第七話 「筋肉は全てを解決します」
リュディガーは悩んでいた。
悩みなど一つも無さそうに見えるが、これでも自称繊細な男なので、抱えている悩みの一つや二つは当然ある。
そんな悩める男リュディガーはそれでもいつも通りメイドとしての仕事を済ませ、難しい顔をしたままフラフラと小麦や食材が保管されているパントリーに入ると、睨みつけるようにして一つ一つの在庫を確認し始めた。
王都の侯爵家から送られてくる調味料に瓶入りのピクルス、干し野菜など。どれも侯爵家の厨房で使うものと同じ品である。
その中からアビゲイルの好きな果物の砂糖漬けの瓶を手に取り、数秒間じっと手の中の瓶を見詰めてから彼は無言でそれを棚に戻すと大きな溜め息を吐いた。
「……はぁ、お嬢様の体重を増やすにはどうしたら……」
続けて吊るされている燻製にした魚と肉の在庫を確認しながら眉間に皺を寄せて呟く。
そう、リュディガーを最近悩ませているのはずばり『アビゲイルの体重』であった。
「最近は食事量の増加に伴って順調に戻っていたのに、ここにきて停滞するとは……。タンパク質とカルシウム……やはり糖分か? いや、脂質……」
うーーーーーーん。
薄暗いパントリー内で唸り声を上げるリュディガーは、今度は壁側に積み上げられた小麦の袋に目を留めると、何気なくそれを一つ持ち上げた。
ちょうど良い重さと大きさである。
うん、と深く頷き、リュディガーは小麦の袋を両腕で抱え、そのまま無言でスクワットを始めた。
遅過ぎず、早過ぎず、どこの筋肉にどのくらいの負荷が掛かっているか意識しながら、一回、二回とスクワットを続けていく。
考え事をするときに筋トレをするのがリュディガーの癖だった。
(王都での生活で慢性的に不足していた睡眠と食事量は回復している。最近はようやく睡眠障害も解消の兆しが見えるし、情緒も安定傾向にある。長期的に見れば改善は改善だ。しかし栄養不足が続いたお身体はまだあまりにも軽過ぎる……! 腕立て伏せの負荷になるどころか、羽根のように軽くて風が吹いたら飛んでいってしまいそうなほどだったぞ)
スクワットを続けながら、リュディガーはひょんなことから、アビゲイルを背中に乗せて腕立て伏せをすることになったあの幸福な朝を思い出していた。
年頃の娘にしてはアビゲイルの身体はあまりにも軽く、化粧をしない頬は不健康なまでに青白かった。
そこから続けて記憶を辿り、王都にいた頃のアビゲイルのスケジュールを思い起こす。
アビゲイルは侯爵家の人間だけあって社交活動が盛んだった。
昼はお茶会、夜は夜会。隙間時間に他の貴族家への訪問や、逆に屋敷で訪問客のもてなし、貴族の品位を保つための買い物、果ては貴族女性として慈善活動も行う。
それだけでも多忙を極めるというのに、彼女は聖女候補でもあった。
社交活動をこなすと共に、一日も休むことなく聖女候補としての教育も真面目に受けていたのである。
まともに休む時間などほとんどなく、食事は茶会で出された菓子、もしくは夜会で少量口にする軽食程度。睡眠時間は仮眠にも届かない日が何日も続いていた。
(しかし、護衛当番から得た食事内容と睡眠時間のデータから軽く算出しただけでも、アビゲイルお嬢様がかなり無理をされているのが簡単に解るのに、どうして誰も進言しなかったんだ)
その頃にリュディガーが聖騎士として聖女候補であるアビゲイルの護衛当番になっていたら、リュディガーは迷うことなくアビゲイルを外界から隔絶された場所に攫って温かい食事を振る舞い、ふかふかのお布団に入れ、全力で寝かしつけたことだろう。
団長に己の抱える不穏を気取られて現場から外されてしまったことが今更ながらに悔やまれる。
しかし、実際にリュディガー以外の誰一人としてアビゲイルのそんな過酷な生活に疑問を持たなかった。
侯爵令嬢として社交活動は当たり前のこと。
