ぬかもしれない、消耗品の一つになったのだ。


***


 病院を出て、その足でアパートへ向かった。

 電車に乗ると、周囲の視線が気になった。

 俺はまだ私服を持っていないので、病院で支給された簡易的な服を着ている。だが、なんとなく自分が異質な存在になったような気がして、落ち着かない。

 吊り革に掴まる自分の手を見る。

 見た目は変わらない。でも、この体の中には魔力回路という異物が埋め込まれている。

 隣でスマホをいじっているサラリーマンも、楽しそうに話す学生たちも、俺とは違う世界の住人だ。

 ガラスに映る自分の顔が、ひどく遠い他人のように思えた。


 アパートに着く。

 目的は、荷物の整理と退去だ。

 大家さんからは、入院中に何度も「いつ出ていけるのか」という催促のメッセージが来ていた。

 覚醒者が住んでいると、モンスターに襲われるかもしれないという風評被害を恐れているらしい。

 実際には、低ランクの覚醒者がモンスターを引き寄せるなんてことはないうえ、ダンジョンブレイクでも起きなければダンジョン以外にモンスターが出ることはない。

 だが、世間の認識なんてそんなものだ。


 ガチャリ、と鍵を開ける。

 一週間ぶりに帰ってきた我が家は、ひどく静かだった。

 西日が差し込む六畳一間。

 脱ぎ捨てられたままのワイシャツ。飲みかけのペットボトル。読みかけの雑誌。

 あの日、時間が止まったままの部屋。

 埃の匂いが、鼻をくすぐる。


「……はぁ」


 俺は無言で段ボールを組み立て始めた。

 荷物は少ない。

 服と、生活用品と、少しの趣味の品。

 家具や家電はリサイクルショップに引き取ってもらうことにした。

 新しい住処は決まっていない。とりあえずはホテル暮らしになるから、大きな荷物は邪魔になるだけだ。


 クローゼットの奥から、一着のスーツが出てきた。

 就職活動の時に親に買ってもらった、少し良い生地のスーツだ。

 入社式の日、これを着て鏡の前に立った時の高揚感を覚えている。

 「これから頑張るぞ」と意気込んでいた、あの頃の自分。

 まだ二年しか経っていないのに、まるで前世の記憶のようだ。


「……もう、着ることもないか」


 俺はそのスーツを、燃えるゴミの袋に入れた。

 未練を断ち切るように、乱暴に口を縛る。


 本棚を整理していると、一冊のアルバムが出てきた。

 大学時代のサークルの合宿の写真。

 満面の笑みでピースサインをする俺と、友人たち。

 彼らは今頃、それぞれの職場で働き、恋をして、普通の幸せを享受しているのだろう。

 俺だけが、そこから弾き出された。

 連絡を取ろうと思えば取れる。

 「覚醒者になったんだ」と言えば、最初は驚かれるだろうが、心配してくれるかもしれない。

 でも、その後は?

