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第12話 1センチの決着

 死の顎が目前に迫る。

 ラットの喉の奥で、圧縮された酸の塊が弾けようとしていた。

 鼻をつく刺激臭が、物理的な圧力を伴って俺の顔面を叩く。


(速い……ッ!)


 覚悟を決めて飛び込んだはずだった。

 だが、至近距離で対峙した怪物の圧力は、俺の想像を遥かに超えていた。

 タイミングを合わせる? ベクトルをずらす?

 そんな小細工が通用する相手じゃない。

 ブレスが放たれれば、俺はロッドごと溶解し、背後の水無月まで巻き込んで消滅する。


 ――死ぬ。


 冷たい現実が脳裏をよぎった、その時だった。


 ズズズズズゥゥゥゥン……ッ!


 地響き。

 いや、もっと腹の底に響くような、ダンジョンそのものの悲鳴のような重低音が、空間全体を揺らした。

 汚水が波打ち、コンクリートの壁が軋みを上げる。


「ギッ!?」


 ラットの動きが止まる。

 放たれる寸前だった酸のブレスが、不発に終わって咳き込むように霧散した。

 それだけではない。

 異常に膨れ上がっていた赤黒い筋肉が、風船から空気が抜けるように萎んでいく。

 血管の怒張が収まり、凶悪なまでの威圧感が急速に霧散していく。

 まるで、供給されていたエネルギーのコードを、唐突に引き抜かれたかのように。


(何が起きた……!?)


 状況は分からない。

 だが、目の前の怪物が隙だらけで棒立ちになっている事実だけは確かだ。

 そして、俺の体は既にトップスピードで突っ込んでいる。

 止まれない。止まるつもりもない。


「おおおおおッ!」


 俺は咆哮と共に、萎縮したラットの懐へと滑り込んだ。

 ラットが遅れて反応し、牙を剥いて噛みついてくる。

 だが、遅い。

 さっきまでの神速の如き動きとは比べ物にならない。

 これなら――見える!


 世界がスローモーションになる。

 迫りくる黄色い牙。その表面の細かな傷までが鮮明に見える。

 俺は突き出したロッドの先端を、その牙の側面に合わせた。

 狙うは一点。

 噛みつきのベクトルを、わずか『1センチ』だけ外側へずらす。


 魔力を練り上げろ。

 イメージしろ。

 流れる川の水を、小石一つで変えるように。

 巨大な力の流れを、最小の力で書き換える。


 スキル発動――『ベクトル操作』!


 カッ!


