プロローグ:平凡なサラリーマンの最期
午後七時半。
七月の生温い夜風が、汗ばんだワイシャツに張り付いて不快だった。
俺――相沢透は、重い足取りで駅前の商店街を歩いていた。
手にはコンビニのビニール袋。中身は、350mlの発泡酒と、20円引きのシールが貼られた焼き鳥のパックだ。これが今日の晩飯であり、唯一の楽しみでもある。
「……はぁ。明日も会議か」
無意識に溜息が漏れる。
二十四歳。社会人二年目。
中堅の建材メーカーで営業職をしている。ブラック企業というほど過酷ではないが、ホワイトと呼べるほど甘くもない。
上司の顔色を窺い、取引先に頭を下げ、サービス残業をこなして、手取りは二十万そこそこ。
特別優秀でもなければ、無能でもない。
趣味は動画鑑賞と、たまに読むネット小説くらい。彼女はいないし、作る気力も金もない。
そんな、平々凡々とした人生。
俺は自分のことを、どこにでもいる「モブキャラ」だと思っていた。
物語の主人公になんてなれないし、なりたくもない。
痛いのは嫌いだ。怖いのも嫌いだ。
劇的なイベントなんて起きなくていい。ただ平穏に、そこそこの給料をもらって、そこそこの幸せがあればそれでいい。
そう思っていた。
あの音を聞くまでは。
商店街の端にある、数年前からテナント募集のまま放置されている古びた雑居ビル。
その前を通り過ぎようとした、その時だった。
日常が壊れる音というのは、案外地味なものだった。
パリン、と。
まるで薄いガラスが一枚割れたような、乾いた音が響いた。
「……え?」
足を止める。
視界の端で、空間が揺らいでいた。
真夏の陽炎のような、不自然な歪み。
それがビルの入り口付近に発生し、次の瞬間――冒頭の音が響いたのだ。
何かが、弾けた。
そう認識した直後、鼻をつく異臭が漂ってきた。
生ゴミと獣臭さを煮詰めたような、強烈な悪臭。
思わず鼻を押さえる。
「なんだ、今の音……?」
「ガス漏れか?」
周囲を歩いていた数人の通行人も、足を止めてビルの方を見ている。
誰も、まだ事態を理解していない。
ただの事故か、あるいは何かの間違いだと思っている。
俺もそうだった。
酔っ払いが看板でも蹴飛ばしたんだろう。そう自分に言い聞かせて、通り過ぎようとした。
だが、次の瞬間。
その楽観は、絶望的な悲鳴によって塗り替えられた。
「ギャッ、ギャアアアッ!」
耳障りな金切り声と共に、歪んだ空間から『それ』が転がり出てきた。
身長は小学生ほど。
汚れた緑色の肌。
腰にはボロ布を巻き、手には太い木の棒――棍棒を握りしめている。
ゴブリン。
ファンタジー映画やゲームでお馴染みの、最弱のモンスター。
画面の中で見れば、愛嬌すら感じる雑魚キャラだ。
だが、現実で対峙するそれは、似ても似つかない化け物だった。
皮膚の表面には膿んだようなイボがあり、口からは黄色い涎が垂れている。
何より、その瞳。
濁った黄色い瞳には、知性など欠片もなく、ただ純粋な『食欲』と『殺意』だけが渦巻いていた。
「ひっ……!」
近くにいた女子高生が、短い悲鳴を上げて尻餅をつく。
その音に反応して、ゴブリンの首がギギギと回った。
「ギシャアアアッ!」
歓喜の叫び。
獲物を見つけた捕食者の顔。
ゴブリンが地面を蹴る。
速い。
弱体化しているはずのブレイク直後でさえ、その動きは野生動物そのものだった。
「いや、いやぁぁぁぁッ!」
女子高生が顔を覆う。
薄汚れた棍棒が振り上げられる。
誰も動けない。
あまりの非現実に、脳が処理を拒否しているのだ。
俺もそうだった。
足が震えて、一歩も動けない。
助けなきゃ、なんて正義感は湧いてこない。
ただ、怖い。
逃げたい。
関わりたくない。
だが、運命というのは残酷だ。
ゴブリンが跳躍した瞬間、ビルの二階から錆びた看板が音を立てて落下した。
ガシャーン!