 腫れ物に触るような扱いをされるか、あるいは興味本位で質問攻めにされるか。

 どちらにしても、以前のような対等な関係には戻れない。


 作業は二時間ほどで終わった。

 ガランとした部屋。

 畳に残った家具の跡だけが、ここで二年間の生活があったことを証明している。


「……何もないな、俺」


 段ボール三箱。

 それが、二十四年間生きてきた俺の全財産だった。

 仕事も失い、家も失い、人間としての平穏も失った。

 残ったのは、この段ボールと、体の中にある異質な魔力回路だけ。


 孤独感が、潮のように押し寄せてくる。

 誰かに電話したい衝動に駆られるが、スマホのアドレス帳を見ても、連絡できる相手はいなかった。

 実家の親には心配をかけたくない。

 友人と呼べる相手も、社会人になってからは疎遠になっている。


 俺は、本当に一人ぼっちになってしまったんだ。

 部屋の隅で膝を抱え、しばらく動けなかった。

 涙は出なかった。ただ、胸にぽっかりと空いた穴を、冷たい風が吹き抜けていくような感覚だけがあった。


 夕方、リサイクル業者が来て、家具を運び出していった。

 二束三文にしかならなかったが、処分費用がかからなかっただけマシだ。

 鍵をポストに入れ、俺はアパートを後にした。

 振り返らなかった。

 振り返れば、泣いてしまいそうだったから。


***


 その夜、俺は駅前のカプセルホテルにチェックインした。

 一泊三千円。

 狭いカプセルの中に体を滑り込ませると、棺桶に入ったような気分になった。

 プラスチックの壁に囲まれた、わずか一畳ほどの空間。

 ここが、今の俺の城だ。


 周囲からは、他の客のいびきや、テレビの音が漏れ聞こえてくる。

 壁一枚隔てただけの他人との距離感が、今の俺には妙に心地悪かった。

 上の段の客が寝返りを打つたびに、ミシミシと天井がきしむ。

 どこからか、カップラーメンをすする音と匂いが漂ってくる。


 喉が渇いたので、俺は共用の休憩スペースへ向かった。

 自販機が並ぶ薄暗い部屋には、数人の男たちがたむろしていた。

 その中に、一人の初老の男がいた。

 ボロボロのジャージを着て、ワンカップの酒を煽っている。

 その左腕は、肘から先がなかった。


「……おい、兄ちゃん」


 目が合うと、男が絡んできた。

 濁った瞳。酒臭い息。


「見ねえ顔だな。新入りか?」

「……ええ、まあ」

「へっ、また一人、死に損ないが増えたか」


 男は自嘲気味に笑った。


「俺も昔はな、Dランクまで行ったんだ。そこそこ稼いで、いい気になってた。だが、オークの一撃でこのザマだ」


 男は欠損した左腕を突き出した。


「腕一本失えば、ハンターは廃業だ。だが、一度魔力を覚えた体は、もう普通の仕事には耐えられねえ。結局、こうして安宿で酒を飲むしかねえんだよ」


 男の言葉は、呪いのように響いた。

 未来の俺の姿かもしれない。

 怪我をして、稼げなくなって、社会のゴミとして捨てられる。


「……そうならないように、気をつけます」

「ハッ! 気をつけてどうにかなるなら、誰も苦労しねえよ。……ま、精々長生きしな」


 男は興味を失ったように、再び酒を煽り始めた。

 俺は逃げるようにその場を離れた。

 背中に、男の乾いた笑い声が張り付いているような気がした。


 カプセルに戻っても、心臓の動悸が収まらなかった。

 狭い空間が、まるで棺桶のように感じられて息が詰まる。

 さっきの男の言葉が、頭の中で何度も反響していた。

 『死に損ない』『社会のゴミ』。

 あぁなりたくない。あんな風に、絶望とアルコールに浸って死を待つだけの存在にはなりたくない。


「……大丈夫だ。まだ、大丈夫だ」


 自分に言い聞かせるように呟く。

 何か、安心できる材料が欲しかった。自分がまだ終わっていないという証拠が欲しかった。

 俺は震える手でスマホを取り出し、すがるような思いでネットバンキングのアプリを起動した。

 残高を確認する。

 『残高:1,245,000円』

 給料の残りと、支度金を合わせた金額だ。

 大金に見えるが、これから家を借り、生活を立て直すことを考えれば、決して多くはない。

 敷金礼金、引っ越し費用、当面の生活費。

 それらを差し引けば、手元に残るのは数十万程度だろう。

 何より、俺はハンターとして稼ぐための「元手」が必要だ。


 ネットで検索してみる。

 『Fランクハンター 初期装備 費用』

 『ダンジョン攻略 ソロ 初心者』


 画面に並ぶ情報は、絶望的なものばかりだった。


 『Fランクは装備に金をかけろ。安物は命取りになる』

 『最低でも300万は用意しないと、一層で死ぬぞ』

 『ソロは自殺行為。パーティーを組めない奴は引退しろ』


 掲示板の書き込みは、辛辣な言葉で溢れていた。

 中には、装備をケチって命を落とした新人のニュース記事や、借金をして装備を揃えたものの回収できずに破産したハンターの体験談もあった。


「……足りないな」


 100万じゃ、最低限の装備すら怪しい。

 でも、やるしかない。

 装備をケチれば死ぬ。

 かといって、生活費を削れば飢える。

 パーティーを組もうにも、俺のような「ハズレ枠」を入れてくれる奇特な連中はいないだろう。

 ソロでやるしかない。

 誰にも頼らず、自分の力だけで。


 不安で胸が押しつぶされそうになる。

 心臓の音が、耳元でうるさいほどに響く。

 怖い。

 逃げ出したい。

 でも、逃げ場なんてどこにもない。


 狭い天井を見上げながら、俺は拳を握りしめた。

 明日だ。

 明日はダンジョンショップへ行こう。

 なけなしの金を叩いて、生き残るための武器を買うんだ。

 どんなにボロくてもいい。どんなに格好悪くてもいい。

 俺の命を繋いでくれる、相棒を見つけるんだ。


 不安で押しつぶされそうな夜。

 俺は体を丸め、泥のように眠った。

 夢を見た。

 ゴブリンに追いかけられ、足が動かなくなる夢を。

 目覚めた時、俺の体は冷や汗でびっしょりと濡れていた。

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