 乾いた音が響く。

 ラットの牙はロッドの表面を滑り、俺の顔の横、わずか1センチの空間を空しく通り過ぎた。

 風切り音が耳元で鳴る。

 死の気配が、肌を掠めていく。


 交差する視線。

 驚愕に目を見開くラットの眼球が、俺の目の前にあった。

 そこには、恐怖に染まった自分の顔が映っていた。


「これで……終わりだッ!」


 俺は踏み込んだ勢いを殺さず、渾身の力でロッドを突き出した。

 狙うは眼窩の奥。

 脳へと直結する、生物としての急所。


 ズプッ、と。

 生々しい感触が手に伝わる。

 ロッドの先端が眼球を押し潰し、その奥にある頭蓋の隙間へと深々と突き刺さった。


「ギ、ギィィィ……ッ」


 断末魔の悲鳴。

 ラットが痙攣し、俺を振り払おうと暴れる。

 だが、俺はロッドを離さない。

 さらに奥へ、奥へと押し込み、脳を掻き回す。

 手首に伝わる暴れる肉の感触が、酷くおぞましい。

 だが、ここで離せば殺される。


「死ねぇぇぇッ!」


 俺は渾身の力でロッドをねじ込んだ。

 数秒のたうち回った後、巨体は糸が切れたように崩れ落ちた。

 ドサリ、と重い音が水路に響く。


「はぁ……はぁ……はぁ……」


 俺はロッドを引き抜き、その場にへたり込んだ。

 心臓が早鐘を打っている。

 全身から冷や汗が噴き出し、指先が震えて止まらない。

 喉が渇き、肺が酸素を求めて悲鳴を上げている。


 勝った。

 いや、生き残った。


「相沢さん! 大丈夫ですか!?」


 水無月が駆け寄ってくる。

 彼女の顔も蒼白で、目には涙が浮かんでいた。

 俺は震える手でサムズアップを返し、動かなくなったラットの死体を見下ろした。


 さっきまでの異常な強さは見る影もない。

 筋肉の鎧は削げ落ち、ただの、少し大きなドブネズミに戻っていた。

 強力な酸の分泌も止まっているようで、死体の周りの水が泡立つこともない。


「……一体、何が起きたんだ?」


 俺の疑問に答えるように、水無月がほう、と息を吐いた。

 彼女は視線をダンジョンの奥、暗闇の向こうへと向ける。

 その表情には、安堵と共に確信めいた色が浮かんでいた。


「おそらく……ダンジョンボスが討伐されたんです」

「ボスが?」

「はい。さっきの地響きは、迷宮のコアが破壊された余波でしょう。ボスが倒されると、ダンジョン内の魔力循環が一時的に停止します」


 水無月が知識を披露するように語る。

 ダンジョンボスは、そのダンジョンの魔力の源だ。

 供給が断たれれば、モンスターは弱体化し、新たに出現することもない。

 過剰な魔力で無理やり強化されていた変異種は、その体を維持できなくなる。

 結果、強制的に元のランク相当の強さにまで弱体化したのだ。


「つまり……俺たちが勝てたのは、たまたまタイミングよく誰かがボスを倒してくれたから、ってことか」


 俺は苦笑した。

 実力で勝ったわけじゃない。

 あのまま戦っていれば、間違いなく俺たちは全滅していた。

 首の皮一枚繋がったのは、俺の力ではなく、他人の功績だ。


「誰が倒したんだろうな」

「今日は50人近い新人が潜っていましたから……その中の誰かでしょうね。私たちが見送った、あの集団の中にいた優秀なパーティが、最深部に到達したんです」


 水無月の言葉に、俺は入り口での光景を思い出した。

 意気揚々とダンジョンに入っていった、装備の整った新人たち。

 俺たちが下水道の入り口で足踏みしている間に、彼らは奥へと進み、ボスを倒したのだ。


「……へっ、すげえな。俺たちが雑魚一匹に死にものぐるいになってる間に、向こうはボス討伐かよ」


 口をついて出たのは、自嘲だった。

 同じ新人。同じ時期に始めた探索者。

 だというのに、この差は何だ。

 彼らは英雄への階段を駆け上がり、俺は泥水の中で這いつくばっている。


「……運が良かったですね」

「ああ。全くだ」


 だが、運も実力のうちと言う。

 生き残った者が勝者だ。

 どんなに無様でも、どんなに惨めでも、俺たちは生きている。

 今はそれだけで十分だ。


「う……うぅ……」


 壁際から呻き声が聞こえた。

 権田だ。

 俺と水無月は顔を見合わせ、急いで彼の元へ駆け寄る。


「権田! 生きてるか!」

「……あ、相沢、さん? 俺、は……」


 権田が重い瞼を開ける。

 焦点が定まっていないようだが、意識はあるようだ。

 俺は彼の体を支えて起こした。


「あの化け物は……?」

「死んだよ。……まあ、色々あってな」

「そ、そうか……やったのか……」


 権田は安堵の息を吐き、自分の盾に視線を落とした。

 そこには、酸で溶けてボロボロの無惨な姿があった。


「うわぁぁぁ! 俺の盾がぁぁ! これ、ローンまだ残ってんのにぃぃ!」

「命があっただけマシだろ。ほら、立つぞ」


 泣き叫ぶ権田を無理やり立たせる。

 足元はふらついているが、骨折などはしていないようだ。

 鎧が衝撃を吸収してくれたのだろう。

 安物とはいえ、タンク装備の防御力は伊達じゃない。


「帰ろうぜ。もう、こんなところは懲り懲りだ」

「ふふ、そうですね。……でも、相沢さん」


 水無月が、俺の背中に声をかけた。

 振り返ると、彼女は真剣な眼差しで俺を見ていた。


「最後の一撃、凄かったです。あの瞬間、相沢さんは間違いなく……英雄(ヒーロー)でしたよ」


 その言葉に、俺は少しだけ目を見開いた。

 英雄。

 俺が最も遠い場所にいる存在。

 だが、彼女の瞳には、確かに俺がそう映っていたのかもしれない。


「……よせよ。俺はただの、しがないFランクだ」


 俺は照れ隠しに手を振り、歩き出した。

 英雄なんて柄じゃない。

 今日を生き延びるだけで精一杯の、持たざる者だ。


 それでも。

 生き残ったという事実は、確かに俺の胸に小さな熱を残していた。

 1センチ。

 たったそれだけの隙間をこじ開けて、俺は死神の手から逃げおおせたのだ。

 その事実だけは、誰に誇るでもなく、俺自身の自信として刻まれた気がした。


 こうして、俺たちの無謀な深層エリア探索は、他力本願な奇跡によって幕を閉じたのだった。

 手に入れたものは何もない。

 金も、名声も、経験値さえも微々たるものだ。

 ただ、泥だらけの疲労感と、生きているという実感だけを抱えて、俺たちは地上への帰路についた。

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