その音に驚いたのか、ゴブリンが空中で体勢を崩し――着地した場所は、女子高生の前ではなく、俺の目の前だった。
「……あ」
目が、合った。
至近距離で見る怪物の顔。
鼻が曲がるほどの悪臭。
口の端から垂れる涎が、アスファルトに落ちて黒いシミを作る。
「う、そだろ……」
思考が凍りつく。
ダンジョンブレイク。
ニュースでしか見たことのない災害。
テレビの向こう側の出来事。
それが、まさか自分の目の前で起きるなんて。
「ギギッ、ギャウッ!」
ゴブリンが標的を変更した。
俺だ。
俺が、獲物だ。
「逃げ――」
本能が警鐘を鳴らす。
回れ右をして全力疾走しようとした。
だが、足がもつれた。
恐怖で体が強張り、無様にアスファルトへ転倒する。
手からビニール袋が落ち、発泡酒の缶が転がった。
起き上がろうとした瞬間、右肩に重い衝撃が走った。
「がっ……!?」
ゴブリンの棍棒が、スーツの上から肩を殴打していた。
遅れてやってくる激痛。
骨がきしむ音。
衝撃で視界が揺れる。
「あ、が、あ……」
痛い。
熱い。
怖い。
(死ぬ)
明確な死の予感が、脳髄を突き刺した。
ゴブリンが追撃のために棍棒を振り上げる。
その先端が、今度は確実に俺の頭蓋骨を狙っているのが分かった。
ニタニタと笑うような、醜悪な笑み。
こいつは楽しんでいる。
弱い獲物をいたぶって殺すことを。
嫌だ。
死にたくない。
こんな、わけのわからない場所で、わけのわからない化け物に食われて死ぬなんて。
まだ何もしていない。
親孝行もしていないし、結婚もしていない。
やりたいことだって、まだ……。
俺の手が、無意識に地面を掻く。
アスファルトの冷たい感触。
その中に、異質な硬さがあった。
近くの工事現場から転がってきたのだろうか、一本の鉄パイプ。
長さは一メートルほど。
錆びて、泥がついた、ただの鉄の棒。
それが、俺の命綱だった。
「あ、あああああッ!」
恐怖を振り払うように、俺は叫んだ。
鉄パイプを両手で握りしめ、めちゃくちゃに突き出す。
武術の心得なんてない。
ただの、生きるための足掻き。
無様で、滑稽な、弱者の抵抗。
ゴブリンの棍棒が振り下ろされる。
俺の鉄パイプが突き出される。
交錯する、その一瞬。
世界がスローモーションになったように感じた。
見える。
ゴブリンの棍棒の軌道が。
薄汚れた木の塊が、俺の頭に向かって一直線に迫ってくるのが。
そして、俺の突き出した鉄パイプが、その軌道にわずかに届かないことも。
(ダメだ)
このままでは、鉄パイプが当たる前に、俺の頭が潰れる。
筋力も、速度も、リーチも、全てが足りない。
物理的に、間に合わない。
死ぬ。
死ぬ。
死ぬ。
嫌だ。
死にたくない。
誰か助けてくれ。
いや、誰も助けてくれない。
自分でやるしかない。
でも、どうやって?
届かないのに。
当たらないのに。
――ズレろ。
頭の中で、何かが弾けた気がした。
願いとも、祈りとも違う。
もっと根源的な、魂からの命令。
当たらないなら、当てればいい。
届かないなら、届かせればいい。
この理不尽な暴力を、ほんの少しだけ、俺のいない場所へ逸らせればいい。
ズレろ。
曲がれ。
あっちへ行け!
ドォン、と鈍い音が響く。
ゴブリンの棍棒と、俺の鉄パイプが接触した。
本来なら、筋力で勝るゴブリンが俺のガードを弾き飛ばし、そのまま頭を叩き割っていたはずだ。
物理法則は、弱者に味方しない。
だが。
その瞬間、ありえないことが起きた。
ゴブリンの棍棒が、まるで氷の上を滑るように、不自然な軌道を描いて俺の顔の横を通り過ぎたのだ。
まるで、そこに見えない坂道があったかのように。
あるいは、磁石が反発し合ったかのように。
運動エネルギーのベクトルが、ほんの数センチだけ、強制的に書き換えられた瞬間だった。
「ギャ?」
ゴブリンが驚愕に目を見開く。
手応えがあったはずの攻撃が空を切り、勢い余った小鬼の体が、前のめりにバランスを崩す。
無防備な頭蓋が、俺の目の前にさらけ出される。
好機。
最初で最後の、生き残るための糸口。
「死ねぇぇぇぇッ!」
俺は渾身の力で、鉄パイプを振り下ろした。
ゴブリンの頭蓋骨が砕ける、嫌な感触が手に伝わる。
それでも、俺は止まらなかった。
一度、二度、三度。
ゴブリンが動かなくなっても、俺は叩き続けた。
手のひらの皮が剥げ、肩の傷から血が噴き出しても、恐怖で麻痺した腕は止まらなかった。
殺さなきゃ殺される。
その原始的な恐怖だけが、俺を突き動かしていた。
やがて、ゴブリンの体が黒い霧となって消滅する。
後に残ったのは、小指ほどの小さな魔石だけ。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
荒い息を吐きながら、俺はその場にへたり込んだ。
心臓が早鐘を打っている。
全身が汗と血でぐしゃぐしゃだ。
周囲からは、遠巻きに見ていた人々のざわめきが聞こえてくる。
助かった。
勝ったんだ。
俺は、生き残ったんだ。
そう思った直後だった。
ドクン、と心臓が跳ねた。
「あ……ぐ……ッ!?」
全身の血管に、熱した鉛を流し込まれたような激痛が走る。
筋肉が痙攣し、骨がきしむ。
魂そのものを万力で締め上げられるような、耐え難い苦痛。
知識としては知っていた。
テレビの特集やネットニュースで何度も見たことがある。
ダンジョン内でモンスターを初めて討伐した人間にのみ訪れる、魂の変革。
これが、魔圧。
一般人が決して耐えられないと言われる、覚醒の代償。
本来なら、専門の施設で、何重もの防護措置を受けて行うべき儀式。
それを、生身で、しかも負傷した状態で受けたのだ。
「が、あ、あああああ……ッ!」
声にならない絶叫が喉から漏れる。
視界が白く染まる。
意識が遠のいていく。
遠くでサイレンの音が聞こえた気がした。
誰かが俺の名前を呼んでいるような気もした。
だが、もう何も考えられない。
薄れゆく意識の中で、俺は最後に見た。
自分の手が握りしめていた鉄パイプ。
その先端が、ゴブリンを殴った衝撃だけでは説明がつかないほど、ありえない方向にぐにゃりとひしゃげていたのを。
(……俺は、一体……)
そこで、俺の意識はプツリと途絶えた。
それが、俺のハンターとしての、最悪で最高の始まりだった。
本作の第1章は、短期集中で更新予定です。
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