第八話 お嬢様の香しい復讐
ここ数日、アビゲイルはひどく機嫌が良かった。
毎食きちんとある程度の量を食べられるようになってきたおかげか、化粧で誤魔化していた青白過ぎる顔には血色が戻り、以前よりふっくらとした頬にはまるで薔薇色の頬紅をさしたように見えた。
順調に健康体に戻っていくアビゲイルは、機嫌の良さに比例して部屋から出て活動することも増えた。
リュディガーにパンを作るところを見てみたいとねだり、アビゲイルの望みは何でも叶えてあげたいリュディガーは、ニコニコしながらそのおねだりに頷いて、ニコニコしながら材料を用意し、ニコニコしながら材料を混ぜ、ムキムキの逞しい腕で生地をこね、バターを練り込むところを披露した。
一次発酵の時間をおき、成形する工程ではアビゲイルが自分もやってみたいと言ったので、二人でキャッキャウフフと生地を分割して丸めたりもした。
二次発酵の後でアビゲイルが自ら表面に卵液を塗って焼き上げたパンは、自分だけでは食べきれないからというアビゲイルの意向で使用人にも振る舞われた。
貴族と平民では食べられるパンの種類が異なる。普段手に取ることすら許されない高級なパンを渡されて驚く使用人たちを見て、彼女は悪戯が成功した子供のように無邪気に笑っていた。
リュディガーはそんなアビゲイルを見て「俺のお嬢様が尊い」と感動に滂沱の涙を流した。
またある時は家令のサミュエルと屋敷の管理について話し合ったり、屋敷の整備を担当するハウスメイドを統括しているメイド長のマーサの後をついて屋敷内を見て回ったり、これから来る冬の備えについて祖父に支援を請う手紙を書いたりと、ここに来た当初からは考えられないほど落ち着きぶりである。
今朝も朝食の後から広間に設置しているピアノを機嫌良く弾いていた。
幼い頃から嗜みのひとつとして習っていたこともあり、彼女のピアノの腕前はかなりのものだ。
お嬢様の生ピアノを聴ける幸運にリュディガーは感動してまた泣いた。
屋敷の使用人たちも、王都にいる侯爵も、このまま穏やかに新年を迎えるのだろうとほっと胸を撫で下ろした矢先。
それが一転したのが王都から届いた手紙を読んだ直後であった。
先ほどまでニコニコと春の芽吹きを表現する優雅な曲を弾いていたはずのアビゲイルの顔からはストンと表情が抜け落ち、弾いている曲は有名な復讐劇のクライマックスシーンで主人公が歌う曲へと変わった。
先ほどまでポロンポロンと可愛らしく聴こえていたはずのピアノの音は、なんだかもうダーン!ダダーン!と嵐の夜のような激しい音へと変わっている。
ピアノが壊れてしまいそうな打鍵の勢いに、俺のお嬢様の気分を害したのはどこのどいつだとリュディガーは苛立ちながらも、それを胸の中に隠してそっとアビゲイルに声をかけた。
「お嬢様。お茶を淹れますから、少し休憩なさいませんか」
「……リュディガー……」
声を掛けられたアビゲイルは、その時初めてリュディガーが側に来ていたことに気が付いたという表情で顔を上げた。
そして数秒の間、大きな青い瞳でジッとリュディガーを見つめたかと思うと、深々と溜め息を吐いて言った。
「……何だか疲れたわ。お茶と一緒に何か甘いものを用意してちょうだい」
「かしこまりました」
今朝方までの機嫌の良さは何処へやらである。
その様子に、リュディガーは思わずへにょりと眉尻を下げた。
それでもリュディガーはアビゲイルのメイドであり、その他諸々の身の回りの世話一切を任された使用人である。
主人のために美味しいお茶を淹れ、命じられた通りにスミレの砂糖漬けを添えてティートレイを運ぶ。
アビゲイルお気に入りの茶葉であるリュディガー・スペシャルブレンドをサーブしながら、リュディガーはちらと彼女を見た。
視線の先のアビゲイルは窓際のソファに座り、何を考えているのかぼうっとした表情で庭を眺めていた。
けれど実際には豊かな睫毛に縁取られた青い瞳には何も映っていないのは明白だった。それ故に彼女の姿はよく出来た人形のようにも見える。
「お嬢様。ご気分が優れませんか?」