聖女候補として教育を受けるのも当たり前のこと。
故に、そんなことは『出来て当たり前』という認識だったのである。
アビゲイル自身もやって当然のことと思っており、自ら休みたいとも言わなかった。
そんな異常な共通認識が発生してしまっていたのだ。
もしもアビゲイルがこの領地に来ることがなければ、彼女は早晩栄養失調か睡眠不足、もしくは過労で倒れていたに違いなかった。
そのくらいアビゲイルは自身も気付かないうちに極限状態に追い込まれていた。
極限状態で平静を保てる人間は多くない。
それが多感な年頃の女の子であれば、尚更平静など保てはしないだろう。
苛烈な性格と言われ、ひどい癇癪を起こしていたアビゲイルだが、本来は気は強くとも朗らかでよく笑う女の子である。
八つ当たりを受けた侍女やメイドは気の毒であったが、王都からこの領地に来ることになった侍女やメイドの中には田舎暮らしを嫌がっていた者も少なくなかっただろうし、退職の際には紹介状の発行の他に退職金も支払われている。
侯爵家の発行した紹介状さえあれば次の職場にも困らないうえ、使用人としての箔も申し分ない。
今頃は次の職場でそれなりの対応を受けていることだろう。
更にちょっとだけリュディガーの本音をいうなら、侍女とメイドが全て辞めてくれていたお陰でお嬢様のお世話を独り占め出来て最高に幸せであるのは秘密である。
それはさておき、田舎の領地で静かに毎日を送ることで昂っていた神経を休ませ、しっかり睡眠と栄養をとらせて最近ようやく本来の彼女に戻ってはきたものの、まだ完全ではない。
中でも、かなり食が細くなっていたアビゲイルの体重は健康には程遠い。
骨と皮だけとまでは言わないが、このままでは少し転んだだけで骨折しそうでリュディガーは大変心配していた。
(お嬢様が王都からお持ちになった華美なドレスをお召しにならないのは、痩せて身体に合わなくなってしまったからだ)
リュディガーがこの屋敷に来て初めてアビゲイルの着替えを手伝った時、不健康に痩せた身体に衝撃を受けた。
彼女の髪を結った時、自慢であった豊かな金髪はリュディガーの記憶にあったものよりもパサついて色艶も褪せていた。
アビゲイルが着替えにと指定したのはサイズに融通のきく、ゆったりとしたデイドレスだった。
他のドレスは彼女の身体には合わなくなっていたが、新しく仕立てる事もできずに王都からこの領地に送られた証左であった。
どうして誰も気が付かない。どうして誰も気に留めない。どうして、どうして、どうして。
悲しみと怒りで胸の中がぐちゃぐちゃになりながら、リュディガーは熱したコテを使ってその時に出来る一番美しい結い髪を作り上げたのである。
そしてリュディガーはどうして自分はもっと早く彼女の側に来ることが出来なかったのかと己を責めた。
だからこそリュディガーは一日も早くアビゲイルをつやつやのピカピカに戻したいと願い、この屋敷に来た日から今日まで、日々食事や睡眠時間に気を付けてきた。
リュディガーにとって、アビゲイルは毎日美味しいものを食べてふかふかの布団で寝てほしい大切な存在なのである。
そんなアビゲイルの不健康など何が何でも許しがたい。
「お嬢様が口になさるもので、カロリーを増やせそうな余地のあるもの……」
リュディガーは考えた。スクワットも続けていた。
アビゲイルに無理なく適正体重に戻って貰うために、自分は何が出来るのだろうか。
「甘いものはお茶の時間に召し上がって頂いているが、他となると……」
そしてスクワットの重し抱えていた小麦の袋を見て、ハッと目を見開いた。
「これだ!」
そしてリュディガーは小麦の袋を抱えたまま、メイド服のロングスカートを翻し、颯爽と厨房へと向かったのだった。
***
それから何日か経過したとある日の朝食の席で、アビゲイルは自分のために用意された朝食を見て小さく首を傾げた。
