第10話 捕食者の回廊
地下水道の奥へ進むにつれ、通路の様相が少しずつ、だが確実に変化していた。
それまでの狭苦しい円形トンネルから、複数の水路が合流する広大な空間へと出たのだ。
足元を流れる汚水の量も増え、ゴウゴウという低い水音が反響している。
トンネルの幅が広がり、天井も高くなったことで、物理的な圧迫感は多少マシになった。
だが、代わりに精神的な圧迫感が増した気がする。
ライトの光が届かないほどの闇の深さ。
その奥から、ねっとりとした空気が流れ込んでくる。
空気も澱んでいる。
鼻をつくのは、下水特有の腐敗臭だけではない。もっと生臭い、鉄錆と獣の脂が混じり合ったような、生理的な嫌悪感を催す臭い。
まるで、巨大な獣の檻の中に放り込まれたような錯覚を覚える。
「おっ、またあったぞ! ラッキー!」
静寂を破るように、権田が嬉々とした声を上げた。
彼は警戒心のかけらもなく駆け出し、地面に落ちていた何かを拾い上げた。
薄暗い中で鈍く光るそれ。魔石だ。
ここに来てから、道端に魔石が落ちているのを頻繁に見かけるようになった。
まるで、誰かがパン屑を撒いて道案内をしているかのように、点々と落ちているのだ。
「へへっ、これで五個目だ。敵も出ねえし、濡れ手で粟だな。こりゃあ今日はツイてるぜ」
権田は魔石をジャラジャラとポケットにねじ込み、上機嫌で鼻歌まで歌い出した。
彼の足取りは軽い。
重厚な鎧の重さを感じさせないほど、心が高揚しているようだ。
敵が出ないことを「運が良い」と解釈し、緊張感が完全に緩んでいる。
典型的な、死ぬタイプの思考だ。
だが、俺は素直に喜べなかった。
背筋を這い上がるような違和感が拭えない。
ダンジョンにおいて、敵が出ないことは「安全」を意味しない。
生態系が存在する以上、獲物がいない空間などあり得ないのだ。
あるとすれば、それは「他の何かが獲物を食い尽くした」場合か、あるいは「強大な捕食者が近くにいて、他の生物が逃げ出した」場合。
どちらにせよ、嵐の前の静けさであることに変わりはない。
「……おかしいな」
「何がだよ。運が向いてきたんだろ? 日頃の行いがいいからな、俺様は」
「いや、落ちすぎだ。それに……」
俺は足を止め、足元に落ちていた魔石の一つを拾い上げた。
ライトで照らしてみる。
小指の先ほどの、くすんだ色の石。
大きさからして、ジャイアントラットか、あるいはコウモリのものだろう。Fランクモンスターの魔石だ。
だが、その表面は不自然に欠け、蜘蛛の巣状にヒビが入っていた。
「……砕けてる」
魔石はモンスターの心臓部であり、高密度の魔力の結晶体だ。
モンスターを倒した後、肉体が霧散しても、これだけは綺麗な結晶体として残るはずだ。
その硬度は宝石並みで、ハンマーで叩いてもそう簡単には割れない。
それが、まるで飴玉のように無惨に噛み砕かれている。
断面は鋭利で、何らかの強力な圧力が加わったことを物語っていた。
それに、周囲の状況もおかしい。
通常、モンスターを倒せば、魔石以外にも『ドロップアイテム』が残る。
ラットなら『薄汚れた皮』や『欠けた牙』など、二束三文のゴミアイテムが散らばっているはずなのだ。
たとえ価値がなくても、それらはダンジョンに吸収されるまでしばらくはその場に残る。
だが、ここには何もない。
あるのは、砕けた魔石の破片と、床にこびりついた正体不明の『粘液』だけ。
「誰かが戦った跡……じゃない」
ハンターなら、魔石は回収するし、ドロップアイテムも(価値があれば)拾う。
だが、ここにあるのは逆だ。
価値のある魔石の破片だけが放置され、その他のアイテムの痕跡すらない。
まるで、ドロップアイテムごと『食べられた』かのように。
俺はロッドの先端で、床の粘液を慎重に触ってみた。
ネチャリ、と糸を引くほどの粘り気。
鼻を近づけると、鼻腔を焼くような強烈な酸臭がした。
コンクリートの床が、わずかに変色している。
「……消化液か」
何かがここで、獲物を溶かしながら喰らった痕跡だ。
骨も、皮も、魔石さえも。
全てを溶かし、飲み込む何かが。
「……相沢さん」
不意に、水無月が足を止めた。
彼女は杖を強く握りしめ、暗闇の奥を凝視している。
その顔色は、ライトの光を浴びても分かるほど蒼白で、唇が小刻みに震えていた。
「どうした? 何か見えるか?」
「……気配が、あります。奥に、複数」
「複数か。数は?」
「十……いや、もっと。でも……変なんです」
水無月は困惑したように眉を寄せた。
彼女の『戦況読解』は、単なる視覚強化ではない。
魔力の流れや、生物が発する微弱な生体信号を読み取るスキルだ。
その彼女が、情報の解釈に戸惑っている。いや、見えたものを受け入れられずにいるのか。
「一つだけ、すごく強くて、異質な気配がします。ドス黒くて、渦を巻いているような……。他のは……弱っているというか、怯えているような……」
「仲間割れか?」
「分かりません。でも……あ」
彼女の瞳が、恐怖で見開かれた。
アメジスト色の瞳が、見えない惨劇を映し出している。
「消えていく……」
「え?」
「小さい気配が、次々と消えていきます。一つ、また一つ……吸い込まれるように。……悲鳴が、聞こえる気がします」
その言葉に、俺は背筋が粟立つのを感じた。
消えているんじゃない。
『捕食』されているんだ。
この先にいるのは、同じモンスターを餌とする、上位の捕食者。
生態系のルールを無視した、貪欲な怪物。
「……引き返そう」
俺は即断した。
これは、Fランクの日常的な光景じゃない。
何かが起きている。
俺たちの手に負える相手じゃない可能性が高い。
生存本能が、全力で警鐘を鳴らしている。
「はあ? 何言ってんだよ。敵が減ってるならチャンスだろ? ビビってんじゃねえよ」
「違う! ヤバいのがいるんだ! 権田、お前も気づいてるだろ、この異常さに!」
俺が声を荒らげた、その時だった。
――ギャッ! ギィィィ……!