思わず問い掛けると、アビゲイルは視線だけをリュディガーに向け、鬱陶しそうに目を細めた。
「メイドがあまりでしゃばらないことよ」
「……申し訳ございません」
確かにメイドの立場では出過ぎたことだったかもしれない。
リュディガーは大人しく頭を下げたが、同時に「でも久しぶりにお嬢様の塩対応を頂けて結果オーライだったな」と内心で思っていた。リュディガーはどこまでもリュディガーだった。
しかし、アビゲイルは頭を下げるリュディガーをしばらく見詰めながら、でも、と小さく呟いた。
「……そうだった。お前は知っているのだものね」
「何をでしょう?」
「説明するのは面倒だわ。これ、読んでいいわよ」
アビゲイルから渡されたのは彼女の機嫌を急転直下させた例の手紙だった。
それは侯爵からの手紙で、本来ならば使用人の立場で目にして良いものではない。
恐る恐るリュディガーはその手紙を開き、そして最後まで読み終わると丁寧に手紙を封筒に戻し、徐に右手で顔を覆って無言で天を仰いだ。
そんなリュディガーに視線を向けることなく、お茶を飲みながらアビゲイルが言う。
「……わたくしからの補足は必要かしら」
「いえ、察しました」
「そう」
言葉少なに交わされる会話は端的で、そして非常に重苦しい声音である。
少しの間その場に沈黙が生まれ、次にその場に零れ落ちたのはリュディガーの呟きだった。
「……お嬢様。俺、ちょっと王都に戻って闇討ちとかしてきましょうか?」
口調は軽いが語るその目が真剣だった。
リュディガーは心の底から本心で闇討ちを提案していた。
それが通じたのだろう。アビゲイルは先ほどより棘のない仕草でティーカップをソーサーに戻すと小さく首を横に振った。
「いらないわ。だって今からではどうせ何をしたって同じだもの」
「でも……、あの女が聖女の座におさまるのはどうにも……」
侯爵からの手紙には、例の女料理人が新年祭の折に新たな聖女としてお披露目されることが決まった旨が綴られていた。
王子と結託してアビゲイルを聖女の座どころか王都からも追いやったあの女が正式に聖女となる。
この事実はここ最近静かであったアビゲイルの心を大いに乱した。そして今リュディガーの心を乱している。
自分は人を陥れ、蹴落としておいて、何食わぬ顔で清らかな存在であるような顔をして聖女の座につくというのか。
少なくともアビゲイルは自らの力でその座を掴もうとしていた。
奸計を用いて他者を蹴落とすなどという手はアビゲイルなら絶対に使わない。
リュディガーは「あの女が聖女とか解釈違いです」と言わんばかりの顔でアビゲイルを見たが、視線の先のアビゲイルはどこか諦念を帯びた瞳でまたぼんやりと窓の外を眺めていた。
「わたくしだって、別に何とも思わない訳ではないわ。ただ、こんな田舎では出来ることがないのよ」
お茶会で他の貴族令嬢に愚痴を言うことも出来ないし、祖父である侯爵に泣きついて鬱憤晴らしの盛大な買い物も出来ない。
次第にまた苛々した表情になってきたアビゲイルを見て、やはりこっそり闇討ちしてこようかと画策しかけたリュディガーだったが、あることを思い出してならばと声を上げた。
「では、気分転換に蜜蝋作りなどいかがですか?」
「蜜蝋?」
「はい。せっかく養蜂をしているので、使えるものは使おうと思って。王都から香油なんかの材料もいくつか送ってもらっていたんです」
蜜蝋は獣脂を使った蝋燭に比べて煤が出にくく、匂いも少ない。香料を混ぜれば火をつけた際に優しく香りリラックス効果もある。
貴族の居住区でもよく使われるが、アビゲイルに至っては知っている蝋燭というものがそもそも蜜蝋しかないので、その違いはよくわかっていなかった。
それよりも気になったのは養蜂の部分である。
「待って。この屋敷では養蜂までしていたというの? ま、まさかたまにお茶の時間に出て来るあの蜂蜜……」
「あぁ、そうですよ。うちの巣箱から採取したものです」
「そんなことまで……!」
鶏は自分が祖父にねだったし、毎朝元気に鳴いているので存在を知っているが、養蜂までしているのは知らなかった。
それとも田舎の領地ではそれも一般的なのだろうか?