「リュディガー」
「はい、お嬢様」
「最近、毎日パンの種類が違うのだけど……」
アビゲイルの視線は食卓に置かれた籠の中に積まれているパンに向けられている。
今日の朝食はバターをふんだんに使いカロリー増し増しに仕上げた、あえて小さめに焼き上げたクロワッサンだ。
昨日は平たく細長い形のモチモチした食感が特徴的なチーズ入りのパンだった。その前は小麦の風味が香る、中央に十字の切れ込みが入った丸いパンだった。そこに蜂蜜やオリーブオイルをつけて頂くのである。
パンというのは変わり映えのしない白パンを指すとばかり思っていたアビゲイルにとって、毎食違うパンが出てくるのは衝撃的なことだった。
「お嬢様に召し上がって頂きたいパンのレシピがいくつかあったので俺が焼いたのですが……お口に合いませんでしたか?」
「え? このパン、リュディガーが焼いているの? お前、パンも焼けるの」
「はい。聖騎士は一応聖職者の括りですから、一年のうちの一定期間は教会で奉仕作業をすることになっているんです。教会で司祭の補助をしたり、説法を説いたり、貧しい人々のためにパンを焼いたり……。あ、パン作りは教会ごとに少しずつレシピが異なるので面白いですよ。今回はそこで覚えたレシピにアレンジを加えました」
「聖職者とはそういうこともするのね」
「はい。冬になれば蜜蝋を作ったりもします」
「ふぅん……」
手元のパンを見つめてアビゲイルはしばらく考え込んだ。
小さめのクロワッサンは外側は香ばしくパリッとした層になっていて、一口サイズに千切れば中はふんわりと柔らかいのが指先の感覚だけでわかる。
千切ったクロワッサンの端から甘く香るバターの匂いがアビゲイルの空腹を刺激した。
「!」
クロワッサンを口に入れたアビゲイルはパァッと表情を明るくして、いそいそと二口目を口へと運ぶ。
パン自体が小さいからか珍しく二個目にも手を伸ばし、バターをつけて風味を増した味わいを存分に楽しんだアビゲイルだったが、それを焼いているのがリュディガーだと思うと、ムムムと彼女の眉間に力が籠った。
「……お口に合いませんか?」
銀の盆を胸に抱え、デカい図体で上目遣いをするメイドに、アビゲイルは数秒迷った視線を送ると咳払いをして口を開いた。
「別に、悪くな……」
「……お嬢様?」
言い掛けてやめたアビゲイルに、リュディガーはこてんと首を傾げる。
リュディガーに見つめられ、アビゲイルは再度ムムムと眉間に皺を寄せて数秒の間悩んだ表情を見せたが、ふっと表情を和らげたかと思うと、今度は困ったように肩を竦め眉尻を下げて微笑んだ。
「……美味しいわ」
その言葉にリュディガーは大きく目を見開いた。
初めてアビゲイルから貰った「美味しい」だった。
パンを二個食べてくれただけでも嬉しいのに、更に美味しいと言ってくれた。
リュディガーは嬉しくてほのかに目元を赤くして目を細めた。
嬉しさのあまり、えへ、と小さくリュディガーが笑ったその時である。
「困ったメイドね。食事の度にこんなに美味しいパンを出されたら、わたくし肥えてしまうじゃないの」
小さく肩を揺らし、くつくつと喉の奥で笑ってアビゲイルが言った。
なんの屈託もない、心底楽しそうな表情で。
──それは、いつか見たあの頃の彼女と同じ笑みだった。
「……しゅ、しゅきぃ……」
顔を真っ赤に染めたリュディガーは両手で顔を覆い、完全に破壊された語彙でそれだけを呟いた。
幸せ過ぎて今夜は眠れないかもしれない。
パン作りは意外と体力仕事だが、筋トレで培った逞しい腕で精一杯パン生地を捏ねてよかった。やはり筋肉。筋肉は全てを解決する。
そんなことを考えながらムキムキのメイドが両手で顔を覆って俯いたままモジモジしている姿を見て、アビゲイルはまた少し笑うのだった。