奥の闇から、空気を切り裂くような断末魔の悲鳴が響いた。
ネズミの鳴き声だ。
だが、その声はすぐに途切れ、代わりに別の音が響いてきた。
グチャリ。ボキボキ。
湿った音と、硬いものが砕ける音。
骨を砕き、肉を咀嚼し、内臓を啜る音。
静寂な地下水道に、その生々しい食事音が反響する。
それは、どんなホラー映画の効果音よりも、俺たちの神経を逆撫でした。
「な、なんだ……? 何の音だ……?」
権田がたじろぎ、剣を構える手が震える。
直後、暗闇から何かが飛んできた。
放物線を描いて、俺たちの足元に落下する。
ドサッ! ベチャッ!
嫌な音を立てて転がったのは、肉塊だった。
原型を留めていないが、辛うじてジャイアントラットだと分かる。
頭部は半分砕かれ、脳漿が飛び散っている。腹部は食い破られて内臓がなく、肋骨が白く突き出していた。
断面からは、まだ湯気が立っていた。
ついさっきまで生きていた証拠だ。
「う、うわぁぁっ!?」
権田が情けない悲鳴を上げて尻餅をつく。
俺は反射的にロッドを構え、水無月を背に庇った。
心臓が早鐘を打つ。
闇の奥から、ズルリと『それ』が現れた。
大きさは大型犬ほどもあるだろうか。いや、もっと大きい。
ベースはジャイアントラットだ。だが、その姿はあまりにも醜悪に変貌していた。
全身の毛が病的に抜け落ち、赤黒い筋肉が剥き出しになっている。
異常発達した筋肉が、まるで別の生き物のように脈打ち、蠢いている。
前脚は丸太のように太く、コンクリートを削るほどの鋭い爪が生えていた。その爪には、さっきの獲物の肉片がこびりついている。
そして何より異様なのは、その口だ。
顎が耳元まで裂けるほど大きく開き、不揃いな牙がびっしりと並んでいる。
サメの歯のように何重にも生えた牙。
その隙間から、ダラダラと粘液が垂れ落ちていた。
ジュッ、と床が音を立てる。
さっき床で見たものと同じ、強力な消化液だ。
「グルルル……」
喉を鳴らす音は、ネズミというより猛獣のそれに近かった。
その双眸は血のように赤く、理性の欠片もない飢餓感だけが宿っている。
俺たちを見ても、警戒する様子はない。
ただ、『餌』として値踏みしている目だ。
こいつにとって、俺たちは敵ではない。ただの食事だ。
「……共食いか」
俺は悟った。
こいつは、同族を喰らって力をつけた変異種だ。
魔石が砕けていたのは、魔石ごと噛み砕こうとしたからか。
死骸がないのは、骨までしゃぶり尽くしたからだ。
Fランクダンジョンの生態系の頂点に君臨してしまった、暴食の化身。
本来なら生まれるはずのない、ダンジョンのバグ。
「ひ、ひぃぃ……なんだよコイツ! こんなの聞いてねえぞ!」
権田が腰を抜かしたまま後ずさる。
無理もない。
目の前にいるのは、Fランクの枠を逸脱した怪物だ。
放たれる魔圧が桁違いだ。
肌がピリピリと痛むほどの殺気が、俺たちを包み込む。
「水無月、下がれ! 権田、立て! 食われるぞ!」
俺の警告に応えるように、変異ラットが地面を蹴った。
速い。
巨体に似合わぬ瞬発力で、獲物――俺たちへと躍りかかってきた。