わからない。リュディガーが絡むとそれが普通のことなのか、そうでないのか一気にわからなくなる。
既にムキムキの男がメイド服を着てお茶を用意する姿に慣れてしまっているのだ。普通って一体なんだったかしら。
アビゲイルは困惑し過ぎて先ほどまでの苛立ちを忘れかけた。リュディガーの計算通りである。
「蜜蝋は香油を混ぜてお好みの匂いのものを作ることが出来ますよ。安眠にも良いですし、ハーブを練り込んで見た目も工夫出来るので、お嬢様のお好きな香りのものをお作りしますよ」
元聖騎士であるリュディガーは教会で蜜蝋作りも経験している。
教会の儀式には蜜蝋を使うことも多いので、聖職者にとっては蜜蝋作りは身近な仕事だった。
アビゲイルの気を引きたい一心でリュディガーがその時の経験談などを語っていると、ふとアビゲイルが顔を上げた。
「リュディガー。好きな香りで、と言ったわね。香油やハーブがあれば大抵のものは作れるの?」
「はい! ラベンダーやカモミール、薔薇に、お嬢様の好きなマグノリアも……」
「そうなの。だったらわたくし、作りたいものがあるわ」
「何をご用意致しましょうか」
お嬢様は一体どんな香りを望むのだろうか。お嬢様が笑ってくれるなら、どんなものだって作ってみせる。
にこ、と微笑んだアビゲイルにリュディガーも表情を明るくする。
アビゲイルはすっかり機嫌を直した様子でリュディガーに言った。
「ローズマリーよ。わたくし、ローズマリーの蜜蝋を作りたいわ。たくさん作ってラッピングもしたいわね。材料は用意出来るかしら」
「お、お嬢様がお望みでしたら……。しかしどうして」
大嫌いなローズマリーを?
視線で問いかけるとアビゲイルはますますニッコリ笑って見せた。
「どうしてって、ただの嫌がらせよ。蜜蝋は新年祭に欠かせない重要なものだわ。そして毎年貴族が寄付するのが慣習になっていて、寄付金の継続を求める教会側は新年祭の時には貴族から寄付された蜜蝋を使うわね。さて、ハインツェル侯爵家から寄付された蜜蝋は一体どうなるかしら?」
「それはもちろん貴族の序列なんかを考えれば当然一番目立つところで使われ……、あぁ、なるほど。聖女着任の儀式ですか」
ピンときた様子のリュディガーにアビゲイルはニコニコと頷いた。
「そうよ。手紙に『清らかなる聖女の誕生を心よりお祝い申し上げます』なんて意味深な言葉でも書き添えてローズマリーの蜜蝋を送り付けてやったら、教会の神官もあの女もわたくしの意図がわからなくてさぞや困惑することでしょうね! 無駄にあれこれ考えて精神的に疲弊すればいいわ!」
高笑いするアビゲイルにリュディガーはお嬢様が楽しそうで何よりだとうんうん頷いた。
「さすがです、お嬢様! 新年祭準備のめちゃくちゃ忙しい時期に不穏を送り込んで奴らを怖がらせましょう!」
そうして二人は意気揚々と蜜蝋作りを開始したが、開始早々ローズマリーの匂いにあてられてアビゲイルがダウンしたので、結局リュディガーがそのほとんどを作り、アビゲイルは匂いの届かない別室で侯爵令嬢としてこれまで会得した優雅な言葉に二重にも三重にも含みを持たせて蜜蝋に添える手紙を綴ったのである。
「じゃあリュディガー。これを王都の教会まで届けて来てちょうだい」
「はい! 一週間で戻ります! それ以上だとお嬢様不足で俺が干からびるので!」
「はいはい。干からびる前に戻ってきなさい。わたくし、ミイラをメイドにする趣味はないのよ」
「かしこまりました! 行ってきます、アビゲイルお嬢様!」
颯爽と馬に乗り、蜜蝋を持って王都へと出発したリュディガーを家令のサミュエルと共に見送ったアビゲイルは、その姿が見えなくなってからはたと何かに気付いてサミュエルを振り返った。
「ねぇ、サミュエル」
「はい、お嬢様。何か?」
「……リュディガーはどうしてメイド服のままで行ったの? むしろわたくしは何故それを止めなかったのかしら?」
そう。リュディガーは乗馬服でもなければ普通の男性用の服でもなく、バッサバッサとロングスカートの裾を靡かせていつものメイド服で馬に乗って行ってしまった。
サミュエルは無言で少し考えてから真顔で答えた。
「……クラネルト卿のメイド服姿に目が慣れきっていて違和感が休暇中だったからでは」
サミュエルの言葉は正しかった。
正しかっただけに、アビゲイルは実に悔しそうな顔をして頭を抱え、唸るように言った。
「くっ、わたくしとしたことが王都に変態を送ってしまったわ……!」
呼び戻そうにも既に姿は見えず、声も届かない。
リュディガーが向かった方角を見詰めてしばし考え込んでいたアビゲイルだったが、すぐに割り切った表情でサミュエルに命じた。
「もしリュディガーが王都で不審者として捕まるようなことがあれば、侯爵家の名前と金で即刻解決なさい」
使える時にはコネでも何でも使えば良い。
アビゲイルの命令にサミュエルはかしこまりましたと深々と頭を下げる。
──新年まで、あと半月ほどの頃のことだった。




